さよならのこころ scene02:闇の中へ深く

2008.02.15
 真夜中に電話の音がして、目が覚めた。母さんの声がした。部屋のドアが開くと、母さんが立っていた。顔は逆光になっていて見えなかった。ぼくを呼ぶ声も、目も、硬かった。
 大地が死んだ。
 絡みついていた不安が、実体を持ち、闇へと変化した。
 足元の床が、突然、真っ黒な闇に変わる。音もたてずに、爪先からすっと落ちていく。静かに、静かに、落ちていく。闇が満ちて、音が消える。
 なにも聞こえなくなった。
 母さんの口が動く。
 なにも聞こえない。
 いや、違う。聞こえなくなったんじゃなくて、ものすごい声に遮られて、母さんの声が聞こえないだけだ。
 叫んでいるのは、ぼくだ。
 腹の底から、身体の中のもの、ぜんぶを吐き出すみたいな勢いで、叫んでいた。言葉もなく、獣のように、ただ咆えている。
 母さんの腕がぼくをかき抱く。
 ぼくが咆える。
 母さんが泣いている。
 ぼくが鳴いている。
 それもすぐに途切れた。ぼくは、暗闇の中にぽつりと浮いていた。
 遺書を書いたその夜、大地は死んだ。交通事故だったと母さんがいっていた。三日後の大地のお通夜の日まで、ぼくは一歩も部屋から出なかった。
 たくさんの白い百合の香りの中で、見上げた大地は、ボケていた。ぼくの視界が濁っているせいか、写真が悪いのか。それでも大地は、そのボケた写真の中で笑っていた。いつもの笑顔だ。にやりと笑う。
『直樹、おれは大丈夫だ』
 大嘘つきーーー。
 駆け出していた。周りにいたクラスメイトを幾人か突き飛ばした。声と腕を払いのける。走りながら、ずっと呼んでいた。
 大地。大地。大地。大地。大地。大地。大地。大地。大地。大地。大地。大地。大地。大地。大地。
 自分の部屋のドアを背中で締める。机の引き出しから、白いものがはみ出していた。遺書だ。あの日、大地と一緒に書いて、封をしたぼくの遺書だ。そのままずるりと引きずり出して、力いっぱい破く。粉々にして、それでもまだ足りなくて、足で踏みつぶす。
「っつ!」
 掠れた呻き声しか出てこない。ずるずると蹲る。耳を塞ぎ、瞼を閉じる。
 偶然なの?
 それとも、知っていたの?
 大地、怖いよ。

「直樹」
 ドアがノックされ、柔らかな声がぼくを呼んだ。顔をあげる。部屋は暗い。いつのまにか夜だ。その蒼い闇の中で、昨夜、引きちぎった遺書だけが、白く鈍く発光している。
 のろのろと起き上がり、ドアを開ける。喪服を着た母さんがいた。大地のお葬式の手伝いに行っていたのだろう。
 母さんが手を差し出す。手のひらの上で、ちりりと冷たい光が瞬く。
 ラブラドライト。
 去年、大地の誕生日にぼくがあげたストラップについた小さな石だ。宇宙とつながる石と呼ばれる。それが今、大地の白いケータイと一緒に、母さんの手のひらの上で息をひそめている。
「大地くんから」
 耳がきーんと鳴った。痛みで顔が歪む。視界が揺れる。それでも手を伸べた。大地のケータイは、母さんの指を離れ、ぼくの手のひらに収まった。
 母さんはなにもいわない。
 なんで大地からぼくにケータイが渡されるのか。なんで「大地くんのお母さんから」じゃなくて、「大地くんから」なのか。
 元々、おしゃべりは多いほうじゃない母さんらしい。問われても答えられないから、今はその無口に感謝したい。ドアを閉める。ケータイを握りしめたまま、ベッドに俯せに寝ころぶ。
『おれのケータイはおまえにやる』
 大地の遺言どおり、ぼくの手の中にやってきた。
『大地、ケータイ新しくしたんだ?』
『誕生日に買って貰ったんだ。着音とか、すっげー、かっけーのがいろいろ入ってんの』
 白くて、凹凸のないつるりとしたケータイを開く。音を発した。
『開けると、音、鳴るんだー』
『そこが気に入ったんだ。ちょっと他にないっしょ?』
 大地らしいモノの選び方だ。
 大地は、ケータイを左耳と肩で挟むようにして使っていた。両手が空いていても、肩で挟む。なんだか大人っぽくて、サマになっていた。大地が使うと、ケータイが十倍、カッコよく見えた。ぼくは、いいなぁを連発した。
 でも、もう鳴らない。
 大地がいないから、鳴らない。大地が使わないなら、意味がない。
 欲しかったのは、ケータイじゃなかったんだ。