魔王

2006.05.09
「けんちゃん。早く宿題やりなさい」
 母さんの声が、背中をぐいぐいと押してくる。
「わっかっりっまっしったっ!」
 一音一音、スタッカートで答えて、自分の部屋へとむかう。
「ほんと、めんどくさいよな。宿題なんて」
 ランドセルから『一年生のさんすう』と書かれた教科書を取り出す。
「じゃあ、消してあげようか?」
 突然、後ろから声がした。振り返る。ぼくの部屋の中に、男の子が立っている。真っ黒な服を着ていて、肌が白い。ぼくを見て、にっと笑う。怖くはなかった。
「きみ、だれ?」
「ぼくは、魔王。きみの望みを叶えるよ」
 その声は、今までに聞いたことがないくらい、きれいでやわらかだった。なぜだか、信じてみたくなる。
「じゃあ、この宿題をなくしてくれる?」
「きみの望むとおりに」
 魔王は、にやっと笑う。そして、すうっと色が薄くなって、消えてしまった。その晩、ぼくは、宿題をやらなかった。

 次の日の算数の時間。女子が、勢いよく手をあげた。
「先生。宿題、出さなくていいんですか?」
 ぼくは一瞬、どきりとする。そして、心臓をばくばくさせながら、先生の答えを待つ。
「宿題なんて出していないわよ」
 先生はけろりとした顔で言った。ぼくは心の中で、すごいぞ!と叫んでいた。

 数日後、また、魔王は現れた。ぼくは言った。
「明日の漢字のテスト。なくして欲しいんだけど」
「きみの望むとおりに」
 魔王は嬉しそうに笑うと、また、空気に溶けていくみたいに消えた。
 次の日、当然のように、テストはなかった。せっかく作ったテストをなくしてしまったのだと、先生が言っていた。クラスのみんなは、わあっと喜んだ。ぼくが魔王に頼んでやったんだぜと、いばりたくなった。  

 学校からの帰り道。いつも通る近道に、近所では有名な意地悪コンビを見つけた。三年生でデブのこうたと、同じく三年生でチビのたけしだ。
 マンションとマンションの間を抜ける、その細い通路は、大人は通らない。けれど、ここを抜けると、近道なのを、近所の子供たちはみんな知っていた。ぼくらは、この通路を「緑の絨毯」と呼んでいる。日陰にもかかわらず、いつでも雑草が青々と生えているからだ。
 ぼくの足は、通路の入り口で、ぎくりと、止まった。そいつらにいじめられたことが、何度もあった。二人はぼくに気づくと、顔を見合わせて、にやりと笑った。
 逃げろ、と自分に言う。けれど、怖くて足が動かない。コンビが笑いながらやってくる。
「いいランドセルだな」
「ほんとだぁ。見せてみろよ」
 こうたが手を伸ばして、ぼくのランドセルをぐいっと掴む。ぼくの体が引きずられるように倒れる。たけしがぼくの背中からランドセルを奪うと、パカンとあける。そして、逆さにしながら走り出す。
「あ」
 という間だった。ぼくのランドセルの中身は、緑の絨毯の上に、ばらまかれた。二人は、通路の出口で、大きな声で笑った。笑い声だけを残して、消えた。
 ゆっくりと起きあがる。膝についた泥を落とす。目の前にあるふでばこを拾う。その指先が、涙でかすんでいく。
 悔しかった。何にもしてないのに意地悪をされる。なんの抵抗もできない。
 悔しい。悔しい。あんな奴ら、大嫌いだ。
 最後に落ちていたランドセルに、拾い集めた教科書やノートを入れる。袖で涙を拭く。そのとき、ふと、後ろに気配を感じた。
 魔王が来た。
 ぼくは、後ろを振り返らずに魔王に言った。
「いじめっ子は、いらないよね」
「きみの望むとおりに」
 あのやわらかな声が、いつものように答える。ぼくが振り向いたときには、魔王はもう消えていた。

「今そこで、交通事故があったのよ」
 買い物から帰ってきた母さんが、リビングでテレビを見ていたぼくに言った。アニメの再放送に夢中になっていたぼくは、適当に返事をする。
「それがね。隣のマンションの、こうたくんとたけしくんなの」
「え?」
 ぼくのテレビへの集中力がぷちんと切れる。思わずソファから立ち上がって、台所のかあさんを見た。
「二人で歩いているときに、車が突っ込んできたんですって。救急車やパトカーが来て、大変だったみたい。二人とも大けがしちゃったみたいで。けんちゃんも、車には気をつけてね」
 ぼくの心臓が、ばくばくと音を立て始める。
 あの意地悪コンビが、車にはねられた。大けがをした。ぼくが、魔王にお願いしたすぐ後だ。これは、偶然じゃない。
 魔王がやった。魔王がやった。魔王がやった。
「違うよ」
 声がした。リビングの入り口に、魔王が立っていた。
「違わない。おまえがやったんだ。二人を事故に合わせたんだ」
「違うよ」
「うそだ」
「きみが、そう、望んだから」
 魔王が、ゆっくりとそう言った。ぼくのひざから、力が抜ける。がくんと、床の上に座り込む。暑くもないのに、こめかみから汗がこぼれ落ちる。
「あの二人は、大けがをした。もしかしたら死ぬかもしれないね。これで、きみの望むとおりになったんだ」
 魔王が、ぼくの前にしゃがみこむ。ぼくを見て、そして笑う。ぞくりとした。魔王の真っ黒い瞳の中に、赤く光る炎が見えた。炎に囲まれて、もがくぼくの姿があった。
「わーっ!」
 ぼくは叫んで、自分のベッドに入って、ふとんをかぶる。体が震える。ぎしっとベッドが軋む音がする。誰かがベッドに座る気配がする。魔王だ。
「いやだ。こんなのいやだ」
「どうして?」
「誰かが死んじゃうなんて、ぼくは望んでなんかいなかった」
「きみが言ったんだよ。いじめっこは、いらないって」
 確かにそう言った。けれど、違うんだ。死んで欲しいなんて願ったわけじゃない。ぼくのせいで、人が死ぬなんて、あるわけない。
「きみが、望んだんだよ」
 どこか笑っているような魔王の声で、ぼくの頭はかっとなった。体が熱くなる。震えが収まり、恐怖が消えていく。布団を跳ね上げて、魔王を睨みつけた。
「元に、戻して」
 魔王が声をたてて笑った。
「本当に戻していいの?」
「元に、戻して」
 もう一度、言う。
「注意書きがあるんだ」
「注意書き?」
「一つ。魔王は、その人の時間を、一度しか戻すことはできない。一つ。その人は、魔王のことは忘れる」
「おまえのことなんて、忘れたい。もう二度と会いたくない」
 魔王がくすくすと笑う。
「わかった。元に戻そう。きみの望むとおりに」
 魔王の姿が、空気の中にふわりと溶けていく。消えかけた魔王が、小さく笑った。ぼくの意識はそこでとぎれた。

「あーあ。やんなっちゃうよなぁ」
 となりを歩いていた、たくやが、ぶつくさ言った。
「ほんとだよ。毎回、小テストやるなんてさ。ひどいよ」
 ぼくが答える。
「ぼくたちは、テスト受けに学校行ってるんじゃないっての。学校なんてなくなればいいのに」
「だよね」
「じゃあな、けん。またな」
 いつもの別れ道で、たくやが手を振る。大きなランドセルを揺らして、駆けていく、その背にぼくも手を振った。くるりと振り向いたとき、目の前に、男の子が立っていた。上から下まで、黒い服を着ている。
「学校を、消してあげようか?」
 不思議な声だった。どこか引き込まれていくような、やわらかい声。
「きみ、だれ?」
「ぼくは、魔王」
(了)