生温い液体がこめかみから頬を伝っていく不快さに、思わず眉をしかめた。
視線の先には、紅い水溜まり。
蛍光灯の明かりを弾いて、ぬらぬらとその面積を広げていく。
「っ!」
すぐそばで、誰かがしゃくりあげた。その気配の方へと、ゆっくりと視線を向かわせる。
身体は冷たい床に投げ出したまま、視線だけを上げる。
そこには、真っ青な顔の少年がいた。
ぺたりと床に座りこみ、全身を震わせ、怯えた顔で俺を見下ろしている。
その口は、何かを言わんとするように動くのだが、出てくるのは、言葉にならない泣き声ばかりだ。
ユウキ。
見たところ、どこにも怪我はないようだった。
無事で、よかった・・・と心から安堵し、ふっと笑みがもれた。
ユウキの大きな目から、涙がぼろぼろとこぼれた。
おまえ、なんでそんなに泣いてるんだ?
そう問いたかったのに、俺の口もうまく動かなかった。
微かに動いた俺の唇に気づいたのか、ユウキが震える両手を床についた格好でずるずると近づいてくる。
「み、なと、さん」
擦れた声で、ユウキは俺の名を呼んだ。
なんだよ?
いつもはおっさんなんて、遠慮なしに呼ぶくせに、何、名前なんかで呼んじゃってるの?
それって、新手のいやがらせか?
「みなとさん・・・みなとさん」
ユウキは、俺の名を呼び続けた。
一体、なんの嫌がらせだろう。
けれど、涙腺が壊れたみたいに大粒の涙をこぼしているユウキを見ていたら、どうでもよくなった。
ただ、その涙を止めてやりたくて、俺は必死に口を動かした。
「だ、大丈夫・・・大丈夫だから・・・」
それでもユウキは泣き止まなくて。
重い腕を持ち上げて、ユウキへと伸ばした。
「湊さんっ!」
縋るように身を乗り出してくるユウキの頭に、そっと触れた。
茶色い猫っ毛は思った以上に柔らかくて、フワフワの猫を撫でているようだった。
陽だまりの匂いがした。
ほんとに猫みたいだな、おまえは。
俺は小さく笑った。
「大丈夫だから、もう、泣くな・・・」
み・な・と・さ・ん
ユウキのくちびるは、確かにそう言ったはずなのに、俺の耳には届かなかった。
俺の意識は、そこで途切れた。
目を覚ますと、見慣れない天井が俺を見下ろしていた。
古いけれど、美しく手入れされた板張りの天井は、ひどく高い。
視線を滑らせていくと、天井からすぐの壁には細かい細工を施した透かし彫りの欄間があり、その下には長押、鴨居と続き、襖があった。優しい白地の襖には、花をつけた桜の絵が描かれており、散っていく花びらとともに、金銀の箔がちりばめられている。
部屋全体は、十畳以上はあるだろうか。
イグサの香りを放つ畳は、張り替えられてからそれほど時が経っていないことを示している。今は春だから、年末の大掃除時に替えたのだろう。
その部屋の真ん中に敷かれた布団の中に、俺は寝ていたようだ。
床の間に飾られた掛け軸や、生け花の入った器など、寝たままの姿勢で視線の届く限りどこを見ても、今どき手に入らないだろう高価なものであることが、ぼんやりとした意識の中でも理解できた。
どこだ? ここは。
襖とは反対側の壁は、一面、障子になっており、外は明るかったから、昼間なのだとわかった。
いつから寝ていたんだろう。
ゆっくりと戻ってきた意識はやがて、頭部を締め付ける異物に気づいた。
布団から手を伸ばして触れてみる。
包帯か。
かすかに消毒液の匂いもする。
すんと鼻を動かしたら、右側頭部にずきんと痛みが走った。
痛みとともに、記憶がフラッシュバックする。
泣き顔。
紅い血溜まり。
衝撃。
思い出した痛みに、身体がびくりと反応して、上半身を起こしかける。
ああ・・・そうか。
俺は、軽く息を吐き出して、柔らかい布団の上に起こしかけた身体を投げ出した。
あのとき俺は、ユウキに強請られて、事務所の高い棚の上にある本を取ろうとしていた。
けれど、古い棚はちょっと触れただけで、ガタガタと嫌な音をたて始め、やばいと思ったときには、棚を支える部品が外れた。
俺は、咄嗟に下にいたユウキを庇い、直後に頭や身体に強い衝撃を受けて、倒れ込んだのだった。
一瞬、意識が飛んだ。
気がつくと、青い顔で泣き続けるユウキがいた。
怪我がないことに安心したが、頭から血を流して倒れて動けないでいた俺の前で、怯えるばかりだった。
そんなあいつを見たのは、始めてだった。
あいつはいつだって、俺の前では、意地を張り続けていたから。
小学生のくせに、強がって。
役に立とうとがんばりすぎて。
そんなあいつが、大粒の滴を零し続けるものだから、俺は少しばかり動揺してしまったようだった。
痛くて慰められるべきは俺の方だったけれど、泣きじゃくるユウキを慰めてやりたかった。
手を伸ばして、猫っ毛の頭を必死に撫でた。
柄にもなく。
でも俺が覚えているのは、そこまでだ。
誰が手当してくれたのか、ここはどこなのか。
そばにいたのがユウキだったのだから、おおよその検討はつくけれど。
「まさか、消毒液振りかけて、包帯巻いただけじゃなうだろうな」
一応、頭とか打ったし、血も出ていた。普通は精密検査とかするだろから、病院のはずだ。
だが、ここはどうみても、何代も続く高級旅館の一室か、あるいは格式ある家の客間だ。
あるいは、古い寺の居室か。
たとえば総本山の。
自分の仕事と縁が深いとはいえ、なぜか、敵地に捕らわれた捕虜の気分になった。
快適だった布団の中が、急に居心地が悪くなって、小さく身じろぐ。
すでに捕らわれているなら、今更、ジタバタしても始まらないと、自分に言い聞かせてみる。
まあ、ここがどこかは、起きればわかるだろう。
願わくは、高級旅館でありますように。
小さな祈りを込めながら俺は、仰向けの身体をゆっくりと左に向けた。棚から落ちてきたもので打ったのか、背中がズキンと痛んだけれど、構わず肘をつき上半身を起こす。
そして、真っ先に俺の目に飛び込んできたのは、茶色のフワフワ毛玉。
猫。
ではなく、猫っ毛のあいつだった。
ユウキが、俺が寝ていた布団に突っ伏して軽い寝息を立てている。
総本山の秘蔵っ子が、パーカーにジーンズという、純和室には似つかわしくない格好で、上半身を布団の上に投げ出して、スヤスヤ眠っている。
身体はうつ伏せなのに、首だけは俺の顔があった方をむいていて、窮屈そうだ。
その顔を覗き込んでみる。
今まで、数ヶ月、一緒に暮らしてきたけれど、寝顔なんてマジマジと見たことがなかった。
閉じた瞼を飾るまつ毛が長い。頬はピンクで、少しだけ開いた口の端からヨダレが流れて、布団カバーにシミを作っている。
どこからどうみても、「寝ないで看病してました、でももう眠さ限界です」風の姿に、自然と笑いが零れた。
悪かったと、自分を責めているのだろう。
あのとき、面倒くさいと十回くらい断ったけれど、どうしてもと強請られて、何年も手をつけておらず放ったらかしだった棚に手を伸ばしたのだから。
でなけれなこんな風に看病なんてしない。
俺なんかのために。
大の大人だって逃げ出すような怪異の前に、たった一人で立ち向かうことができる強さと、小さな身体を震わせてボロボロと泣きじゃくり、自責の念からそばを離れることができない純粋さ。
そのギャップに心が揺れる。
生意気なガキでしかなかったユウキが、可愛らしくさえ思えてくる。
「頭の打ち所がわるかったかな」
なんとなく素直に認めたくなくて、一人ごちていると、障子の向こう側で黒く大きな影が動いた。そのシルエットには見覚えがある。
その影は躊躇いなく障子を開いた。
「あ、目が覚めてたんだね。湊くん」
開いた障子の向こう、明るい日差しを背負った坊主は、孝元だった。
「やっぱり総本山だったか・・・」
「大丈夫?」
小さな舌打ちの後のしかめっ面を、孝元は傷の具合が悪いのだと判断したのか、音もなく布団の側まで寄ってくると、包帯の巻かれた頭へと手を伸ばした。
孝元の手をやんわりと退けながら、問うた。
「なんで、俺、総本山にいるわけ?」
「ユウキくんから連絡をもらって、すぐに病院に運んで、手当してもらったんだけどね。ユウキくんが自分で看病したいからって、こっちに連れてきたんだよ。ほら、病院は付き添いできないから」
孝元は、布団の上で眠っているユウキを愛おしそうに見つめた。
その目がはっきりと告げている。
ユウキくんは、なんて健気でいい子なんだろうと・・・。
小さいときから面倒を見ているせいか、血も繋がっていないくせに、孝元の親バカっぷりは目に余るものがある。
「俺は病院の方が良かったけど」
ぽそっと呟くと、孝元はまたも勘違いした。
「あ、傷の方は大丈夫だよ。三針縫ったけど。レントゲンとかMRIとか、問題なかったから」
なんだ、ちゃんと検査はしてくれてたわけだ、と一応、安心しつつも。
「そういう問題じゃなく」
と、再び眉を顰めてみせると、孝元は「ああ!」と笑顔をつくり、膝をぽんっと打った。
とても嫌な予感がした。
この男は根っからの坊主だから、疑うことをせず(疑うことができないわけではない)、なんでも良い方へ考える。
そのせいで、余り嬉しくない状況に追い込まれたことが、何度かあった。
止めなければ。
この男が暴言を吐く前に、全力で止めなければ。
「こ」
孝元という言葉は完全に塗りつぶされた。
「湊くんは、照れているんだよね。ユウキくんに心配して貰えて、嬉しくて。羨ましいよ、こんなに心配してもらえて。あ、でも元はといえば、ユウキくんのせいだったね。本当に申し訳ない」
頭を下げる孝元。
がつんと頭を殴られたような衝撃が走り抜ける。
「照れてない! 嬉しくない! うらやましがるな!」
思わず叫んでしまった。
その声で、寝ていたユウキが目を覚ま。
「んん〜・・・あれ? 孝元さん? なんでここにいるの?」
寝ぼけているのか。
のそりと身体を起こしたユウキは、明るい障子を背に座っている孝元を、眩しそうに目を擦りながら見上げた。
孝元はニコリと笑ってその視線に応えている。
そして、ユウキの視線が流れて、俺を見つけた。
瞬間、その顔が真っ赤に染まった。
「え?」
思わずたじろいだのは、俺の方だった。
「み、なとさん・・・?」
頬どころか、耳まで真っ赤に染めたユウキが、ぷるぷると身体を震わせたかと思うと、襖を突き破る勢いで部屋を飛び出した。
言葉にならない叫び声をあげながら、騒々しい足音とともに、遠ざかっていった。
置き去りにされた俺はといえば、ニコニコと嬉しそうに笑う孝元の前で、居たたまれない気持ちで顔を布団に埋めた。
「二人とも照れ屋だなぁ」
余計なことを言うなと叫びたかったけれど、顔をあげられなかった。
結局、俺は、その後一週間も、総本山で過ごしてしまった。
ユウキのせいで怪我をしたのだから、せめて抜糸までは世話をさせてくれと、孝元に頭を下げられたのだ。
断ると余計に面倒くさそうだったのと、出てくる食事がまあまあ旨かったので、居座ることにした。
俺が目を覚ました後に脱兎の如く逃げ出したユウキは、その後、数時間後にようやく部屋に現れ、「ごめんなさい」と頭を下げた。
俺が黙ったままでいると、白い包帯を見つめるユウキの瞳が、またじわじわと潤んできた。
なんだか小さな子どもを虐めているような気がしてきたので、俺は大きく溜息を一つつくと、もういいからと言った。
「大丈夫だから、気にするな」
手を伸ばして、茶色の頭をかき混ぜた。
あの時のように。
「いつもの生意気なガキに戻っていいぞ?」
冗談めかした俺の言葉に、ユウキは「生意気なガキじゃないっ」とぷいっと頬を膨らませた。
それでも、頭をくしゃくしゃと撫でる俺の手を振り払ったりはしなかった。
どうやら二度目は、宥めることに成功したみたいだった。
ちなみに俺が寝泊まりしていた部屋は、総本山でのユウキの寝室だった。
どう見ても、十歳のガキの部屋じゃない。
あの桜を描いた襖とか、重要文化財に指定されてもよさそうな年代物だ。
どうやら甘いのは孝元だけではないようだ。
総本山のユウキの可愛がりように、俺はまた溜息をついた。
(了)
ユウキと湊と孝元。この三人が絡むのが好きみたいです〜、わたし。でも別に湊はショタじゃないです。でもユウキは、湊に憧れているといいな、もちろん純粋に!(笑)
ユウキって、湊のところに来るまでは、どこで暮らしていたのだろうって思うのですけど。ここでは思いっきりねつ造して、総本山の立派なお部屋で暮らしていたことにしてしまいました。
少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
ユウキって、湊のところに来るまでは、どこで暮らしていたのだろうって思うのですけど。ここでは思いっきりねつ造して、総本山の立派なお部屋で暮らしていたことにしてしまいました。
少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。