七時を過ぎている。
「明日、また来ますね、先生」
と、にこやかに告げて沙耶が帰ってから、三十分が過ぎた。窓の外にはネオンが瞬き、すでに酔っぱらいが横行する時間を迎えている。
目の前のソファには、未だ寝転んだまま、腰を上げようともしない小学生がいる。
嫌な予感がする。
勘違いであってくれと神でも仏でもない何かに願いながら、湊はついに耐えきれなくなって、問うてみることにした。
「おまえ、まさか、ここの住むつもりじゃないよな?」
「まさかじゃなくて、住むつもりだけど?」
何か問題でも? という言葉を、ユウキはまだ幼い顔に張り付かせて、ソファに寝そべったまま湊を見上げた。
「なんでだ?」
「孝元さんからの手紙、読まなかったの?」
「いや、読んだが」
「僕の話、聞いてなかった?」
「聞いてはいたと思うが」
「じゃあ、察してよ」
「察する察しないの問題じゃない。ここは俺の部屋だ。ガキと同居なんてまっぴらゴメンだ」
ユウキは、大きく一つ溜息をついてから、読んでいたマンガをぱたんと閉じた。
「ねえ、おっさん」
「おっさんじゃない」
「孝元さんにいくら借りてたの?」
十歳の子どものそんな一言に黙り込んだ湊の前で、ユウキはにやりと笑った。
それから徐に立ち上がると、孝元に運んでもらった大きなスーツケースを転がし始める。
「どこへ行く?」
「奥の部屋にベッドあるんでしょ? 僕、今夜からそこ、使わしてもらうから。荷ほどきしてくるよ」
「は? 何を言ってる。それは俺のベッドだ」
一応の抵抗を試みる湊だが、ここ数日、行動を共にした経験から、この小悪魔には何を言っても無駄な気がしてきていた。
案の定、ユウキはにっこりと可愛らしく笑うと、
「僕の生活費、総本山から毎月支給されるって、孝元さんが言ってたよ。家賃と生活費合わせて十五万円くらい。良かったね、定収入ができて。暇な零能者さん」
と言った。
ユウキは茶色い髪の毛をふわりと揺らして、湊に背を向けた。ガラゴロと高級そうなスーツケースを押して、奥へ向かう。
「俺はガキの面倒なんて、みないぞ」
「ご心配なく。自分のことは自分でできるから」
ひらひらと手を振って、ユウキは奥の部屋へと姿を消した。
「ほんとかよ」
一抹の不安が過ぎるが、それすらも面倒くさくなって、ソファの上に細身の身体を投げ出した。
視界を半分くらい覆っていた前髪が、ぱらりと後ろへ流れ落ちる。元は白、今は薄汚れて灰色になってしまった天井がよく見えた。奥の部屋から、いつもなら絶対にしない、自分以外の人間のたてる物音が漏れてくる。
一応ベッドルームのつもりだが、壁は本棚で埋まり、床にも溢れた本がホコリと共に積み重なっている。ベッドと本棚と本しかない部屋だが、さぞや掃除が大変だろう。
湊がふっと小さく笑ったとき、携帯が震えた。
自分のではない。ユウキのだ。ソファの上に置き忘れている。音はなく、バイブレーションだけだから、奥で本と格闘中のユウキには聞こえていないだろう。
湊は存在を主張しつづけている携帯に、長い腕を伸ばした。
ストラップも何も付いていない白いシンプルな携帯だ。ディスプレイには「孝元さん」と表示されている。
「相変わらず心配性だな」
思わず、溜息が出た。
湊と孝元は、古い付き合いだ。理彩子も一緒に、三人で怪奇退治をしていた過去がある。
その頃から孝元は何かと面倒見のいい坊主で、湊が無茶をして怪我をしたり体調を崩したりすると、すぐに飛んで来た。
今もそのお節介は変わってないらしい。対象が湊からユウキに変わっただけのようだ。
数時間前、ユウキとともにやってきて、湊に向かって「ユウキ君をよろしく頼みます」などと頭を下げていたのだ。帰るときは、心配そうにユウキの頭をなで回していた。
あの「よろしく」が「同居する」という意味だったのだと、あのとき見抜けなかった自分に歯がみしたくなる。が、もう後の祭りだ。それに、元々、食べる寝るなどの生活にあまり頓着しない性格なので、一人増えようがどうでもよかった。ノラ猫が一匹、迷い込んだと思えばいい。猫なら散歩も不要だ。
湊は急に興味を失って、ユウキの携帯をソファの上に投げ出した。呼び出しはすでに止まっていた。
が、すぐに別の携帯が鳴り始めた。自分のだ。ディスプレイを見て、ぷっと吹き出す。
細く骨張った指先で受信ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
「ほんとに心配性だな、孝元は」
『ユウキ君はいるかい? 電話したんだけど、出ないんだよ。まさか追い出したりしてないよね』
湊の言葉などまるで無視な孝元の物言いに、ちりっと胸が鳴る。
「さあね。今、ここにはいないみたいだけど?」
『大人げないよ、湊君。奥で荷ほどきでもしているんでしょう? 声かけてくれるかな』
「監視カメラでも付いてんの? ここ」
『ははっ、違うよ』
思わず、周囲を探ってしまう湊が見えているかのように、『探さなくても大丈夫だよ。総本山もそこまでえげつなくないから』と、電話の向こうで孝元が笑う。
ほんとに付いてんじゃないのか?
孝元の言葉がもはや信じられない。
湊はもさもさの後頭部に指を入れ、ガリガリと引っ掻いていると、耳にあてた携帯電話から、穏やかな孝元の声が届いた。
『君のことなら、見えなくたってわかるよ』
「・・・」
瞬時に、全身から力が抜けた。
湊の手から携帯が滑り落ちる。固い床の上でカターンと弾み、ローテーブルの下へと滑っていく。
『・・・した? 何かあったかい? 湊君?』
孝元の声が遠く小さく響いてくる。
思わず足を伸ばして、携帯を踏みつけた。運良く通話ボタンが押され、孝元の声が途切れる。
「あの生臭坊主・・・絶対、タラシだ・・・」
柔らかく笑う孝元の穏やかな顔まで思い出されて、湊はまるで逃げ出すように頭を抱えてソファの上に蹲った。
その顔が赤く染まっていることを、奥の部屋で、湊の本と格闘しているユウキは知るよしもなかった。
(了)
有能な零能者も、無償の愛には弱い。こんな構図が大好きです。そして孝元さんは自覚症状なしのタラシだといいな、というお話。