さよならのこころ scene03:向こう側から

2008.02.15
 身体がびくんと揺れて、意識が戻る。相変わらず暗い部屋が、視界を覆っている。
 ケータイが鳴っていた。軽い電子音と音に合わせたブルブルが呼んでいる。寝ぼけた頭の中で、少しの違和感を引きずりながら、手さぐりでケータイを探す。習慣的にボタンを押して、耳にあてる。
「直樹」
 クリアだった。
 その声があまりにもクリアで、息が止まった。
 かちんと耳元で音がする。ストラップが手の甲をなぜるように滑る。ぼくのケータイにストラップなんて、ついてない。
 ぞくっと冷気が押し寄せた。部屋の中の温度が、急激に下がる。飛び起きて、右手のケータイを振り払う。ケータイがベッドの上に落ちる。
 開いたままの白いケータイと鈍色のラブラドライトが、闇の中で凍った光を発する。
 ありえない。
 鳴らないはずのケータイが鳴る。聞こえるはずのない声が聞こえる。ぼくの名前を呼ぶ。
 こんなのありえないだろ。
 寝ぼけたんだ。大地のことばっかり考えていたから、夢をみたんだ。
 これは夢だ。
 けれど、そう思えないリアルさが、鼓膜に絡みついている。声変わりが終わったばかりの大地の、少し低い声が、未だ耳を刺激する。大地の記憶を、鮮明に引きずり出す。突然、その存在を失った現実を受け入れられず、ただ部屋に籠もり続けていたぼくに、甘い手を差し伸べる。
 大地なら、こんなこともできるかもしれない。
 ありえないことへの気味悪さよりも、失ったことを認められないぼくの希望が、勝る。
「大地?」
 耳にあてたケータイは、冷たかった。
「直樹。繋がってたんだ。よかった」
 冷たいケータイから流れてくる声は、暖かかった。沁みた。凍てつき、乾いた土に、暖かい雨が降るように、沁みて、じわりと溶かしていく。喉の奥にずっと閉じこめてきた、手に負えない感情が、溢れだしてくる。
「なにがよかっただ! ぜんぜんよくない! なんでおまえいきなり、なんで、なんでだよっ!」
 息が詰まる。言葉を失う。大地の死を告げた真夜中の電話のあと以来、ぼくは初めて泣いた。声をあげて、大地のケータイにすがるように泣き出した。涙があとからあとから溢れてきた。
「ごめん、直樹」
 暖かい雨が降る。大地は、ぼくが息ができるようになるまで「わるかった、ごめんな」を繰り返した。大地の声がぼくの背に触れる。もう泣くなよと、背中を叩く。
「あ、あんなもの、書いた、から」
「遺書のこと?」
「そーだよ!」
「意識はしてなかったんだけど、どっかでこうなるって、予感があったのかもしれないな」
「なんだよ、それ。予感あるなら、最初から意識しろよ」
「っていうか、おまえ、なんの疑問もないの? なんで死んだのに電話してんだ? とか、そっちの方が先じゃねえの」
 ケータイの向こうで、大地の声のトーンが変わる。大地が笑っている。
「そんなの、大地だもん」
「ははっ、なんだ、そりゃ」
「理由なんて、いらない。大地がいてくれればいい。ケータイん中でもいい。顔が見られなくてもいい。ここにいてくれたら、なんでもいいんだ」
 ふっと息を吐く音が聞こえた。普通に電話しているみたいに、まるでそこで生きているみたいに、大地の息づかいが聞こえる。
 大地は死んでない。どっかで生きてるんだ。そう信じたくなるくらい、確かに大地はここにいる。
「理由はあると思う」
「聞きたくない」
「直樹にお願いがあるんだ」
「嫌だ。聞きたくない。だって、それ聞いたら、おまえ、いなくなっちゃうんじゃないのか。お話の世界はそうだよ。遺した想いを果たしたら成仏しちゃうんだ」
「成仏って、おまえなぁ。おれ、カトリックなんだけど。お通夜、お経じゃなかっただろ?」
 ふわりと百合の香りが蘇る。白い花がたくさんあった。大地の周りはぜんぶ白い花で埋め尽くされていた。
「・・・そんなの覚えてない」
「直樹、おまえにしか頼めないから、おれはここにいるんだと思う」
 大地のまんまだ。
 左胸のあたりが、ちくっと痛む。
 大地はいつもちょっと大人びた言葉を使う。ぼくより、ぜんぶが一つ上の段にいるみたいだった。ぼくが逃げられないように、うまくやんわりと囲ってくる。いつだって、ぼくより先にいた。ぼくのことなら、なんでもわかってた。
 がんばって止めた涙が、また溢れてくる。
「そんなの、ずるいよ」
「直樹、サンキュー」
「バカっ! まだ協力するなんて、いってないよ」
「してくれるんだろ?」
 やっぱりずるい。
 ケータイの向こう側で、大地が静かに笑っていた。