さよならのこころ scene06:さようなら

2008.02.15
 やわらかい風が、いくつもの花のにおいを運んできた。薄いクリーム色のカーテンが揺れる。
 胸に赤やピンクの花をつけた卒業生たちが、校庭を彩る。記念写真を撮ったり、肩を抱き合い、花束に顔を埋め、泣き、そして笑う。そこから巻き起こるやさしい風が、たくさんの花から、そっと香りを運んでくる。
「直樹くん」
 呼びかけられて振り向く。教室の入り口に、井上蒼子が立っていた。いつものように、長い黒い髪を、ポニーテールにしている。いつもと違う卒業式用のワンピースが大人っぽくて、どきっと心が揺れた。
 井上さんが、ぼくの隣に立つ。にぎやかな校庭へと視線を落とす。男子が数人、卒業証書の入った筒で、叩き合っている。
「大地くんも、卒業できたんだって?」
「え、あー、うん。そうみたい」
 ぼくは、ズボンの左側のポケットに触れた。大地のケータイは、いつもそこにある。
「わたし、バレンタインに大地くんにチョコあげたんだ」
「え?」
「ずっと前から、好きだった。でも返事もらう前に、ね」
 言葉が途切れる。井上さんのまっすぐで大きな黒い瞳が、滲んだ。それから、ちょっとだけ瞼を閉じる。井上さんの横顔を、春の風が撫でた。黒髪の先が揺れた。
 その瞼の裏に、今、大地がいる。
 ぼくの中だけでなく、きっとみんなの中に、大地がいるんだ。
 井上さんがまっすぐに空を仰ぎ、それからぼくを見た。
「あのときはありがとう。さようなら」
 井上さんが歩いていく。ポケットの中で、ケータイを握りしめる。
「大地なら」
 ポニーテールがさらっと揺れた。
「大地なら、井上さんのこと、好きだったと思うよ」
 大木さんの前で、なにも言い訳しない井上さんはカッコよかった。自分で髪を切って、まるで魔法みたいにぜんぶを終わらせた。すごくカッコよかった。あのとき、大地とちょっと似ていると思ったんだ。
 井上さんが笑った。初めてみる笑顔だった。
 ケータイがブルブルと揺れる。取り出して、耳にあてるのと同時に口を開く。
「大地! おまえ、大事なことは始めからいっとけよー」
「ごめん、ごめん」
 ケータイの向こうで大地が笑う。
「井上さんに、好きだって言っちゃったよ」
「うん」
「ほんとに、好きだった?」
「直樹ならわかるだろ」
「うん」
 校庭に、井上さんを見つけた。長身だから目立つ。クラスの女子と写真を撮っている。笑ってる。大木さんが、井上さんに近づく。言葉を交わす。大木さんの顔は、まだちょっと角張っていた。でも、抱え込んだ痛みなど、ここに捨てていけばいい。痛みさえいつか、懐かしくなったとき、また自分の中に大切にしまえばいいんだ。
 ぼくは大地のケータイを左耳と肩の間に挟んでみた。
「大地、おまえ、なんで消えなかったんだ?」
「消えて欲しかった?」
「バカ」
 ケータイの向こう側で、くっくと笑う音がする。
「きっと理由があるんだよ」
 大地がいった。
「そんなもの、なくていいよ」
「ずっとここにいろってか?」
「ぼくがいいっていうまではね」
「なんだ、それー?」
 大地が笑う。ぼくが笑う。風が笑う。枝を揺する。
 今朝、川沿いの桜並木に、ぽつぽつと白い淡い花がついていた。白く霞んだ空の中で、柔らかい風に揺れていた。
(了)