神様は笑う

2006.09.15
「かずき! プリンもってこい。プリン」
 頭の上から、名前が呼ばれた。顔をあげ、声の主を見上げる。
 神様だ。
 神様は、ぼくの家の神棚に住んでいる。たとえ、手のりサイズだとしても、茶髪でロン毛でも、ピアスをしていても、よれよれのジーンズにTシャツを着ていても、これは神様だ。出会いは? ときかれても答えに困る。気づいたら、そこにいた。好きなときに姿を現す。ぼくはその存在に、なんの疑問も抱かなかった。
「プリン! プリン! プリン!」
 ぼくが無視していると、神様が騒ぎ始めた。
「自分で持ってきてください」
「かずきと一緒に食べたいんだ。一人で食べるより、何倍もおいしいじゃん」
 神様がにっこりと笑った。
 めんどうくさがりで、お神酒を飲んでは酔っぱらって踊るし、昼寝が大好きなぐうたらだ。けれど神様は笑う。一番優しい言葉と一緒に笑う。どんなに心が硬い人でも、ふわりとやわらいでしまう。そういう笑みだ。
 しょうがないなとプリンを取りに台所へ向かう。また神様が笑う。
 これがぼくの日常だった。この冬一番の寒さがやってくるまで、神様の存在の意味など、考えたことはなかった。

「きゃー! おばあちゃん!」
 お母さんの叫び声だ。普通じゃない。部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。ぎくりと足が止まる。台所から誰かの足がはみ出している。心臓がどくんと波打つ。
「おばあちゃん! 誰か! 和樹っ!」
 お母さんが呼んだ。ぼくの体はがくがくと震え出す。踏み出す足に力が入らない。やっと台所の入り口に立つ。
「和樹!」
 おかあさんがぼくの腕をぎゅっと握った。冷たい。震えている。声を出そうとしたけれど、言葉にならない。
「和樹はおばあちゃんについてて。救急車を呼ぶから」
 お母さんはぼくをぎゅっと抱きしめる。玄関脇にある電話へと走り出した。ぼくは台所の入り口につったっていた。おばあちゃんは倒れたまま動かない。顔が見えない。
 おばあちゃん、死んじゃった?
 頭の中に死という言葉が点滅した。とたん、体の中を電気が走る。怖い。
 その手に触れてみる。温かい。柔らかい。触れた指の先から伝わってくる。生きている証だ。大丈夫。ぼくは大きく深呼吸した。
「おばあちゃん、和樹だよ。救急車が来るからね。がんばって。おばあちゃん」
 救急車が来るまで、ぼくはお母さんと一緒におばあちゃんを呼び続けていた。
 ぼくだけを残して、救急車のサイレンが遠ざかる。病院には、お父さんがいる。お父さんは医者だ。きっとおばあちゃんを治してくれる。元気で帰ってくる。自分に言い聞かせる。大丈夫だと何度もつぶやいた。
「かずき」
 顔をあげる。神様だ。茶髪の前髪をかき上げる。銀色のピアスがちかりと光った。
 この存在を、ぼくはたった今まで忘れていた。ぼくは神様を見上げた。
「神様、おばあちゃんを助けてください」
「それはできない」
「なんで? なんでできないの?」
「できねえんだって」
「うそだ。神様のくせに」
「神様だからって、何でもできると思うな」
 神様は、困ったことがあれば助けてくれる。だからお母さんは、毎日お神酒をあげて、手を合わせる。こんなときに何もできない神様ってなんだ。
 体の中で、血が沸騰する。止められない。
「じゃあ、何のためにいるんだよ!」
 一瞬、神様の顔がゆがんだ。視線を伏せる。
「おれだってわかんねえよ」
「ふざけんな!」
 今まで信じてきたものが、音をたてて壊れた。神様が笑う。それだけで幸せになっていた気持ちが吹っ飛んだ。神様ってなんだよ。なんのためにいるんだよ。ふざけんな。
 夜になっていた。いつのまにか眠っていた。目を覚ます。体が痛い。寒い。時計を見る。八時だ。電話が鳴った。反射的に飛び起きる。持ち上げた受話器はとても重かった。お父さんの声を聞きながら、ぼくは白い病室の中に立っていた。白いベッドの上で、おばあちゃんが眠りについた。お母さんがいる。声をこらえ、涙する。肩が震える。その肩をお父さんの大きな手がそっと抱く。
 受話器の向こうで、救急車のサイレンが聞こえた。  

 神棚の前には、白い紙がはられていた。おばあちゃんが亡くなったあの寒い夜から五十日間、神棚を封じるためだ。しきたりらしい。神様は一度も現れなかった。季節はゆっくりと春になっていた。
 庭の桜の花が散ってゆく。音はない。月に照らされ淡く光る。一つ風が強く吹いた。花びらが激しく舞う。その向こうにふわりと人影が浮かび上がる。着物を着た女の人だ。降りかかる花びらをあおぎ見る。
「おばあちゃん」
 直感がそう告げた。桜の太い幹の向こうから、もう一人現れた。あっと声をあげそうになった。神様だった。着物を着ている。髪は黒く、一つにきっちりと結ばれている。人間サイズだ。
 二人が向き合う。神様が手を差し伸べると、おばあちゃんの白い細い手がそれに重なった。二人は手を繋ぎ、花びらの中をゆっくりと、懐かしむように歩いていく。
「おばあちゃん」
 二人が振り返る。神様が手を振る。おばあちゃんは柔らかく微笑んだ。
 また風がやってきた。音をたてて枝を揺すり、花を引きちぎっていく。舞う花びらが二人の姿を隠していく。ぼくは追いすがるように叫んでいた。
「神様、ごめんなさい! おばあちゃん、ありがとう!」
 風が行き過ぎた向こうには、誰もいなかった。
 ぼくの頭の上で音がした。神様だった。いつものサイズで、いつものかっこで、そこにいた。ぼくの前に、プリンを差し出す。
「食べるか?」
 ぼくは頷いた。
 花びらの舞い落ちる中で、神様が笑った。
(了)