ぼくのクラスの担任で数学の教師でもある辻村先生が、黒板にまっすぐなラインを引いた。真ん中にゼロを示す。その左右に、プラス5とマイナス5の位置を書き込む。ゼロからプラス5まで、そしてゼロからマイナス5までを、それぞれ滑らかな曲線で繋ぎ、その上に5と記した。白いチョークが、かっかと小気味よい音をたて、黒板に数学を刻んでいく。
中学一年の四月。出席番号順の席。どの教科の教科書も、まだ最初の十ページあたりをうろうろしている。教室の中には、どことなく緊張感が張り付き、不気味な静けさに満ちている。
ほんの二ヶ月前には、授業中でもよく教室で騒いでみんなを笑わせていた健太くんも、他のクラスメイトたちと同じように、必死で黒板の文字をノートに写している。
なにかが違う。
中間テスト、期末テスト、赤点、落第、高校受験。入学式直後に、息苦しい未来を予言されたせいだろうか。それとも、この真っ黒く重たい制服のせいだろうか。カラフルで個性に溢れていた小学校の教室と比べたら、ここは全員が同じ服を着て、重苦しい空気に俯いたまま顔をあげられないお葬式の会場みたいだ。
「数の大きさは、数直線上の右にいけばいくほど大きくなります。5よりも10。10よりも100が大きいですね。逆に、左にいけばいくほど、小さくなります。マイナス5よりはマイナス10が小さい。マイナス10よりはマイナス100が小さいです」
辻村先生の声はよくとおる。まだ若い女の先生だけれど、はきはきとしゃべり、かつかつと歩く姿は、どこかうちのおかあさんを思わせる。いや、どちらかというと、おばあちゃんの方に近いかもしれない。おかあさんはもっと明るく、にぎやかで騒々しい。辻村先生は、まっすぐで厳しい。
「旭、中学生になったのですから、少しはお勉強にも力を入れてください。イレブンの士として恥ずかしくないようになさい」
一週間ほど前のおばあちゃんの声が頭の中に響いた。
イレブンの士。
人に害を為す妖怪を処分するための特殊機関、国家公安委員会第十一特別外局、通称イレブン。そこで妖怪と闘う局員を士と呼ぶ。おばあちゃんはそこの親玉、局長だ。仕事にもしつけにも厳しい。
おばあちゃんのキラリと光る鋭い眼光を思い出し、ふらふらとさまよっていた意識がかちんと元に戻る。白いままのノートにシャーペンを走らせ、あわてて板書を写す。
あれ?
ノートの薄青の罫線が滲んだ。
水滴が落ちたように青く染みて、小さな丸を描き、その内側が透明な輝きを帯びる。
池だ。
あという間に、ノートの上に五百円玉くらいの池ができた。
水面がぷるんと揺れる。そこから小さな蛇が顔を覗かせた。
「あ」
思わず、声をあげていた。あわてて辺りを見回した。すぐ横に辻村先生が立っていた。心臓がばくんと跳ね、息が止まりそうになる。
「乙葉くん、どうしたの?」
「いえ、なんでもないです」
先生の指がするっと伸びて、教科書を小さく叩く。
「教科書の八ページの問題2よ」
「あ、はい」
ぼくの教科書はまだ七ページだった。ノートは板書の写しが途中で、しかも小さな池ができて白い蛇が顔を覗かせている。
「あと五分です」
辻村先生はかっかと靴を鳴らしながら、通路を歩いていった。ノートの池は、先生にはみえなかった。つまり、妖怪の類ということだ。
「邪魔だよ。どいて」
小声で蛇に話しかける。蛇は口からしゅるっと紅い舌を出す。
「主から伝言です」
「主?」
「焔さまが図書室でお待ちです」
「は?」
「ではお伝えいたしましたので、これにて失礼いたします」
「あ、ちょっと待って」
白い小さな蛇は、また舌をちょろりと出すと、旭を無視して池の中に引っ込んだ。青い染みはしゅるしゅると小さくなり、元の薄い青いラインに戻った。
もう、なに考えてんだ。
授業中に式神を寄越すなんて。
式神といえば陰陽師の家来みたいなものだ。妖怪が使役する妖怪をなんと呼べばいいのかわからないので、ぼくは式神と呼んでいる。
辻村先生の視線が、ちらりとぼくを刺した。あわててノートに向かう。
窓の外で、桜の枝が白い花弁を散らしていた。
図書室の書庫に通じる扉を開く。
紙とインクの匂いが鼻腔をくすぐる。
昼休みの図書室は、数人の生徒がそれぞれ自分の気に入りの場所で、本を広げている。ぼくは書架の間を抜け、一番奥へと向かった。
大きな閲覧机が三つ、ぽかりと開けた空間においてある。周りにあるのは百科事典や辞書、新聞の類なので、用意された机も大きいが、いつもほとんど使われていない。
窓から差し込む春の午後の陽光が、机に広がる茶髪をキラキラと撫でている。ここの主だ。
旭と同じ白い制服のシャツを着た焔が、机に突っ伏している。読みかけの本は伏せたままだ。タイトルを読む。
『銀河鉄道の夜』
「妖怪が宮沢賢治なんて読むんだ」
焔は読書が趣味だ。
ぼくのお父さんは貸本屋をやっている。そのほとんどは妖怪関係の本だったけれど、普通の読み物もあった。焔は昔、お父さんのそばで貸本屋を手伝っていた。本を読むことはそこで覚えたらしい。
中学になって、図書室がすごく広いという話をしたら、すぐに入り浸るようになった。焔が制服を着た人型になると、ちょっと大人っぽい中学三年にみえなくもなかった。授業中は、図書室の司書の先生にばれないように、姿がみえない術を施している。
暖かい陽射しが眠りを誘ったのだろう。いまは無防備に眠っている。
小さく開いた窓の隙間から、桜の花弁が一つ、二つ、ゆるやかな風に運ばれては焔と銀河鉄道を飾る。
妖怪の目に、宮沢賢治の世界はどう映るんだろう。
いま焔は、あの世界を夢にみているだろうか。
ぼくと焔は、とても近い存在だ。ぼくが生きた十三年間は、同じものをみて、同じものを食べ、同じように笑い、言葉を交わしてきた。
けれど、決定的に違うことがある。変身ができて、空を駆け抜けることができて、式神も操れる。ぼくが死んでも、焔は生き続ける。ぼくのノートに池をつくり、蛇を送り込むことだって朝飯前だ。
絶対値。
さっき数学で習ったばかりの言葉が浮かぶ。
ゼロを挟んで、両側に同じだけ距離を置く。ぼくと焔の絶対値は同じ。けれど、符号が違う。ぼくら人間が生きるこの世界では、焔はマイナスの存在だ。
だから他の人にはみえない。
ぼくは焔と絶対値が同じだから、焔の世界がみえるのかもしれない。
近くて、そして遠い存在。
決して交わることのない直線上で、ぼくたちの間にはいつも同じだけの距離がある。これ以上、近づくことはできない。どんなにがんばっても、ぼくはマイナスの世界に入ることはできないのだ。
ここにいるのに。
触れることができる距離にいるのに。
花びらがはまた一つ、焔に降りかかる。花びらも、焔も、光を受けて淡く輝く。
人間が触れてはならない神聖な世界が、そこにできあがっていた。
ぼくたちよりも、ずっと自然に近く、自然とともに在り、自然に愛された者たちの世界。ぼくたちがとうの昔になくしてしまった世界。
それはあまりにも美しいので、ぼくは思い知る。
誰よりも近い存在が、ほんとうは手の届かない世界のものたちであることを。いつかぼくをおいて、どこかへいってしまう日が来るだろうことを。
それはあまりにも美しいので、ぼくは泣きたくなる。
「んん」
焔が目を覚ます。
重い瞼を押し上げて、美しい紫の瞳が、ぼくを捉える。
「旭」
ぼくはいま、どんな顔をしているのだろう。泣いているだろうか。ゆがんでいるだろうか。
「どうした? 旭」
「なんでもないよ」
「そうか」
「それよりなんの用? 授業中にあんなの寄越さないでよ」
「あれ、かわいいだろう」
嬉しそうに小さな蛇の話を始める。
いつもの焔だ。
ぼくのそばにあるべき焔の姿だ。
そばにいて欲しい。
これは、そんな消極的な希求じゃない。
めずらしい蝶を標本箱に並べるように、手の届くはずもない彼を、ぼくはなんとしても繋ぎ止めたい。縛り付け、閉じこめて、ぼくのそばに留めたい。ぼくが死ぬまで、離れることは許さない。
そしてぼくは、焔の前で、自分の欲望の深さを思い知る。
(了)