あの空の向こう

2005.12.30
「アッシュ! アーッシュ!」
 蹴破るような勢いで扉を開けると、鼻をつまみたくなるようなひどい匂いが、さわやかな午後の日差し降りそそぐ庭にあふれ出す。
「うわ! 何、このにおい」
「カナン、いらっしゃーい」
 大きな竈の前で、これまた大きな鉄鍋をぐるぐるかき混ぜていた黒髪黒服黒ずくめ、外見だけは特上の名高い剣士アッシュが間延びした声で答えた。
「アッシュ、いたのね。メール鳩、何度も送ってんのに無視して」
「メール鳩?あれってメール鳩だったのか」
 アッシュがちらりと台所に視線を送る。カナンが振り向くと、床にはむしり取られた白い羽が無数に散らばり、洗い場にたまった皿の上には細い骨が無惨に重なり合っている。
「あっ! あんた! メール鳩、食っちゃったの? 信じらんない!」
「だってさー、家ん中まで入ってくるし、食われたいのかと思って」
「もうやだ! あんたのエージェントやるの」
 カナンが力無く長椅子に座り込む。短いオレンジ色の髪に指をつっこんで、頭を抱えた。
 アッシュが魔物討伐専門の剣士になってからというもの、幼なじみというだけで、無理矢理、エージェントの役目を押しつけられ、三年が過ぎた。その間、剣士としての腕前と顔だけは良いが、実は世界一ぐうたらなアッシュに、愛想尽かすこと数百回。今度こそやめてやる!とその度に心に誓うこと数百回。それでもやめられないのは、アッシュの亡くなったおばあちゃんの死に際に、バカ孫を頼むと言われてしまったからだ。
幼なじみ、それは損の代名詞。カナンの辞書にはそう刻まれている。
「ごめんね。お腹空いてたんだよ。で、用はなにかなー?」
 カナンは黙ったまま、持っていた封書を柔らかな笑みを浮かべるアッシュの鼻先に突きつけた。にこやかに受け取ったアッシュが、上等そうな封書を開く。
「このおれに魔物退治依頼とは。ふーん。山鳩シチューが名物の、お隣の村の村長さんだね。紅の森の魔物を追っ払ってくださいだってさ」
「そう。報酬は金コイン十枚。あんた以外、組合のみんな出払ってて、誰もいなかったのよ」
 組合とは、個人で魔物討伐を請け合う剣士たちの集まりだ。
「ふーん」
 相変わらず間延びした返事をよこすアッシュに、脳みその血管が切れそうになる。
「わかったら、とっとと行ってこい!」
 アッシュの足を蹴飛ばす。
「あたたたっ。カナンはおれよりも魔物討伐に向いてると思うよ? おれの代わりにやらない?」
 アッシュが蹴飛ばされた膝小僧をさすりながら笑った。
「あんたの世話だけで手がいっぱいよ! っていうか、このにおい、何なのよ。鼻がもげる」
 鼻をつくすさまじいにおいの元らしいものが、鍋の中でくつくつと煮えている音が聞こえる。中身は見えない。見えない方が幸せかも知れない。どうせアッシュが作るものなんて、ろくでもないものに決まっている。これもまたカナンの辞書に深く刻まれている。
「よくぞ! 聞いてくれました! これはね」
 かき混ぜていた大きな木のひしゃくで、嬉しそうに一匙すくってみせる。予想外に綺麗なエメラルドグリーン色の、とろりとしたゼリーのような物体が、ひしゃくからこぼれ落ちていく。
「発明ナンバー五百二十一番、魔物さんいらっしゃーい」
「魔物さんいらっしゃーい? そのネーミングのセンスも相変わらずね。どうせ、効果も、そのネーミングと同レベルなんでしょ」
「それはひどいな、カナン。今度のはすごいんだよ。この美しいエメラルドグリーンの液を、森に一垂らしするだけで、もう何百という魔物が自然と寄ってきて」
 アッシュがもったいつけるように、そこでひしゃくを高々と持ち上げる。
「寄ってきて?」
「気持ちよく、おねんねするのさ」
「あんた、魔物を眠らせてどうすんのよ。あんたの仕事は魔物討伐でしょ」
「眠っている間に、どこか遠くへ持っていけばいいし。その方が、魔物も痛くないしね」
「ふざけないで!」
 カナンが叫ぶ。カナンの中で、消えずにくすぶっている想いに火がつく。がたんと椅子を蹴倒して、アッシュの真正面に立ち、その胸ぐらを掴み上げる。アッシュとの身長差二十センチが、その心意気で一気に縮まった。
「そういうこと言ってると、いつかあんたが魔物に倒される日が来るんだから。うちの父さんみたいに!魔物と仲良くなるなんてこと、できやしないのに。そんなものばかり夢見て。父さんと変な研究ばかりして。だから父さんは魔物に殺されちゃったのよ!どうやったら魔物と人が一緒に暮らせるのかですって?そんなことは、天と地がひっくり返っても無理よ。この世は最初から人と魔物の二種族で成り立っているんだから」
カナンが大きく息をつき、掴んでいたアッシュの黒い服の襟を力無く離す。こんな風にカナンがおじさんのことで怒るのは、久しぶりだった。
アッシュは、木のひしゃくを鉄鍋に戻すと、くるりとかき混ぜた。そのエメラルドグリーンのゆるいゼリーに視線を落とす。
 綺麗な緑の目をした人だった。
 カナンの父の顔が蘇る。いつでも笑っていて、おかしな研究ばかりしていた。アッシュの父親と懇意だったので、小さいころから、よく遊びに行っていた。いつでも空を見上げ、たった一つの世界を、想い描いている人だった。
「カナン、おじさんはとても立派な人だったよ。おれは、大好きだった」
 最後まで、絶やされることのなかったあの人の笑みを思い出す。あの人に出会わなかったなら、今の自分はいなかっただろう。おれは今、あんな風に笑えているだろうか。
「知ってるわよ。そんなこと」
 力の抜けた声で答えると、カナンはアッシュに背を向けて、開け放した扉の方へと歩き出す。
「帰るの?」
「頼んだわよ、その依頼」
 アッシュに答える隙を与えず、カナンは扉を閉めた。外の空気を、たんまりと吸い込む。ため息とも、深呼吸ともわからない息を吐き出す。青く晴れた、乾いた空を見上げ、そのまぶしさに眉をひそめた。
 優しい人なのだと、わかっている。父も、アッシュも、同類の人間だ。いつも笑って、楽しそうで、研究と称しては変なことばかりやっていた。でもそれだけでは、この世界では生きていけない。
「死んじゃったら終わりなのよ」
 カナンは出てきたばかりの扉を見つめる。そしてもう一度ため息をつくと、街へと続く道を引き返していった。
「死んじゃったら終わり、か」
 アッシュは、カナンが扉の向こうでこぼした言葉を繰り返してみた。
「うん、そうだね。でもね、それは魔物だって同じなんだよ。カナン」
 カナンが蹴倒した椅子を戻し、カナンが寄こした依頼状に視線を落とす。
「紅の森ね。とりあえず行ってみますか。山鳩シチューはぜひ食べたいし。お、これもぜひ試してみたいなぁ。持っていこう。空き瓶はどこだったかなっと」
 混沌とした有様の作業台を探る。古い本、何かを書き殴った紙、薬草、さまざまな形や大きさの容器、怪しい色をした食べ物の残り、蛇の抜け殻なんかが適当に積み重ねてある。少しでも穴を掘ろうとすると、その反動でいくつかの本や発明を書いた紙がばらばらと落ちる。床の上に落ちた物は、必要とされるまで拾われることなく、降り積もる。
いつもなら、この状態に激怒したカナンが、怒りをまき散らしながら片づけてくれるのだが、今日は何もせずに帰っていった。おじさんの話をしてしまったからだろうか。
 カナンの父親が魔物に襲われ、その傷のために亡くなってから、そろそろ三年になる。そして、アッシュが、王立軍魔物専門隊を辞めてからも、同じだけの年月が過ぎようとしていた。
 空き瓶を見つけると、エメラルドグリーンゼリーもどき発明ナンバー五百二十一番「魔物さんいらっしゃーい」を、その小さなガラスの瓶の中に入れ、黒服のポケットに収めた。

 隣村といっても、その距離はかなりある。アッシュの住む村からは、山一つと森一つを越えた向こうにある。その越えなければならない森が、魔物が住む紅の森だ。
「村に着く前に、途中でばったりってことになるかもなぁ」
 背中に長く細い剣を携え、小さな布袋を肩から提げたアッシュは、空を見上げる。自分の村から歩き始めて、そろそろ一時間。ここまで来ればもう大丈夫だろう。首から下げていた革ひもに括り付けた銀の笛に息を吹き込む。細い笛が、人の耳には聞こえない音を奏でる。音が球体状に広がり、空気に溶けていく。
 空の彼方にできた小さな黒い染みが、徐々に大きくなっていく。黒々とした翼を確認する。やがて、アッシュの前に静かに舞い降りたのは、真っ黒な竜だった。
「やあ、元気だった?」
 アッシュが手を伸ばすと、竜が濡れた鼻っ先をその手に押しつけてくる。猫が喉をならす百倍の不気味さで、ゴロゴロと喉を鳴らす。機嫌の良さそうな音が響いてくる。
 竜は魔物の仲間だ。魔族の移動手段としても利用される竜の骨は、万病に効くと言われている。そんな理由から、組合でも討伐の対象になる確率の高いのが竜だった。アッシュがこの竜に出会ったのも、組合から依頼された仕事のときだ。村や人を襲ったわけでもなく、ただそこに住みついたというだけで討伐しようとした村人たちの依頼を、そのまま受け入れることはできなかった。
 竜の扱いについては、小さい頃からカナンの父に学んでいた。カナンの父が教え示した魔族が使う特別な言葉で、離れた場所へその住処を移すよう竜を説得した。
 この年老いた竜を、人の手の届かないところへ導くのに一月かかった。アッシュを敵として、抗う竜に付けられた傷が増えるばかりでも、アッシュはその竜に剣を向けることはなかった。一向に竜を退治しようとしないアッシュにしびれを切らした村人が、新たな魔物討伐剣士を雇った。屈強な体格の剣士が、アッシュと竜の前で剣をひらりと抜いたとき、竜が大きな翼を広げて飛び立った。アッシュをその爪の先に引っかけるようにして、空高く舞い上がると、アッシュの示した北の地をまっすぐに目指し飛び去った。
 今、竜を呼んだ笛は、アッシュとの別れのときに、その竜が寄越したものだ。ときおり遠くへ行く場合に、アッシュは竜を呼び、その翼を借りる。人が竜を扱うなど、前代未聞のこのご時世なので、カナンにさえ話したことはない。こうして誰もいない場所で、こっそりと呼ぶのだ。
「ここに行きたいんだけどね。また翼を貸してくれますか?」
 竜の顔の前に、古びた地図を広げる。山一つ森一つを超えた隣村を指し示す。了解の印に、竜が小さくいなないた。
 青む空に、まっすぐに昇る。竜の背から見下ろす緑豊かな地。遠く白くかすむ山々。その向こうにあるといわれる魔族の国。未開の土地。どこにも境界線など、ありはしない。山も河も森も、どこまでも滑らかに繋がっていく。繋がって、広がっていく。この空の下では、そこに住む様々な生き物など、すべて飲み混まれてしまう。
「ちっさいよなぁ。おれたち」
 アッシュのつぶやきに、竜がくくっと笑った気がした。

 緑深い山を越え、その山肌を滑るように、紅の森の上へと降りていく。
「紅の森に到着。おっ?」
 見渡す限りの濃い緑の絨毯の中に異変が起こる。前方の木々が突然大きく揺れ動く。そこから目に見えない何かが巻き起こり、アッシュと竜に向かってきた。あっという間に突風に飲まれる。竜の翼が風を受けてひしゃげる。意志を持った風がすべてを吹き飛ばそうとする。アッシュのポケットから小さな瓶が落ち、森へと吸い込まれていった。
「あー!魔物さんいらっしゃーいが!」
 来たときと同じように、突然、風がふっと消える。地表まで数メートル。バランスを崩した竜の足が、バキバキと木々の枝を削り取っていく。そのまま竜の背中を蹴って、飛び降りる。なんとか体制を立て直した竜が、再び高く空へと昇っていくのを、木々の間から見送った。
 静かだった。生き物で満ちているはずの森の中は、今はしんと静まりかえっている。息を止めたかのような森。大きな木の根本、草むらの中に、小さな魔物たちが、だらりと手足を伸ばした姿で、散らばっているのを見つけた。みんな気持ちよさそうに、静かな寝息を立てている。
「薬、効いちゃったみたいだねぇ」
 発明ナンバー五百二十一番、魔物さんいらっしゃーいは、どうやら成功のようだ。
 カサリ。草を踏む音に、振り返る。
 木漏れ日溢れる森の中で、目に飛び込んできた銀の色。日に透けて光る銀の長い髪。細く切れ上がった目に赤い瞳。堅く結ばれた唇。整いすぎた顔立ち。すらりと伸びた四肢。その左手に握られた、銀の剣。きつい双眸がまっすぐにアッシュを射る。
 これが、魔族か。
 体の血が、ざわりと騒ぐ。
 カナンのおじさんから、魔族に関する話は聞いていた。けれど、実際に人型の魔物である魔族を見るのは初めてだった。魔物討伐剣士の大抵の相手は、森に住む動物に似た小さな魔物や竜がほとんどだ。十五年前の、魔族と人の大きな戦い以後、魔族を見かけることはほとんどなかった。
 これが紅の森に住むという魔物。森の中に零れてくる、白い陽の光の中に佇むその姿。森と同化しているかのように、美しい生き物。
 銀の魔物が、ひらりと土を蹴る。そして、まっすぐにアッシュに向かって跳躍する。十メートルという距離を一気に飛び越える。
 ガキン。剣のぶつかる音が、静かな森の中に響き渡る。瞬間的に抜いた剣で、銀の魔物が繰り出した剣を、目の前でかわす。その反動で、再び二人の間に距離が開く。すぐに向かってくる。軽くかわす。
 何度か剣を合わせているうちに、変だと感じた。
 まっすぐに向かってくるその瞳に、殺気がない。アッシュの作った薬でも眠りに落ちない魔物ならば、相当な力を持っているはずだ。剣の力も強い。けれど、ただ向かってくるだけで、緊迫した空気が感じられない。
 再び銀の魔物が土を蹴ったとき、アッシュは、構えていた剣をすっとおろした。そしてまっすぐに飛び込んでくるその赤い瞳を、反らすことなく見つめる。飛びかかってくる時間が、スローモーションのように、やけに長く感じられた。間近に迫ったその綺麗な顔が、はっと目を見開く。次の瞬間、どかっという音とともに、細い剣がアッシュの背後にあった大きな木の幹をえぐっていた。ひらりとアッシュの正面、数歩の距離に飛び降りる。銀の髪が、ふわりと宙を舞った。
「おまえ、死ぬ気か。バカ!」
 目の前の銀の魔物にいきなり怒鳴られた。赤い瞳をまっすぐにこちらに向けて、眉毛をつり上げて、本気で怒っている。
 魔族に怒られるとは思わなかった。というか、魔族がここまで人と近いなんて、知らなかった。髪や目の色を除けば、外見も同じだ。もっと遠い存在だと思っていた。
 おじさんの言葉が頭の中に蘇る。
「昔は一つだった。魔族も人も、その区別なんて全くなかった。そんな世界が、ほんの数百年前まで、ここに、存在していたんだよ」
 なんだか急におかしくなって、笑いがこみ上げてくる。おじさんと魔物の研究をしていたときだって、おれは彼らをもっと遠いものだと思っていた。こんなに近くにいたのに。こんなに似ているのに。なぜ、戦う必要なんてあるんだろう。
 本気でおれのことを怒っているこの銀の魔物が、おかしい。まるでカナンに怒鳴られているみたいだった。
「そっちにやる気がないんだから、剣なんて必要ないだろ?」
 そう言って笑うと、目の前の魔物が、力が抜けたようにその場に座り込んだ。アッシュは、木の幹に刺さったままの細い銀の剣を抜くと、銀の魔物に差し出す。
「この森の魔物って、君のことかな」
「たぶん。あっちの村の人が、魔物討伐を依頼したんだろ。知ってるよ。でも、ここはおれの住処じゃない。これも、おれの剣じゃない。昨日、おれのことを倒しにきた、おまえの仲間が忘れてった」
 剣を押し返す。アッシュは、剣をぽいっと投げ捨てると、自分も座り込んだ。
「どうしてここに?」
「一カ月前。おれの竜が、村の人に殺された。ただ、上空を横切っただけだった。おれは、この森に逃げ込んだ。おれを追ってきた人は、この森の魔物たちが追い払ったよ。この森が、おれを守ってくれている」
 木々の隙間に広がる青い空を眺める。銀の髪が、さらりと肩の上を滑って、背中へと流れる。
「なぜおれの竜を襲った?」
「帰りたかったから」
「どこへ」
「あの空の向こう」
 赤い瞳が、空の向こうに、確かに何かを見ていた。あの白くけむる山の向こうにあるという魔族の地。彼はその地を確かに見ている。その視線すっとが降りてきて、まともにぶつかる。引き込まれるようなその色に、心臓がどくりと音をたてた。
 魔物退治の命を受けても、いつも乗り気がしなかった。けれど、今回は、行ってみようかという気になった。カナンに怒られたからとか、そんなんじゃない。けれど、この瞳を見て、わかった。どこか懐かしささえ感じるこの赤い瞳。たぶん、この出会いのために、おれはここに来たんだ。
「いいよ」
「え?」
「連れてく」
「連れてくって、魔族の地へか? 人の言うことなんて、簡単に信じられるか」  その言葉に、ちくりと胸が痛む。
「うん。そうだよね。でも、あの竜は信じられるだろ?」
「そうだ。おまえ、なんで人のくせに、竜なんか乗れるんだ?あれは、魔族にしか」
 銀の魔物が身を乗り出したとき、びゅっと風を切る音がした。銀の髪が一束、はらりと地に落ちる。ビィーンと音をたてて、背後の木の幹に、矢が一本突き刺さった。
「王立軍の矢」
「は?」
「伏せろ!」
 アッシュの右手が、銀の頭をかばうように押さえ込む。その肩を抉るように、二本目の矢が風を切っていった。
「ったたたた」
 肩から腕へ流れる、温かい血。腕を伝い、指の先から地面に吸い込まれていく。目の前にしたたる赤い血を、銀の魔物が凝視する。
「おまえ」
「頭を上げるな!」
 アッシュが首からかけていた銀の笛を吹く。すぐに空が暗くなり、ばさりと羽音がした。
「おい」
「ゼロだ」
「ゼロ。おまえ、ここら辺に寝ている魔物たちを、どっかに隠せるか?」
 ゼロが頷くと同時に、小さく聞き取れない言葉で何かを唱える。魔物たちの姿がすっと消えて無くなった。
「あの山の麓の洞窟に隠した」
「オーケー。じゃあ、おれたちも行こう。王立軍に囲まれたら、絶対に逃げられない」
「王立軍ってなんだよ」
「おれたちの国の王様が作った最強の魔物退治戦士たち。見つかったら、生きてはいられないからね」
「どうやって逃げるんだ」
 アッシュが空を指さす。黒く大きな翼を広げた竜が、空中に留まっていた。
「あんたの竜か」
「飛び乗れ」
 アッシュがゼロの腕を掴んで体を起き上がらせた瞬間に、ゼロが大きく跳躍する。竜の背に綺麗に飛び乗ると、竜を操って、アッシュの方へ降りてくる。
 森の暗闇のあちこちから姿を現す王立軍の兵士たち。その先頭に立つ者の姿に、目がとまる。
「父さん」
「アッシュ」
 アッシュの瞼がすっと狭められる。
「なぜ、王立軍がこんなところへ?」
「たまたま通りかかったら、村人がこの森の魔物のことを訴えてきたんだ」
「信用ないのね、おれ」
「アッシュ。おまえは、自分のしていることを理解しているのか?」
 父の静かな声が、森の中に低く響く。兵士たちが、アッシュに向けて弓を構える。
 父は、若い頃から剣の腕をかわれて、王立軍に所属していた。今は、魔物討伐隊の隊長を務める。小さい頃、自分はそんな父の姿に憧れていた。いつしか、自分も父のような剣士になるのだと、剣の腕を磨いた。けれど、いつしか疑問を抱くようになる。なぜ魔物を討伐しなければならないのか。剣の道は、その答えを教えてはくれなかった。その問いに答えてくれたのは、自分の憧れた父ではなく、カナンの父だった。
「本当は、戦う必要なんて、どこにもないんだよ」
 偶然、魔物から受けた傷に倒れた病床で、カナンの父はこの言葉を繰り返していた。カナンの父の話は、すんなりとアッシュに染みこんだ。カナンの父と過ごした日々が、あの笑顔とともに、アッシュの前に蘇る。
 ゼロと出会った今、はっきりとあの言葉の意味を理解した。戦っていたのは、いつも人の方ではなかったかと。肩から流れ出た血が、握りしめた手の中で、くちゅっと音をたてた。
 アッシュは、まっすぐに父の目を捉えた。大きく息をつく。ゆっくりと吐き出した息の中で、一つの答えを出した。
「はい。わかっています」
 父の顔がふっと歪んだのを見た。笑っているのか、悲しんでいるのか、わからない。初めて見る父の表情だった。
 枝をバキバキと折る大きな音と共に、風が巻き起こる。兵士たちの持つ弓矢や剣が、突風に飛ばされていく。ばさりという大きな羽音とともに、アッシュの頭上まで、竜が降り立つ。
「おい」
 竜の背中から、ゼロが手を差し伸べる。アッシュは、その手をしっかりと掴んだ。重なった手の平から、同じ温度が伝わってくる。
「隊長!」
 兵士たちが隊列を崩していく。アッシュの父は、一気に空へと舞い上がった黒い竜と、二人の姿を、言葉なくただじっと見つめていた。

「おれは、見つけたいんです。おじさんが探していた、たった一つの世界を。自分の手で、探したいんです。父さん」
 今はもう木々に隠されて見えない父に向かって、つぶやいた。
「いいのか」
 アッシュの背中で、声がする。遠ざかる森から視線を上げて、ゼロを見る。赤い瞳が心配そうに瞬きをした。
「おまえ、あのまま竜に乗って、逃げればよかったのに」
 そういうと、ゼロが不思議そうに眉をしかめた。
「おまえは、おれを助けた。魔族は一度受けた恩を、絶対に忘れない」
 まっすぐな瞳が、まっすぐな気持ちを伝えてくる。魔族も、人も関係ない。その気持ちは本物だ。ホッとして、温かい想いに溢れてくる。
 一つ、見つけたよ。おじさん。
 アッシュはゼロの瞳の中に、なつかしいカナンの父の笑顔を見た気がした。ついでにカナンの怒った顔も思い出す。魔物と一緒に逃げました、なんてカナンが聞いたら、きっと怒るだろうなぁ。その表情まで見えるようで、アッシュはまた笑った。そして顔を上げる。
「さあ、行こうか。ゼロ」
「どこへ?」
 アッシュが笑顔で、北を指さす。白い頂が、ぼんやりと青い空の中に霞む。魔族の地。
「あの空の向こうだろ?」
 ゼロが、風になびく銀の髪を、ぶっきらぼうに掻き上げた。
「おまえ、名前」
「アッシュ」
「変な名前」
「ばあちゃんが付けてくれたんだ」
「おまえは、ばあちゃんっ子か」
 ゼロが初めて笑顔を見せた。

 竜の羽が、力強く羽ばたく。風が運んでいく。凍てつく北の地へ。
 魔族も人もない、たった一つの世界を探すために、今、この小さな世界を飛び出す。青い空の向こうへ。
(了)