「今年も豊作だな」
「ああ。秋になればうまい飯が食える。病もねえ。ほんとによい地だ」
土にまみれ、しわを刻んだ顔を歪ませて、笑った。
青田を見下ろす小山の中腹に、神庫があった。参る人はいない。そこに住むべき神も、とうに絶えていなかった。
「ほむら」
人の声がする。叢草が揺れる。三角に尖る耳が、ぴしりと草を叩く。
「ほむら」
仄かな声が、再び喚ぶ。青緑の狗尾草をかきわける、そらそらとした音が近づく。ほむらは、金の尾を揺らした。草が割れ、あらわになる。人の子と獣がまっすぐに向き合っていた。
金の毛が陽に煌めき、光を散らす。人の子が光を受けて笑む。
ほむらは、山の神といわれた一族の血を受け継ぐ若い狐だった。この小さな人の子だけが、ほむらを知っていた。十にも満たない子どもだけが、たった一人、この地に神はいないことを、知っていた。
子の名を、あさひといった。
あさひは小さな神庫の前に跪く。野で手折ったヒメジョオンの白い花を三つ、神庫の前に供える。ほむらの紫の目があさひへと向かう。
おまえは知っているだろう。
その神庫には、誰もいない。この地を守る神は、消えた。豊かに生きる人々が神を忘れたときに、消えたのだ。
なぜ、祈る。
小さな野を取り囲む高い木々の上で、烏が鳴いた。あさひが閉じていた瞼を開く。黒い目が空へと向かう。烏がまた鳴く。
警告だ。
ほむらには聞こえた。先を視る烏が警告している。渇きがくる。餓えがくる。病がくる。くる。くる。くる。烏がまた高く鳴いた。
「ほむらが神さまなら、いいのに」
ああ、やはりおまえは知っているのだ。
間もなくやってくる厄災も、神ではないただの狐には、どうすることもできないことも、みんな知っている。
ほむらは小さく息を吐く。あさひも気づかないくらい小さく、どうにもならない息を吐き出した。
強い風が駆け抜けた。枝からは鳥が、叢草からは野ねずみが、一斉に駆けだした。烏が北の空へと翼を広げた。枝が揺れる。叢草が踏みつけられる。ざわざわと、小さなものたちがうごめく。風を起こし、駆け抜ける。
三日たった。
からっぽになった山と野と、あさひとほむらと、そして、なにも知らない人々だけが残った。
「なぜだ」
「なぜ雨は降らない」
「喉が渇いた」
「ああ、熱い。熱い」
田は白茶ける。陽にあぶられ、ひび割れる。稲は乾いた風を含む。絡み合い、共倒れる。人々は呻いた。泣いた。叫んだ。そして死んだ。
一人の若者が呟いた。
「神に祈ろう」
「そうだ、山神さまに祈ろう」
「神庫はどこだ」
「あの山だ」
しなびかけた野菜と、弱ったざりがにと、一握りの粟が、小山の中腹の神庫の前に並べられた。かれらの持てる糧、すべてだった。村の男たち十二人が手を合わせた。その後ろにあさひがいた。あさひの後ろにほむらがいた。数十年ぶりの来訪者たちをみつめていた。御座す神のいない神庫が、狂ったような熱を放つ陽に灼かれていた。
「なぜだ」
「なぜ雨は降らない」
「祈ったのに」
「供え物もしたのに」
一人の年長者が声を低くした。
「足りないのではないか」
「これ以上は無理だ。われわれだって食べるものがない」
「食べ物ではだめなのだ」
「なにが必要なんだ」
「命だ」
長の家に集まった男たち十二人は、命の相談をした。自分と自分の家族がどれほど大切かを、それぞれが説いた。にえなど、出そうという者は一人もいないことなど、初めからわかっていた。
「そういえば」
長が顔をあげた。村はずれの家に、子どもがいた。親はなく、祖母もこの日照りで病を煩い、近頃死んだ。男たちの声は深く、低くなり、闇の色を帯びていった。
「人間どもめ!」
ほむらの紫の目が細く光った。あさひが、神庫の前にいた。両手を白いひもで縛られていた。咆哮が山に轟く。小さな山の頂上から、ほむらは跳躍した。
「なんだ? あの鳴き声は。狐か?」
「いや、山神さまかもしれん。山神さまは、白い大きな狐だと言い伝えがあるからな」
「はやく始末をつけよう」
ほむらの身体は空気を切り裂いて進む。岩を蹴り、大樹を飛び移り、草を散らす。その紫の目が、鈍く光るものを見た。
斧だ。
若者の手に握られた斧が、ぎらめく。やせ細った腕が上がる。あさひは結んだ手にそっとくちびるをあてた。
「あさひ!」
ほむらがあさひを呼んだ。初めてその名を口にした。あさひがほむらを見つけた。笑った。
斧が光る。ほむらが飛ぶ。あさひが笑む。
鈍い音がした。
枯れかけた狗尾草に、一斉に赤い花が咲いた。男たちは今一度祈り、その場を忌むように去っていった。
肉のこげるにおいがする。
あさひの血を全身に浴びていた。血が熱を帯びる。発熱し、ほむらの金の毛を、肉を焼いていく。
なにをしたのだ。
神庫の前に転がるその小さな身体は、急速に冷えていく。もう呼ばない。そのくちびるは、ほむらを呼ぶことはない。その目は、ほむらを見つけない。
人とは、何と愚かなのだ。
毛を伝い、流れ落ちた血の固まりが、ほむらの舌にたどり着く。じわりと広がった。
甘かった。
ほむらの中で、身体と心が引き千切れる音がした。
地を山を揺るがす、轟音が響いた。雷の声となり、どんっと響いた。
「なんだ、地震か?」
「雷か?」
男たちが叢草に倒れる。ざわりと熱い風が揺れただけの、一瞬の間だった。十二人の男たちは、首の肉を食いちぎられ、息絶えていた。
絡みつくように、血がこびり付いていた。人の血が甘く、熱く、におう。ほむらは泉へと身を浸した。澄んだ泉は、すぐに赤く染まった。それでも、底から湧き続ける止めどない清水が、ぬめついた血をすぐに流した。
再び澄んだ泉に映っていたのは、狐ではなかった。全身は白い毛で覆われていた。心臓がどくどくと波打った。
神ではない。
神などであるはずがない。
あさひの両手を結ぶひもを噛みきった。なにかを包むように閉じていた両手から、白い花がこぼれ落ちた。コヒルガオ。カラスウリ。ヤマハタザオ。ヨツバムグラ。そして、ヒメジョオン。白い花ばかりが、いくつもいくつも、こぼれ落ちた。
ほむらが神さまなら、いいのに。
赤く染まった地の上に、あさひの白い言葉が散っていた。声を忘れた。心も忘れた。空を仰いだ。熱く、熱いものが、流れ落ちた。
泣いて、泣いて、泣いた。
気づけば、雨が降っていた。冷たい雨が、しゃらしゃらと乾いた草を打っていた。
ほむらは、動かなかった。あさひの骸の傍らで、泣き続けた。雨は降り続いた。川は暴れた。村も田も畑も、残っていた人々も、すべてを流した。
あさひの血は、雨に流され、地に溶けた。人の血を知ったほむらは、神ではなく、妖となった。
ヒメジョオンの咲き乱れる野の中で、妖となったほむらは眠り続けた。たくさんの夢を見た。
あさひによく似た人の子が、笑っていた。白い毛に、手が触れた。共に笑い、遊び、語らい、眠った。
深い夢の中で、ほむらは知った。何百年も先の未来のどこかで、あの魂に再びまみえるだろう。
もう一度出会うために、ほむらは、眠り続ける。
ヒメジョオンが風に揺れている。
神のいない神庫だけが、ほむらの夢を知っていた。
(了)