さよならのこころ scene04:春への準備

2008.02.15
 翌朝、この冬一番の寒波が押し寄せた。ぼくは五日ぶりに学校へ行った。
 遅くまで大地と話していたけれど、目が覚めたとき、ここ数日の寝不足がぜんぶすっ飛んだみたいに、身体が軽かった。
 マフラーに鼻まで顔をつっこんで、学校まで徒歩五分の距離を歩く。川沿いの桜並木は、宇宙まで突き抜けたように青む空の中で、固い枝先を揺らしている。ほんの少しだけれど、小さなつぼみの膨らみがみえる。
 春の準備が進んでく。
 この道が、淡い白で染まるころ、ぼくは中学生になっている。大地をおいて、ぼくの時間だけが進んでしまう。空の青がじわっと滲む。くちびるを咬む。ダウンジャケットのポケットに入れた大地のケータイがブルブルと震えた。
「大地?」
「直樹、首尾は?」
「気が早いよ。まだ学校、着いてない」
「いまどこ?」
「川沿い歩いてる」
「桜んとこね」
「うん」
 大地には、ぼくのいる世界が見えない。どこにいるのかと訊いてみたら、なんか白いところだといっていた。大地もケータイを持っていて、自分の番号にかけると、ぼくの世界にある大地のケータイが鳴る。そういうしくみらしい。
 夢みたいなこの現象を、ぼくはすんなり受け入れた。大地がいる。それだけでよかった。
「あのさ、大地」
「んー?」
 くつろいだ様子の返事が返ってくる。まるですぐそこにいるみたいだ。
「ほんとにぼくにできんの?」
「おまえ、空手習ってんだろ?」
 そうだ。ぼくは空手を習っている。二年前に始めた。去年の暮れ、初段をとって黒帯になったばかりだ。
「空手が出てくるほど、あぶないことになりそうなの? なんか怖いんだけど」
「うーん、そこまではわかんねんだよね。ただ、すごく重くて黒い感じがする」
「怨念ってやつ? 井上さんって、誰かに恨まれるタイプでもないけど」
「でも、あんまり好かれてもいないんだろ?」
「好かれてないってよりは、遠い存在。そんな感じ」
「おれがわかるのは、近いうちに、学校で、井上さんに危険なことが起こるってことと、井上さんに向けられた黒い想いがあるってことだけだから。どうするかは直樹にまかせるよ。おれにはなんもできないし」
「わかってるよ」
 川の向こうに、学校が見えてきた。道を歩く生徒の数も増えてくる。ぼくは、じゃあまた後で、とケータイを切った。
 井上蒼子を守ってくれないか。
 昨日、大地はそういった。
 井上さんはぼくのクラスの委員長だ。いわゆる秀才タイプで、なんでもできる。長い髪を、きっちりと一つに結っていて、いつでもまっすぐに人の目を見て話す。キリッとした冷たい感じがする人だ。その雰囲気のせいか、男女どちらからも、ほんの少し距離を置かれていた。大地とは一度も同じクラスになったことがない。なんで大地から井上さんの名前が出たのか。その理由は教えてもらえなかったけれど、井上さんに危険が迫っているという。
 守れといわれても、いつどこでなにがあるかわからないんじゃ、途方に暮れる。学校だってだけじゃ、広すぎる。今は卒業式を控えていて、授業よりは、卒業式とか、謝恩会の出し物の練習とか、教室以外の時間が増えているのだ。
 大きなため息を一つ、つく。真っ白な息の塊が、凍えながら空へと舞い上がる。消えるまで、見送る。
 それでも、なんとかしちゃうんだろうな。
 ポケットの中で、ケータイをぎゅっと握りしめた。

「ねえねえ。直樹くんてさー、もしかしてえ、井上さんのこと、好きなのー?」
「へ?」
 井上さんの警護(のようなもの)を始めて三日目の放課後、下駄箱で同じクラスの女子二人に左右から囲まれた。大木里穂と各務歌子。六年二組の中で、容姿、行動、ともに目立つ二人組だ。二組の女子の頂点にいる。にらまれたら終わりだ。
「だって、すっごいよく見てるんだもん。ね、里穂?」
「うん。なんか、じーってみてる感じ」
「それって、ストーカーじゃん」
 きゃははっと笑い声があがる。
 わるかったな、ストーカーで!
 守るといっても、じっと見ているしかできてない。井上さんが動くと、視線で追う。教室から出るときも、そっと後をつける。井上さんが下校してから帰る。まるでストーカーだ。自覚している。
 でも、誰が誰を見ているか。そういうの、女子って敏感なんだ。っていうか、見てるだけで、好きってことになるのか?
 なんだか怖いぞ。
「井上さんなんか、見てないよ」
 スニーカーに履き替えながら、クールを装って答える。
「えー、そうなのー?」
「うん。井上さんとあんまり話したことないしね。じゃあ、ぼく、用事あるから。また明日ね」
 軽く手を振った。大木さんがきれいな歯をみせて笑った。二人の視線がなくなる場所から駆けだした。
 小さな橋を渡り、桜並木の下を走る。大地のケータイを掴んでいた。ラブラドライトが揺れる。走る。揺れる。景色が流れる。冷たい空気を吸い込んで、肺が悲鳴を上げ始めるまで走った。胸を押さえて立ち止まる。見計らったように、ケータイが鳴る。
「おまえのせいで、ストーカーだっ!」
 叫んだら、大地が笑った。ひとしきり笑ったあと、ぽつりといった。
「近くなってきてる。気をつけて」
 井上さんに危険が近づいている。ぼくが井上さんを守らなければならない、そのときが近づいている。
 大地はどうなるんだろう。遺した想いをきれいにして、いくべきところへいってしまうのだろうか。そのとき、ぼくはどうなるんだろう。
「うん」
 ぼくは肯くだけで、せいいっぱいだった。
 流れていく時間は止められない。
 昨日よりも今日、つぼみは膨らんでいく。今日は、重くと曇った空の中で、濃い色に染まっていく枝先が、寒風の中で息をひそめていた。