ぼくの隣にしゃがんだお母さんが、庭を転がるように駆け回るアレを指さしていった。
小さな黒い犬に似た動物。
でもアレは犬ではないし、動物でもないのだと、ぼくは知っていた。図鑑で調べたわけでもないし、誰かに教えられたのでもない。
本能とでもいうのだろうか。
独特のにおいと湿り気があるのだ。
でもそれは、他の人たちにはわからないらしい。
あれほどはっきりと見えるのに、幼稚園の友だちには誰も見えなかった。
『うそつき』
『うそつきはどろぼうのはじまりだって、ママがいってた』
『あっくんはどろぼうだ!』
『わー、どろぼうだー。逃げろー。どろぼうがうつるー』
『きゃー、やだー』
『あっちいけ』
そしてぼくの周りにはだれもいなくなった。
『・・・ぼくはどろぼうじゃない。嘘つきじゃない』
ぼくの声はとても小さくて、遠くにいる友だちには届かなかった。
「わたしたちって?」
ぼくはお母さんの顔を見あげた。
「この家の人間。つまり、おばあちゃんとお父さんとお母さんと旭よ」
「なんちゃんにも見えないの? 幼稚園の先生は?」
「見えないわ」
「なんで?」
「旭はお父さんとお母さんの子どもだから見えるの。これはね、お父さんとお母さんからの特別なプレゼントよ」
「お誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントもすごく嬉しいのに、なんでこれはぜんぜん嬉しくないの? またうそつきだっていわれたよ。だれも遊んでくれなくなったよ。お母さん」
「他の人には見えないから、信じてもらえないの。でもアレはいるのよ。他の人には見えないだけ。見えないのが普通なの。わたしたちが特別なの」
「もしかして他の人にいっちゃいけないことだった?」
「そうね、あまりいいわない方がいいわね」
「だれも教えてくれなかったよ。おばあちゃんもお父さんもお母さんも、いっちゃいけませんっていわなかったよ」
「そりゃ、痛みを伴わない教訓はないからよ、おほほほほほーっ!」
お母さんが声高らかに笑っている。
「うーん」
幼稚園で友だちがいなくなっちゃったのに、お母さんは笑っている。
「ううーん」
うそつきっていわれて悲しいのに、お母さんはとても楽しそうに笑っている。
「ううううう」
「旭、起きろ」
「ううううううう」
「こら、旭! 起きろ!」
目の前に、アレがいた。
長い鼻。耳まで裂けた大きな口。白い毛。紫の眼。
ぼくにのしかかり、口をぱくっと開き、いまにもぼくを喰わんばかりのアレ。
「・・・なにしてんの」
「なにって、おまえがうなされてたから起こしてやろうとしてんじゃねえか。感謝しろ」
「食べようとしてたの間違いじゃないの」
「だれがおまえなんか喰うか。ガリガリじゃねえか。みるからに不味そうだ」
白いアレは、ぼくのベッドからぴょんと飛び降りた。
ぼくはため息をつく。
「あーあ、朝から最悪な夢みた」
「どんな?」
「幼稚園のころのトラウマ。せっかく忘れてたのに」
「ああ、あれか」
ふふっと小さな笑いがきこえた。
ぼくのベッドの脇で、白い毛に覆われたアレが笑っていた。ぼくは眉をしかめて、紫の眼を睨みつける。
すべてはこれが原因なのだ。
ぼくは、他の人にはみえないものがみえる。
これは、両親から強制的に受け継がされた力だ。ぼくの身体に流れる血がみせるアレ。それは人間とは少しずれた妖怪たちの世界。
小さいころは、みんなが同じようにみえるのだと思っていた。家族の誰も教えてくれなかったので、ぼくは幼稚園でひどい失敗をした。お母さんの言葉どおり、痛みをもって覚えた。
このことは、人に話してはならない。
知られてはならない。
だからぼくは無口になる。
あれからというもの、ぼくは幼稚園が苦手になったし、小学校六年間も地獄だった。友だちなんてほとんどできなかった。
『それは旭が不器用なんでしょ。わたしなんて友だち千人いるわね』
お母さんは胸を張る。
たしかにお母さんは友人が多い。家にいるときは、しょっちゅう電話で楽しそうに話しているし、近所に住んでいる幼なじみとかがよく訪ねてくる。母親とぼくでは、明度や光度が徹底的に違うのだ。でも、ぼくはほんとに、この人から生まれてきたのだろうか、と疑う必要はない。父と母から受け継いだ力が疑う余地のないほど証明しているからだ。
「旭、起きろよ。遅刻するぞ」
ぼくの布団をするどい牙にひっかけて引きはがすのは、白い大きな狐だ。名を焔(ほむら)という。
五百年以上も生きている力の強い妖怪で、ぼくが生まれる前からこの乙葉家にいる。
乙葉家は、お母さんの実家で、おばあちゃんが家長だ。代々、この血を受け継ぎ、妖怪退治屋の仕事をしてきた。
日本には、昔からこういう家系が存在した。
人の住むエリアが、外部と隔絶していた時代と違い、いまでは人も情報も、簡単に行き渡る。
結果として、妖怪退治は組織化され、国家機関にまで発展し、すべての妖怪退治屋はそこで管理されている。
なんで国家機関なのか。
ぼくにはよくわからない。
知る人ぞ知る秘密警察みたいなものらしい。イレブンという名称で呼ばれているけれど、一般の人たちはその存在さえ知らない。
ぼくのお父さんもお母さんもイレブンの局員で、おばあちゃんに至ってはそこの局長だ。イレブンの開局に関わった中心人物の一人らしい。
力を持った者はみな、イレブンに登録される。もちろんぼくの名も登録されている。そしてイレブンから仕事をもらい、人に害を為すアレを捕まえるのだ。お父さんは自分の実家のあるI県で、家業とイレブンの仕事の兼業のため単身赴任中だ。お母さんは、日本全国を飛び回って妖怪退治をしている。そしておばあちゃんがその命令を出す。ぼくはまだ仕事はしていない。ときどきイレブンにいって、妖怪退治のための教育を受けているだけだ。いずれ、お父さんやお母さんのように、悪い妖怪と闘う戦士になるだろう。
これがぼくの家だ。
焔はそんな家にいる。
なぜ住み着く気になったのか、ぼくにはよくわからない。
『焔はおまえを守る、それだけのためにここにいるんだよ』
いつかお父さんがいっていた。
お父さんはだいぶ前から焔を知っているみたいだったけれど、それ以上のことはなにも教えてくれなかった。
必要なことは自分から学べ、という教育方針らしい。構われる煩わしさはない代わりに、知ることも、知らないでいることも、ぜんぶ自分の責任になる。失敗は、心や体の傷となって刻まれる。幼稚園のころにはそう悟っていた。手取り足取り教えられる方が楽だし、簡単なんだろうと思う。その点、ぼくの両親は容赦ない。にっこり笑って谷に落とす。それでもぼくは父や母が好きだった。這い上がるぼくを見守る目は決して反らされることはなかったし、差し伸べられる手はいつも暖かいと知っているからだ。
そんな二人も、それぞれの仕事の関係で、あまり家にいない。
代わりにそばにいるのが、かつては人間を喰らったこともあるという妖怪、焔だ。
ぼくが生まれたときからそばにあるその存在は、もはやぼくにとって家族以上だ。寒い夜に眠りにつくときも、淡い桃色の花びらがぼんやりと視界を白く埋める朝も、病めるときも健やかなるときも、それはもううざいくらい一緒だ。
焔が小さく呪(まじな)いの詞を吐いた。
焔の白い身体が蜃気楼に包まれたかのようにゆらりと滲む。ほんの一回、瞬きをしている間に、狐は高校生くらいの兄ちゃんに変化(へんげ)していた。
すらっとした長身、やや細身の身体。穴の空いたジーンズに、黒いTシャツ。左腕に銀の腕輪が二つ。これは狐のときには耳についている。誰がみても、雑誌のモデルか芸能人かという見栄えのよい顔。そして肩に触れるくらいの長めの茶髪は、毛先があちこち飛び出していても、それをかき上げる仕草だけで、近所のおばあちゃんから幼稚園児までウットリイチコロなアイテムだ。
どっからみても、その辺の街に転がってそうなエセ芸能人ヤンキー兄ちゃんである。
「・・・いつみても派手ですね」
ため息交じりに零してみる。
「べつに作ってるわけじゃないさ。自然とこうなるんだ」
「つまりは地顔ってわけですか」
「羨ましいか?」
「べつに」
焔は目立つ。
ぼくは目立ちたくない。少し長めの前髪で、ちょっと顔を隠しているので、根暗にみえる。それくらいがちょうどいい。でも父親に似た色素の薄い髪は女の子っぽくみえるのでほんとは好きじゃない。母親に似た大きな黒い目も、やっぱり女の子っぽくみえるので好きじゃない。
焔がぼくの髪の毛をくしゃくしゃとかき回す。
「うーん、この手触り。太郎さんとそっくり」
なぜぼくの髪をかき回してうっとりしているんだろう、この妖怪は・・・
ぼくが生まれたときにはもうそばにいたから、家族みたいなものだけど、でもやっぱり理解できない種なのだ。
「あたりまえだろ、親子なんだから」
「そうだよなぁ、太郎さんの子どもだもんなぁ。おれ、ずっとおまえのこと探してたろ? で、太郎さんに初めて会ったときさ、近いって思ったんだけど、どっか違くてさ。まさかあの人の子どもとして生まれてくるなんてな。すげえよな、人間は」
焔は、ぼくを探していた。
正確には、ぼくの魂を探していた。焔がただの白狐だったころに出会ったぼくの魂を、五百年の間、ずっと探し続けていたという。
五百年前、この魂を持った人間がどんな人だったのか、ぼくは知らない。そのとき助けられなかったこの魂を、今度は絶対に守るのだといっていた。
遠く離れた父、仕事で出張ばかりの母、局長として仕事の忙しい祖母、そんなぼくの家族の代わりに、いつでも焔がいた。兄のように、親友のように、ときに弟のように、これまでのぼくの十三年間を共有した。
散らかし魔で、ゲームオタクで、読書好きなこの妖怪は、しょっちゅうおばあちゃんにしかられている。そのとばっちりが、なぜだかぼくにも来る。縁側の板の間に、二人並んで正座をさせられ、こってり絞られるのだ。
ぼくはどのあたりを守られているのか、ぜんぜんわからない。ありがたみもない。むしろありがた迷惑だ。焔がいなければ、ぼくはきっといい子だったはずなのに。
でも、焔のいない世界なんて考えられない。
「おはよう、おばあちゃん」
「おはよう、旭」
「はよっす、ばあちゃん。お、うまそうな玉子焼き」
「焔!」
朝の食卓に伸ばされた焔の手に向けて、稲妻のような光がぴしりと走った。
「っててて・・・ばあちゃん、ひどい、焦げた」
おばあちゃんが発した妖怪退治用ビームだ。しくみはよくわからないけど、妖怪に効く電撃みたいなものだろう。うちのおばあちゃんのしつけは、両親を上回ってさらに厳しいのだ。
「行儀が悪い。何度いったらわかるの」
「うー・・・」
手をさすりながら焔が紫の瞳をこっちに向ける。
バカ、こっち見るな。そんなことしたら・・・
「旭」
ほらきた。
「犬はちゃんとしつけなきゃだめだって何度もいっているでしょう?」
「おれは犬じゃねえ!」
焔が反論する。
「犬だって何度か教えれば覚えるわ。あなたは犬以下ね。そんなんで、旭を守れるのかしらね」
「おれは狐だ。犬なんかと一緒にすんな。人間にしっぽばっかり振ってるあいつらとは違うんだよ」
「キャンキャン吼えるうるさい犬だこと。ポメラニアンみたい。ね、旭」
ああ、おばあちゃん、ぼくに振らないで。そんなことしたら・・・
「旭、おまえのばあちゃんだろ、なんとかしろ」
ほらきた。
ぼくがおばあちゃんをなんとかできるわけないでしょう。とはいわない。
「旭、いますぐこの犬を黙らせて席に付かせないなら、あなたも朝ご飯は抜きよ」
「旭は関係ねーだろっ」
「主のいうことを聞かないおまえが悪いのよ」
「玉子焼きちょっと喰おうとしただけだろうが」
「わたしは行儀の悪い犬は嫌いです」
「犬じゃねえ!」
「焔! そこへお座りなさい!」
あーあ、もう。
ぼくは大きく息を吐き出し、席に付き、いただきますをして、一人で食事を始めた。
隣の畳の部屋では、正座をさせられた焔が、眉をきりきり上げた仁王立ちのおばあちゃんに叱られている。「お座りなさい」が出たら終わりだ。最後まで正座をして叱られなければならない。そして終わるころには足がしびれて立ち上がれなくなるという、おそろしいお仕置きなのだ。
「あれで、ぼくの一体なにを守ってくれているんだろう」
やっぱり妖怪のやることはわからない。
焔が手を出した玉子焼きを口にいれる。ほわんと暖かく、甘く、柔らかい。じわりと幸せがしみ出てくる。
「おいしい。温かいうちにこれを食べられないなんて、かわいそ、焔」
ぼくはくすっと笑った。
そんなぼくに、焔がちらりと視線を寄越した。恨みがましいその目を無視して、ぼくは玉子焼きをかじる。焔がきゅーんと鳴く。
明日も明後日も、乙葉家はこんなふうに騒がしく、玉子焼きはおいしいのだろう。 これも乙葉家の日常なのだ。
(了)