河合家の幸せ

2006.06.12
 あれは、忘れもしない、小学校五年生の四月。転校してきたばかりの河合優也が、おれの目の前に、指を一本突き出して言った。
「騒がしい。おまえは、カエルにでもなれ」
「ゲコーッ!?」

 初めて優也を見たとき、いかにも優等生面してて、こいつとは絶対に合わないって、直感した。
 あの日あの時、忘れ物を取りに教室に駆け込んだとき、窓際の席では、優也が一人、本を読んでいた。優也んちは、すごいお金持ちで、迎えの車が来ると噂がたっていた。机の上に広げた本のページをめくる音が聞こえる。帰国子女らしいけど、日本語じゃない横文字で書かれた本なんて読んじゃって、カッコつけんなよと、心の中だけで言ってみる。
 そんな優也の姿を、半分むかつきながら見ていたら、椅子に躓いて思い切りこけた。そばにあった椅子と机が、ものすごい音をたてて一緒に倒れる。痛さに顔をしかめながら、目を開く。目の前に優也の上履きがあった。優也はゆっくりとおれの上にかがみ込むと、指を一本突き出して言った。
「騒がしい。おまえは、カエルにでもなれ」
 体がざわざわと震え出す。自分の体が泡になって消えていくような感覚に襲われる。気持ち悪い。もうだめだ。死ぬっ!て思ったとき、その不思議な感覚は消えていた。ぎゅっとつぶった目をあける。おれは、正真正銘、アマガエルになっていた。
 放課後の、誰もいない五年二組の教室で、カエルにされたおれと優也がしばし、互いを見つめ合った。そこに愛も友情も生まれるはずはないけど、優也はいつもの無表情で、おれをじっと見ていた。そして辺りに誰もいないことを確認すると、指先でおれをつまみ上げ、カバンの中に入れる。廊下ですれ違った担任の先生と素知らぬ顔で挨拶を交わし、学校を出たところから、猛ダッシュした。
 それから一時間。古い大きな洋館の一室で、秒を刻む音が響く、これまた年代ものの古時計が、午後四時を告げる音をたてたとき、おれは元の姿、正真正銘の人間、早川和人に戻った。
 その部屋の持ち主は、優也のばあちゃんのトミコさん。トミコさんは、部屋の中に置かれた古い応接セットのソファに腰掛け、紅茶のカップを優雅な仕草で口に運びながら告げた。
「優也。これが河合家に代々伝わる力だ。おまえはたった一人、その力を解放する相手を見つけた。一生、そいつを離すな。河合家の繁栄のためにもな」
 たった一人の相手?一生離すな?何言ってんだ、このばあちゃん。
 いかにも上品そうな水色のワンピースを着たトミコさんの、まるで軍隊の上官のような独特な話し方にもびっくりしたけど、その言葉は聞き逃せなかった。
「ちょっと待って!どういう意味?」
 隣に座っていた優也が、おれを見る。そして、にやりと笑った。
「おまえは、一生、ぼくの言うことだけを聞いていればいいんだよ。早川和人。おまえは今日からぼくのものだ」
 脳みそが、瞬間沸騰する。座っていた椅子を蹴飛ばすような勢いで立ち上がると、おれはその部屋を飛び出した。もう何がなんだかわからない。いきなりカエルにされて、ようやく元の姿に戻ったと思ったら、ぼくのもの?腸が煮えくりかえる勢いで、大きな屋敷の中をずんずん歩き、出口を探す。迷いに迷ったあげく、ばったり出会ったお手伝いさんに無事に出口まで案内してもらう頃には、怒るというよりは、泣きそうになっていた。
 河合優也。むかつく。おれを何だと思ってんだよ。ちっくしょう!
 猛烈に怒っているはずなのに、涙が出てきた。泣きながら家まで全速力で走った。それが、おれの不幸の始まりだった。

「何をほっとした顔をしているんだ?」
 頭上からふって湧いたその声で後ろを振り返ると、優也が立っていた。真新しい黒の詰め襟制服を背景に、桜の花びらが柔らかに舞う。何を着ても、似合うところがむかつく。いつのまにか、おれを見下ろすようなその背の高さにむかつく。
「おかげ様で、優也と違うクラスになれましたので。この世の春だね」
 おれは、目の前に貼りだされたクラス割を指さし、思い切り楽しげに笑ってみせる。
「今は世間一般的にも春だよ。カズ」
 何があっても動じない、実年齢よりも三つくらい大人びて見える優也は、おれの顔を見て、くすっと笑った。その余裕たっぷりの顔が、またむかつく。
 あの運命の日以来、二年間、今、目の前に立つこの男、河合優也に、おれはつきまとわれてきた。優也が人差し指をおれに向けると、おれは、言われたとおりのものに姿を変える。
 実験だと称して、カエルにされ、うさぎにされ、犬にされた。次第にエスカレートし、うなぎ、カマキリ、ミミズにもなった。おれは、ミミズの姿のまま、一生穴掘ってやると、いじけた。
 ある一定の時間が過ぎると、おれは元の姿に戻る。
「今日は大変興味深かったよ。ミミズが土に穴を掘るスピードのデータが取れたんだ」
 金持ちの跡取り息子である優也の夢は、科学者になることだ。子供の頃は、おもしろ半分におれの姿を変えたけれど、今ではそれは実験に代わり、月に一度は人体実験を繰り返す。おれの生体に関する学術レポートを書いているらしい。そんなもの、一体どこに提出するんだ?
 小学校を卒業し、優也と同じ中学に入学した。公立に通う限り、住んでいるところで強制的に学校は決まる。おれの無心の祈りに反して、届いたハガキには、優也と同じ中学の名前が記されていた。
 今、入学式を迎え、麗らかな春の陽の中で、おれはクラス割を前に、この世の春を感じている。おれのクラスはA組。優也のD組だけが、なぜか階が違う。クラスが離れれば、学校で会う機会も必然的に減る。おれはそれだけで嬉しい。この一年間は、すばらしい開放感を味わえるだろう。春を満喫しているおれのそばに、優也がすっと寄ってきた。背を屈めて、耳に触れるくらいの場所で小さく囁く。
「おれ以外の奴の言うことなんて、聞くなよ?」
 余裕たっぷりに笑って、校舎に入っていった。なんとでも言え。なれと言われて、何にでもなってしまうおれの超不幸な人生を、今日、この時から変えてやる。

「なんで、今日もおまえがここにいるんだよ」
「なんでって。お昼だからだ。一緒に食べよう。どうせおまえは、持ってきた弁当なんて、とっくにないんだろう?」
 なんでもお見通しだ、という顔でおれを見て、小さな紙袋をすとんと机の上におく。確かにおれの弁当は、三時限目が始まる頃にはもうなくなっていた。十三歳の食べ盛りだ。身長だってぐんぐん伸びてる。とにかく腹が減るのだ。優也はグラシン紙にくるまれたサンドイッチを、おれの机の上に並べる。最後に牛乳パックを二つ取り出して、どうぞ、と言った。
 優也に実験動物にされてきた二年間。初めの頃は、その度に優也に腹を立てていた。けれど、絶交しようと思ったことは一度もない。おぼっちゃまなくせに、世間知らずじゃない。頭がいいからって、すかしてるわけでもない。おれ以外にも友達はいるし、クラスでも頼りにされている。その訳は、優也自身にある。
 柔らかいのだ。人とか物事に対する優也自身の姿勢が、柔軟剤のきいたタオルのように柔らかい。ひとの姿をぽんぽん変えて、実験台にする変態野郎だけれど、おれはちゃんと知っている。そして、みんなもすぐに気づいた。優也は優しい人間だ。
 だからこんな風に、おれのために用意されたランチと、そして、それをおれの隣でうまそうに食べる優也を見ると、もしかしたら、こんな日々もいいかもと気持ちが揺らぐ。不幸人生三年目に突入し、そんな人生とはおさらばしようと決意したばかりなのに。おれの意志は、食べ物に弱いらしい。
「河合いる?」
 おれが三つ目のサンドイッチにかぶりついたとき、教室の扉が勢いよく開いた。飛び込んできたのは、優也と同じクラスの四谷って奴だ。優也が昼休みも放課後も、暇さえあればおれの教室に入り浸っているのは、中学生活三週間目ですでに公然だ。おれの教室へ、クラス委員の優也を捜しに来る生徒や先生は多い。
「担任が探してる。なんか家から連絡あったって。急いで職員室来いってさ」
 優也が四谷に笑顔で答える。おれは、いつもと同じように余裕のある優也の姿をじっと見ていた。家からの電話なんて、何かあったんだろうか。こんな風に普通ではないことが突然起こると、不安がわき起こる。
「職員室、行ってくるよ」
 おれに一言断ってから、席を立つ。
「優也」
「大丈夫」
 おれの頭にそっと手を置いて、さらりと髪をなでる。それからいつものように微笑んで、教室を後にする。
 その日、優也はそれきり戻ってこなかった。
 何も言わずに、いきなり優也は消えた。こんなことは初めてで、どうしていいのかわからなくなる。たった一人きりの放課後の教室から、広いグラウンドを見下ろす。部活はもう始まっている。活気ある声が、グラウンドに響く。時間はどんどん流れていくのに、おれはいつまでもそこから動けないでいた。

「カズ。おれの嫁さんになってくれ」
 三日ぶりに会った優也は、おれの顔をまっすぐに見てそう言った。

「なんだよ。早川は、河合がいねえと、静かなのな」
 クラスの連中がそう言っておれをからかっても、おれには言い返す気力というものがなかった。優也は三日間、学校を休んだ。たった三日なのに、優也がいない現実が、わけもなくおれを不安にさせる。なんだかこれじゃあ、優也がいないと生きていけないみたいだ。そう思いあたったら、もっと嫌な気分になった。
 三日目の夜。夕食の終わった直後に家のチャイムが鳴る。優也だった。玄関の前で、薄手のコートのポケットに手を突っ込んで、寒そうに立ちつくしていた。少し痩せた気がする。
 おれの部屋にあがった優也は、おれのベッドに腰掛けたまま、何かを考え込んでいる。会話もないままに数分の時が過ぎる。おれも、そんな優也を前にして何も言えない。決意を固めたように顔をあげた優也が発した。
「カズ。おれの嫁さんになってくれ」
「冗談、だろ?」
 おれを見上げた優也の目は、笑ってなどいなかった。ちゃかしてもいない。とても真剣で、まっすぐだ。おれは、居心地が悪くなって、勉強机の椅子にどかりと座り込む。少し伸びすぎた前髪を指でかき上げて、ため息を一つつく。
「どうしたんだよ。突然」
「ばあちゃんが、倒れた」
「えっ?トミコさんが?まじ?」
 トミコさんは河合家の大叔母様と呼ばれ、一族の長たる存在だ。見かけは、お嬢様のまま育った綺麗なご婦人だが、口を開けばここは軍隊かというような言葉使いになる。てきぱきとした物言い、立ち居振る舞いは、見ていて惚れ惚れするほど格好いい。おれは、小さい頃からトミコさんのファンだった。
「この三日間、生死の間を彷徨って、今日、目が覚めた。今は落ち着いている。その間、一族中がうちに集まって、親族会議の連続」
「親族会議って、何話すんだ?」
「まあ、いろいろ」
 優也が言い濁す。間抜けな質問をした。一家の長であるトミコさんが危篤となれば、跡取り問題とか遺産とか、決めなければならないことがいっぱいあるだろう。
「それで、なんで嫁さんが必要なの?」
「ばあちゃんが、おれの嫁さん見たいって。その直後、おれの目の前に山ほどの見合い写真が積まれた。どさっと」
 優也が両手でその山の大きさを空中に示す。たぶん、おれの本棚にある本の数よりも多い。資産家である河合家の跡取り息子のお相手など、小さい頃から候補がリストアップされているのだろう。十三歳で見合いとは、おれとは住む世界が違う。
「で、選べなかったんだ?」
「選べなかったわけじゃない。選ばなかっただけだ」
「なんで?」
「会ったこともない奴を、いきなり嫁さんに選べるわけないだろう」
 優也の言うことはもっともだ。
「それで、なんでおれなわけ?」
「誰も選ばなかったら、親戚中から問いつめられた。もうすでに意中の奴がいるんじゃないかって。おれは何も言わなかったのに、勝手に回りがそんな話になってて、だったらそいつを今すぐ連れてこいと言われた。なんかもう収拾つかなくなって、そんまま家を出てきたんだ」
「どうすんだよ。おれの知る限り、おまえ彼女なんていないだろ?」
「いないね」
 優也の目がおれの顔をじっと見る。いやな予感がする。優也が右手をすっと持ち上げる。そして、おれを指す。
「嫌だ!絶対嫌だ!」
 おれは、椅子ごと後ろに下がる。これまで優也の一言で、おれは何にでも変身してきた。だけど、優也の嫁さんになるために、女に変身なんて、死んでも嫌だ。
 優也がゆっくりと立ち上がり、おれの方へ一歩出る。おれはまたすっと下がる。そしてがつんと壁にぶつかった。優也がすぐ目の前に立つ。視線をきつくしぼり、優也を見上げる。ここはなんとしても闘わなければならない。自分を守るんだ。
「嫌だからね」
 優也の口の端が、すっと上がりふいに微笑まれる。けれどその眼光はするどい。へびに睨まれたカエルのように、体の自由がきかなくなる。でも口だけは必死に動かす。
「嫌だってば」
「どうして?今までどんなものでも、変身してきただろ?それにこれは遊びじゃない。人助けだ。こんな時こそ、この力を使うべきだと思わない?」
 優也は正しい。いつだって間違ったことなんて言わない。だけど、考えてもみろ。トミコさんを安心させてそれで終わりなんてこと、あるわけない。そのまま本当に結婚とかさせられちゃったら、おれはずっと女のままってことだ。それで、優也と子供を作・・・。
「ぎゃあー」
 想像しただけで、体中にサブイボができた。超健全な中学生男子が、なんで同級生の野郎と結婚して、子供なんか作んなきゃいけないんだ。
「おれは、ぜってえ、おまえと子供なんて作らねえぞ」
 そう言い切ったおれの顔を見ていた優也が、笑い出す。
「何を想像してんだか」
 肩を揺らし、腹を抱えて笑う優也。そういえば、今日、初めて優也の笑った顔を見た。頬に赤みがさす。そんな優也の姿をみて、ほんの少しほっとする。でもそれとこれとは話が違う。女になるなんて、絶対に嫌だ。
「嫌なものは嫌なんだ」
 小さくおれがこぼすと、優也がほんの少し、眉根を寄せた。
「うん。ごめんね」
 優也が言った。そして、指を一本おれの前につきつけると、いつものおうに呪いの言葉を呟いた。おれは、まったく動けなかった。ぎゅうっと目をつぶって、来るべきその時を待った。
 けれど、あの全身が泡立つような感覚は襲ってくることはなかった。
 ゆっくりと目を開く。そこには、おれの顔を凝視している優也がいた。優也の手が伸びて、おれの胸の辺りをまさぐる。そして、胸がないな、と言った。おれは、自分のあそこを確かめる。大切なものは、ちゃんと付いていた。何も起こらなかった。おれは、おれのままだった。体中から力が抜けて、椅子の背にぐったりと寄りかかる。
「これは、不思議な現象だね。今までになかったことだ」
「これでわかっただろ。おれはおまえの嫁さんになる資格なんて、ねえってこと」
「そんなことはないよ」
「なんで?」
「おまえはおれの唯一の存在だから。不幸にして、その体は同性だったわけだけど」
「どういう意味だよ」
「言ってなかったか?河合家の言い伝えだ。昔から一族のものは、多少なりとも特殊な力を持って生まれる。でも、その力が真に発揮されるのは、唯一の存在に出会ったときだけだ」
「そこは何度も聞いたよ」
「唯一の存在とは、必ず出会うように運命づけられている。そして、大概がその相手と結婚してきたんだ。年の差があろうがお構いなし。それが一族の繁栄に繋がるんだってさ」
「聞いてない!全然聞いてないよ!そんな大事なことはもっと早くに言っておけ。そしたら、とっくの昔におまえとは縁切ってたよ」
「縁を切るなんてことは、できないよ。早川和人」
 優也がかがみ込んできて、おれと目線を同じくする。おれの中の血がざわざわと沸騰を始める。
「唯一の相手は、この世でたった一人しかいない。おまえだけだ」
 優也のまじないの言葉が、すでに飽和状態な脳みそに達すると、体中の血が顔に集中して火を噴いた。  

 河合家は、夜も遅いというのに、大きな屋敷全体から明るい灯りが漏れていた。
 結局おれは、女に変身することもできず、そのままでいいからという優也に、無理矢理につれて来られた。河合家親戚一同は、優也とおれを暖かく、いや、かなりお祭り騒ぎ気味に迎えてくれた。
「優也くんてば、相手とは一緒にならないって言ってたのに、やっぱりその相手じゃなきゃだめだったわけね」
「そりゃそうだろう。なんせ、特別な相手だからな」
「あらあらあらあら。優也くんのお相手って、すんごい可愛いのねえ。これで同い年?」
「優也ちゃんてば、なんで今まで紹介してくれなかったの?」
 なんだかわけのわからない言葉が、上から降ってくる。そんな玄関前の広間にできた人垣をすり抜けて、暗く長い廊下へと足を踏み入れる。
「さっきの何?」
 静かになった廊下で、おれはやっと息をつく。通り過ぎざまに、頭をぐりぐりされたり、体のあちこちを触られたり、ひどいめにあった。
「河合家の人々」
「そうじゃなくてさ、相手とは一緒にならないって話」
「ああ。あれね」
 ほんの少しの間。ほとんど聞き取れないくらいの小さな声が返ってくる。
「おまえが、嫌がるだろうと思ったから」
 一番大切なところで、自分の想いよりも、他人の気持ちを考える。こういうところが、優也らしい。こういう奴だから、一緒にいることができる。少し前を歩く優也の背中を見上げた。たぶん、おれが知る誰よりも優しい人間だ。
 トミコさんの部屋の扉をそっとノックする。
「ばあちゃん、おれの嫁さん連れてきた」
「バカ。だれが嫁さんだ」
 優也の頭を後ろから叩く。
「あいかわらずだね」
 トミコさんが小さく笑った。
 トミコさんは、大きなベッドの上で、白い大きな枕を背にして起きあがっていた。薄い水色の寝巻に、白いカーディガンを羽織っている。白く細い指を、毛布の上で組んで微笑む。この前会ったときから、なんだか一回り小さくなってしまったようで、胸のあたりがぎゅっと痛くなった。
「優也。おまえはいいよ。私は和人と二人だけで話がしたい」
「はい」
 優也がおれの頭をぽんと一つたたいて、静かに部屋を出ていく。背中でパタンと扉が閉まり、廊下を歩く床の軋む音が遠ざかる。
「和人。こちらへ」
 ベッドの横の椅子へと促される。ベット脇のアンティークなランプが一つ灯っただけの部屋は、仄暗い。その小さな灯りが、トミコさんの顔に柔らかい陰影を作る。正確な年は知らないが、もうかなりな年齢だろう。それでもなお、こんなに綺麗な人を、おれは知らない。
「ごめんな、トミコさん。優也の嫁さんじゃなくって」
「バカだね。和人は」
「え?」
 俯いていた顔をあげたおれを見つめていたのは、とても綺麗なトミコさんの笑顔だった。
「優也に嫁を連れてこいと言ったけど、言葉通りの意味じゃない。優也はその意味を間違えなかったってことだ」
「どういうこと?」
「優也なら、家のためにと、目の前に並べられた見合い写真から、一番いい相手を選ぶこともできたはずだ。でもしなかった。ちゃんと意味がわかっていたからだ。そして、迷わずに和人のところへ行った。優也は、最初からおまえしか選んでなかった。一番大切な人を連れてきた。優也は間違えなかった」
「で、でもでも、おれ、やっぱり男同士で結婚ってのは嫌なんだけど」
 広い部屋に、高らかにトミコさんの笑い声が響く。
「結婚しろなんて言ってない」
「でも、河合家の人は、みんな、唯一の相手と一緒になることで、河合家の繁栄を守ってるって。そういう意味のことを言っていたけど」
「河合家の繁栄ねぇ」
 そう言ってトミコさんは、視線を窓の外に移す。床から天井まである大きな窓の外に、控えめにライトアップされた庭を見ることができる。まだ蕾が膨らみ始めたばかりのバラ園に囲まれた小さな噴水が、かすかな音をたてている。けれどトミコさんの目は噴水ではなく、何か違うものを見ているようだった。たぶん、トミコさんにしか見えない何か。それとも誰か。
「河合家の繁栄は、河合家の人々が幸せであることを意味する」
 おれの元へ視線を戻したトミコさんが言った。
「河合家の人間は、自分でやりたいことを、自由にすればいい。そうしてみんなが幸せになれれば、それが一族の繁栄に繋がる。そういう風に捉えているんだよ」
「じゃあ、優也は家を継がなくてもいいってこと?自分のやりたいことをやれる?」
「当たり前だ。けれど、それは自分で言い出さなくちゃならない。それが河合家のルール。ずっとそれを待っていたのだけどね。優也はあのとおり、自分のことよりもこの家のことを、そして周りにいる人のことを考えるから、今まで言い出せなかった。でもきっと言える。そのために、おまえがいる」
「おれは、何にもできないよ」
「優也は、和人に会うまで、友達なんて一人もいなかった。わかるだろう?この意味が」
 二年前。優也が転校してきたばかりのころ。いつも放課後は一人、教室で本を読んでいた優也。そして、突然、おれをカエルにした。その時からおれの人生は二百七十度くらい変わった。そして、優也も変わった。一人、二人と、友達が増えていく。笑う回数が増えていく。優也がゆっくりと、変わっていく。
 気づいていたよ、トミコさん。おれは優也に会って、変わったと思う。そして優也も変わった。今も、変わり続けている。それが思い上がりでないならば、おれは、ずっと優也のそばにいてもいい。優也が自分の進みたい道へ、なんの気兼ねなく歩んでいける日が来るまで。おれが、ずっと見てるから。そのためなら、いつでも好きなときに、変身してやるから。
「トミコさん」
 おれは、トミコさんの顔をまっすぐに見つめる。
「みんな、幸せになれるといいね」
「ああ、そうだな。みんな、楽しいといい。幸せだといい」
 トミコさんは、大きく息を一つ吐き出すと、静かに眠りについた。幸せな夢を見ているような笑顔を残して。

 立夏。その日は、朝からさわやかな青空が広がっていた。その名に相応しく、空に、木々に、風に、空気に、夏の気配を感じることができる。
 トミコさんは、あのまま目を覚ますことはなかった。おれは、河合家の人々と一緒に、トミコさんを見送った。堪えることができなくて、泣き続けたおれの横には、ずっと優也がいた。
 トミコさんの好きだった庭のベンチで、優也と二人、ぼんやり空を見上げる。視界は涙で歪んでも、空の青さは、変わらない。高く澄んで、どこまでも遠く。トミコさんの大好きな水色のワンピースのように、優しく広がる。また、涙がこぼれる。
「優也。幸せってなんだっけ」
「いきなりだな。どうしたんだ?」
「トミコさん、幸せだったかなって」
「そりゃ幸せだろう。好きなことやって生きてきた人だったらしいから」
「そっか。おまえは?優也」
 優也は、顎をすっとあげて、青む空を仰ぐ。その目は、まっすぐに空の彼方を見ている。
「おれは、みんなが幸せなら、それで幸せかな」
 そう言って、笑った。その横顔が、トミコさんに似ていることに、今、気づいた。
「さて。そろそろ家ん中戻るぞ。これからパーティだから」
「パーティって。トミコさんのお葬式の日だよ」
「ばあちゃん、百歳越えてたんだ。大往生ってやつ。順番も間違ってない。だからみんなでばあちゃんのことを思い出して、楽しく騒ぐんだ。これも河合家の伝統ってやつ」
「なんか、やっぱりおまえん家って変だよ」
「おまえも十分変だろ?カズ」
 そういって、指を一本おれの前につきつける。
「ええっ!?また?」
「おまえに関しちゃ、おばさま方がうるさいんだよ。河合家の嫁として、お披露目も必要だとさ」
「嫁ってなんだよ。おれは嫁じゃねえよ。嫌だからね。女の格好とか。前と同じで絶対無理だから」
「なんか今度はうまくいくような気がするんだ」
「嫌だって」
 開いた口に、指を押し当てられる。目の前で優也がにやりと笑う。
「おれの嫁になれ」
「んがーっ!」
 おれの体が泡立ち始める。ざわざわと細胞が分解して、再び組み立てられていき、そして。
「ぎゃー!」
 河合家の庭に、おれの叫び声が響く。おれの、これからの不幸人生を象徴するかのように、それはどこまでも青い空に、どこまでも突き抜けていった。
(了)