さよならのこころ scene05:胎動

2008.02.15
 椅子や机がぶつかる派手な音が、昼休みの教室に響いた。小さな叫び声があがる。視線を走らせる。
「井上さんっ!」
 どくっと心臓が鳴る。
 床に蹲る井上さんの元へ駆けつけたのは、ぼくが一番だった。
 危険ってこれなのか? どうしよう、なんにもできなかった。
「どうしたの? 大丈夫?」
 足首を押さえていた井上さんが、顔をあげてぼくを見た。大きな黒目が、まっすぐにぼくを見上げる。
「ちょっと、躓いただけ。びっくりさせてごめんなさい」
「そんなこと」
 いいよ、と言おうとした。
「あー、ごめんねえ。あたしのせい。あたしがカバン、通路に置いといたからだー」
 井上さんより数段高い声で、各務さんがぼくの残りの言葉を遮る。
「歌子、なにやってんのー」
 クラスの女子が何人か、肩ごしにのぞき込んでくる。
「井上さん、ほんっと、ごめん」
 各務さんが両手を合わせる。
「大丈夫だから」
 短い言葉を返して、井上さんがゆっくりと立ち上がる。背中に流れていたポニーテールが、肩を滑る。さらさらだ。ほんの少しの間だけ、こころを奪われていた。そして、自分の表現した擬音があまりにも芸がないことに気づく。情けない。それに、なにやってんだ。
 左足を踏み出した井上さんが、小さく顔をしかめる。痛めたのかな。どうする。あー、こんなとこでオロオロしてちゃだめだ。ぼくには使命がある。
「保健室、行こう」
「え、平気だよ」
 井上さんの肩に軽く触れて、教室の扉へと誘う。ぼくの背中に、幾人かの視線を感じた。教室を出るときに、小さく振り向いてみる。その中にある二つの瞳だけが、異質だった。背中がぞくりとする。少しでも目を離したら、無防備な背中をめがけて、鋭い刃物が飛んできそうな、それほどの闇を感じた。
 これで終わりじゃない。
 やばそうだよ、大地。

 雪片が窓を滑り落ちた。
 空を覆っていた曇天から、次々と雪が舞い落ちる。
 教室の窓から見える広い校庭は、あっという間に白に染まった。どこまでも続く家々の屋根も、道路も、木々も、薄く白く塗り込まれていく。
 謝恩会で歌う合唱の練習が終わり、みんなは下校した。さっきまで、たくさんの熱を含んで、確かに生きていたはずの教室が、急激に無機質な入れ物へと変化する。深深と冷たい雪の中へと沈み込んでいく。熱が、音が、消えていく。
 クラス委員の用事で一人残った井上さんを、ぼくは、教卓の中からそっと見ていた。井上さんの額が、冷たいガラスにひっついて、その体温でうっすらと曇り始める。
 井上さんまでの距離は、机三つ分だ。もし、誰かが教室に飛び込んできても、その誰かよりも先に井上さんにたどり着ける。
 教卓の細い隙間から、教室全体を見る。できるだけ息を静かに押さえて、ゆっくりと吐く。それでも鼓動は上がる。どくどくと心臓が脈動して、アドレナリンが身体中を駆けめぐる。手の中に握りしめた大地のケータイが、汗ばんでいく。ほんの数秒だけ、瞼を閉じる。落ち着けと、口の中で唱える。
「まだいたんだ。なにしてんのー?」v  え?
 瞼を閉じていたのは、ほんの一瞬だったはずだ。井上さんまであと数メートルの距離に、女子が立っていた。綺麗な歯を見せて、綺麗に笑う。それが冷たい教室の温度を、さらに落とす。
「謝恩会のプログラム作りしてただけ」
 机の上に視線を落とす。担任の先生から借りたノートパソコンが載っている。
「なんでもできんだね。井上さんって」
 井上さんはなにも答えなかった。こんなときぼくならば、そんなことないよとか、言い訳めいた言葉でごまかそうとする。それが相手の劣等感を余計に増長させると知っていても、お決まりのセリフを吐いてしまうだろう。
 ぼくは教卓の中で、いつでも飛び出せる体勢を整える。すうっと息を吸い込み、ゆっくりと吐く。気息を整えていく。空手の基本だ。正しい呼吸法が、集中力、瞬発力、持久力などに力を与える。
「ほんと、なんでもできて、そのうえ、なんでも手に入れて・・・。不公平だって思わない? わたしだってずっと勉強したんだから。あの学校に入りたくて、遊ぶのも我慢して、塾だって通った。それなのに、なんでわたしだけ落ちるの? なにが足りないの? あんたとわたし、なにが違うっての? まじ、ムカつくっ!」
 薄暗くなりかけた教室に、ぎらりと冷たい閃光が過ぎる。同時に、ぼくは教卓の下を飛び出していた。
「だめだっ! 大木さんっ!」
 視線の先で大木さんの手が伸びて、井上さんの長い髪先を掴む。さっき鋭く煌めいた右手のハサミが大きく開く。その手に向かって、思い切り腕を伸ばす。
 どうやって、机三つを飛び越えたのか、自分でもわからなかった。机が倒れて大きな音をたてた。大木さんの手からハサミをたたき落とす。大木さんが右手を押さえてしゃがみ込む。ハサミは回転しながらリノリウムの床をすべり、井上さんの上履きにぶつかって止まった。
 はっはと、あがった息を吐き出す。白く濁る。ぺたりと座り込んだ大木さんの、緩くウェーブのかかった髪が、細い顔を覆い隠す。
 身体の中が熱い。あの夜と同じだ。大地が死んだと聞いたあの夜、身体の底から熱があふれ出た。これは、怒りだ。どうにもならない、怒りだ。沸騰する。
「もうすぐ卒業なのに、最後にこんなことして、小学校の記憶、ぜんぶ汚しちゃうの? 楽しかったことも、ぜんぶ、二度と思い出したくない記憶にしちゃうの? なんで、こんなことすんだよ。なんで!」
「直樹くん」
 止めれない流れを、井上さんの声が遮る。
「わかってるよ。そんなことしたくないって、大木さん、わかってるから。ほら」
 差し出された手のひらに、小さなハサミがのっていた。先が丸くて、手のひらサイズで、刃も大きくない。
「携帯用お裁縫セットのハサミなんかじゃ、大して切れないよ」
「え?」
 さっき、大木さんの手に握られていたときそれは、もっと大きくて、もっと鋭くて、もっと黒くて、人を傷つける凶器に見えた。
「これって」
「大木さんは、ただ終わらせたかっただけ。これから始まる新しい生活に、古い痛みなんて、必要ないから。ここで終わらせたかったんだと思う」
 大木さんが、顔をあげる。
 井上さんがポニーテールの先を前に引き寄せる。一房を指でつまみ、小さなハサミを近づける。
「ちょっと、待っ」
 ぼくが止める間もなかった。じょりという鈍い音がして、切り離された。
「これで、終わり」
 大木さんの手のひらの上に、小さなハサミと切り落とされた一房の髪が、残った。