はなのこころ

2008.02.19
 白い光が、花びらの群れを通り抜けて落ちてくる。春三月。柔らかい午後だ。
 ポケット中のケータイが、ブルブルとぼくを呼ぶ。
「もしもし」
「直樹? いまなにしてる?」
 ケータイから明るい声が溢れてくる。まだちゃんと繋がっていることを確かめて、ぼくはそっと息を漏らす。
「大地」
 一ヶ月と少し前、大地は事故で死んだ。
 真夜中の電話がそう告げた。
 そのわずか数時間前に、ぼくと大地は、遊びで遺書を書いた。大地が書こうと言い出したのだ。唐突だった。ちょっと変人な大地らしいといえば、らしい。けど、予感があったのかもしれない。
 ぼくが気に入っていた大地のケータイは、遺言どおり、大地のお葬式の日にぼくの手にやってきた。
 鳴るはずのないケータイが鳴ったのは、その夜のことだ。うとうとしていた。ケータイが震えた。無意識に耳にあてたケータイから、死んだはずの大地の声が響いた。
 遺言を書いたその日に大地が死んだ。その事実を受け入れられなかったぼくは、代わりにケータイの向こう側の大地を手に入れた。
 大地は、ケータイの向こうにいる。
 これはリアルだ。
 大地が笑う。声変わりしたてで、まだほんの少し掠れているその笑い声も、「直樹」とぼくを呼ぶ声も、息づかいも、ぜんぶ生きているときのままだ。
 ケータイの向こうで、大地は確かに生きている。
 死んだはずの大地とケータイで繋がる。どう考えても、あり得ない。気味が悪いかもしれない。けれど、ぼくは大地を失いたくなかった。どんな形でもいいから、大地がいてくれたらそれでよかった。なぜと考えるよりも先に、すべてを受け入れた。
 このケータイは、大地がここにいる唯一の証だ。
 大地の遺したこのケータイがぼくを呼ぶたびに、ぼくはこうして息をつく。まだ、繋がっている。大丈夫と、そっと息を吐き出す。
「いま、川沿いんとこ。本屋、行こうと思って」
「桜、咲いてるか」
「うん。ちょうど満開だよ」
 足をとめ、空を仰ぐ。
 桜木の枝は、これでもかというくらいの花びらを携え、風に揺れている。川の両岸から川面へと、重そうに傾ぐ。あたり一帯をぼんやりと白く染め、花弁で陽の光を弾く。風が止まると、わずかに、桜のにおいがする。
「そっか」
 言葉の後に、大地の呼気がかすかに伸びた。
 大地は、ぼくの世界を見ることはできない。大地も同じケータイを持っていて、それを通じて、会話ができるだけだ。夢みたいなこの淡い世界を、大地はもう二度と見ることはできないのだ。
 小さな橋のたもとで、ケータイを左耳にあてたまま、覆い被さるような枝を見つめていた。
 すぐ背後で、ちろーんと、ケータイカメラのシャッター音がした。大学生くらいのお姉さんが、桜の枝先を撮していた。
 写メ、いいかも。
「大地、写メ、送ってみようか」
 思いつきでいってみる。
「どうやって? おれのケータイは送れないだろ」
「ぼくのケータイから大地のケータイに送ってみる」
「ダメなんじゃん? だって、直樹のケータイからはこっちにかからないんだし」
 そうだ。ぼくのケータイからは繋がらない。大地からしか繋がらないのだ。
 少なくとも、これまでは・・・
 もう一度、仰ぐ。
 花を見て、小さなころから、思うことがある。この季節、一斉に花開くこの桜木を、魔法のようだと思う。咲きほこる白の世界に、力を感じるのだ。
 咲き始めてから二週間もすれば、葉桜になる。夏のあいだ、緑の濃い陰を落とし、秋にはあっというまに丸裸になり、冬はそっと息をひそめ、そして春、また花開く。これでもかと、花開く。道ゆく人の視線も、心も、ぜんぶ奪って、秀麗と呼べるほどに整った美しさを見せつける。
 花を咲かせるために、散り、葉を付け、落とす。それを繰り返してきた。ぼくが生まれるよりもずっと前から、そしてぼくがいなくなったあともずっと、繰り返すのだ。
 ここには力が溢れている。だから届くかもしれない。
「ま、やってみれば。おまえ、その顔に似合わず頑固だから。やってみないと気が済まないんだよな」
「なんだよ、顔に似合わずって」
「ははっ」
 大地が笑う。笑いの波動が耳をくすぐる。
「じゃあ、ちょっと待ってて。これから撮って送るから」
「はいはい」
 大地のケータイは左耳と肩ではさんだまま、ぼくのケータイを取り出す。いま、目の前に広がる白の世界をケータイの中へと閉じこめる。まだ消していない大地のメールアドレスを呼び出す。
 神さま、どうか。
 この春を、大地に届けてください。
 送信ボタンを押すときに、強く強く祈る。
 ピッ。
 送信完了のメッセージが流れる。こっちの世界の大地のケータイは、とっくに契約が切れていて、どこにも繋がらない。届かないメールが宛先不明として、戻ってくるだけだ。
 風が枝を揺らす。わさわわと、花弁を揺する。薄い花弁が重なり合う音が、周囲から押し寄せてくるる。風の波が、耳元を吹き抜ける。
「あ」
「あ」
 大地とぼくが、同時に声をあげた。
「直樹、きた」
「大地、戻ってきちゃった」
 また声が重なる。
「え? 大地、なんて?」
「届いた! 桜の写真、届いたっ!」
「うそっ!」
「すっげー、きれいだー」
 大地の掠れた息が耳にこだまする。
「真っ白だ。いつも思うけど、花の重みで、折れそうなくらい枝が曲がってんのに、ぜったいに折れないんだよな」
「ほんとに届いてるんだ。ぼくんとこには戻ってきちゃったけど」
「そりゃそーだ。あの世に写メ送ってくれるケータイ会社なんて、ないよ」
「あの世っていうな。大地がいるとこは、そんなとこじゃないよ」
「うーん、おれにもよくわかんないんだけどさ」
「でも、届いたんだ」
「届いたな。さすが、おれのケータイ」
「なにそれー」
 笑いながら、左手のケータイを握りしめる。
 いま、大地もケータイの向こう側で、きっと同じことをしている。ぼくらを繋ぐケータイを、確かめるように、ぎゅっと握ってる。
 互いの指が、大地のケータイで繋がっていく気がした。
 枝先がまた揺れる。その先から、一片、白が散る。ゆるゆると回転しながら、川面に落ちて、あとはゆっくりとその身を任せて流れていく。
「直樹、もっといろいろ送ってよ」
 大地がいった。
 花弁の拡大写真。枝先の小さな鳥。よく一緒にいった本屋の店先。本屋で買ったマンガ雑誌。大地の好きだった連載もののマンガの今週分のページ。近所の飼い犬のロボ。ぼくん家のマンション。絡み合うような電線。紅に染まる空。そして、ぼく。
 うまく笑えなくて、ちょっと引きつった顔になった。
「直樹」
「うん?」
「おまえの写真、壁紙にしていい?」
「キモいからやめてください」
「いいじゃん、誰にも見えないんだしー」
「やだやだ。あー、送るんじゃなかった」
「よっと、設定完了!」
「ばかやろう!」
 大地が笑っていた。
 どこかから、白い花びらが飛んできて、空の中で、くるりときれいな円を描いた。
(了)