ある日のある陽

2011.03.21
 某街の某裏通りの某雑居ビル。
 相も変わらず、その入り口にはゴミが吹きだまり、エレベータは故障中のままだ。
 その怪しいビルに、何の躊躇いもなく飛び込んでいく小さな人影が一つ。
 ゴミや段ボールなどが積み重なり、蛍光灯が瞬きを繰り返す暗い階段を、野球帽を被った少年が、軽やかな足取りで駆け上がっていく。
 斜めがけしたメッセンジャーバッグが踏み出した足に合わせて少年の背中で上下に揺れ、右手に提げた不透明のビニール袋ががさがさと音をたてる。帽子からはみ出た茶色いくせ毛が、ふわふわと揺れる。
 この場所に似つかわしくない、爽やかな風が通り抜けるかのごとく、最上階である七階まで一気に駆け上がると、看板も表札も何もないドアを開いた。
 ほこり臭い室内に、いつものように一つしかめっ面を作ってから、少年は野球帽とジャンパーを脱ぎ、カバンと一緒に、ソファの上に置いた。
 その正面、ローテーブルを挟んでもう一つ置かれているソファの上で、ベージュの毛布がもぞもぞと動く。
 少年は、ちっと軽く舌打ちすると、テーブルを回って、動く毛布に近づいた。
「おい、おっさん、いつまで寝てる気だよ?」
 毛布に向けて放たれた少年の声は、低く冷たい。朝起きて、学校に出かけるためにこの部屋を出たときと、まったく変化していない状況に、苛つく心を抑えられない。
「んん〜」
 毛布の中から返ってくるのは、くぐもった音だけ。
「もう昼回ってんだよ! このグータラがっ!」
 少年の肘が毛布目掛けて打ち下ろされる。どこにあたったのか、ぐふっという鈍い呻きがあがる。
「おい! 小僧!」
 何しやがる! と、はね除けられた毛布から出てきたのは、少し伸びすぎたボサボサの髪に顔半分が隠れた二十代半ばとみえる青年だった。寝癖でぐちゃぐちゃになった髪はあちこちで縺れ四方八方に散っており、着ている黒いTシャツは洗濯のしすぎか色が褪せ、首の辺りが伸びきっている。
 男の名は、九条湊。
 とある世界でその名を知らぬ者はいないという、ある意味で有名人だ。
「俺はね、疲れてるんだよ。怪我もまだ治ってないんだからな」
 ここを見ろというように、湊は少年の前に左手を突き出した。
 そこには白い包帯がぐるぐると巻かれたミイラのような手があった。
 先日の「人知らずの藪」事件で、「嫉」と呼ばれる怪異を追い払ったときに受けた傷だ。
 その事件をきっかけに、怪異よりよっぽど怪しいこの事務所に押しかけ同居することになった少年は、家主である湊を見下ろして、冷たい視線を送った。
「あっそう。じゃあ、湊さんはお昼ご飯、いらないんですね」
 少年は、わざとらく湊さんと呼んだりして、慇懃無礼な口ぶりで言った。もちろん、いつもはそんな風に呼んだりは絶対にしない。
「えっ?」
「今日はオムライスだったのになぁ〜。しかもデザートはクリームソーダ。残念だなぁ〜、せっかく湊さんのために、バニラアイスを仕入れてきたのに。食べられなくて可哀想だなぁ〜」
 くるりを背を向けた少年に、包帯だらけの湊の手が伸びる。
「あの・・・ちょっと待て。小僧!」
「は?」
「じゃなくって、ユウキ君!」
「なんですか? 湊さん。僕、これから昼ご飯の支度しなくちゃいけないんで、放してくださいよ」
「俺も食べる」
 十以上も年下の少年に向かって、昼飯を作ってくださいとも言えず、ぶっきらぼうな言い方になった。
 湊に背を向けたままのユウキ少年の唇が、にぃ〜っと上につり上がったのを、湊は知らない。
「それじゃあ、すぐに起きて、顔洗ってこい。窓を開けて空気を入れ替えろ。テーブルの上も片付けておいて」
「えー」
 態度急変、命令口調になったユウキの背に向かって、湊が上目遣いで睨み付ける。が、そんなことはユウキはお構いなしだ。
「食べたければ、働け」
 男らしく言い切ると、ユウキは小さなキッチンへと足を向けた。床に積まれた本や雑誌の山を器用にするする避けながら・・・。
 その背後で、ガタガタと立て付けの悪い窓ガラスを開ける音がした。

 窓を開けると、視界の半分は薄汚いビルの壁で、もう半分はビルの隙間を縫うような空間が広がっている。下から、週末の街を駆け巡る喧噪が壁を伝い上がってきた。
 湊は、窓に寄りかかるようにして腕を組み、ぼんやりと空を見上げた。
 上を見ても、いくつものビルが空を四角く切り取っていてやはり視界は息苦しい。けれど、太陽の光はこの汚い事務所にも等しく訪れるようだ。
 弱々しく降り注ぐ秋の陽光に、わずかに目を細める。
 瞼の裏に、柔らかい温度を感じる。
 久しぶりだな、と思った。
 窓を開けて、太陽を浴びて、キッチンからの旨そうな匂いと音を聴きながら、ぼんやりするなんてな。
 自分一人だった頃は、ここを訪れる者はごくごく限られた者たちだけで、彼らは手土産もなしに、いつだって厄介な問題を持ち込んでくるばかりだった。
 今回も、始まりは同じだった。
 昔の馴染みの孝元が連れてきた少年は、総本山の天才少年とはいえ生意気なガキだった。
 助けろと頼まれた対象は、十六歳のこれまたガキの巫女で。
 子ども二人を連れて、化け物退治をすることになった。
 依頼が片付けば、もう二度とは会わない。これまでと同じだと思っていたら、気づけば、この事務所に居着いていた。
 顔を洗え。
 窓を開けろ。
 片付けろ。
 そんな小言に毎日追い回される日々が、もう二週間も続いている。
「なんなんだろうね、これは」
 湊はぽつりと呟いた。
「おっさん! もうすぐできるよ。机、片付いてる?」
 キッチンからユウキの声が飛んでくる。
「今、やってる」
 十歳の子どもに命令されて、掃除をする自分が解せない。
 それでも、ユウキが作った少しいびつなオムライスが、ぶっきらぼうにデンっと置かれれば、そんな疑問も霞んでしまう。
「何、笑ってんのさ」
「どこで覚えたのかと思って」
「ばあちゃんの見よう見まねだけど」
「そうか」
 それから二人は、ローテーブルを挟んで向き合い、黙々とオムライスを食べた。
 デザートのクリームソーダは、比率が重要なんだと、湊が難しい顔をしながら作った。
 ぶくぶくと泡立ち、溢れそうになるクリームソーダを慌てて啜る二人の鼻の頭に、アイスクリームがくっついていた。
 少年の笑い声が、薄汚い事務所に明るく響いた。
 こんな日があっても、悪くはないかもしれないな。
 湊はユウキの鼻の頭にティッシュを押しつけながら、なんとなくそう思った。
 さらりとした風が、部屋を駆け抜けた。
 そこには午後の陽が、溢れていた。
(了)