your way

2006.08.09
 雨が降る。
 たたん、とたん。窓枠をたたく。静かに。静かに。水滴がガラスを伝う。流れて、落ちて、消える。とめどなく。
 部室のミーティング机に肘をついて、冷たい雨が降る様を眺めている。もう三十分はこうしてじっと座っている。いつものおれを知ってるクラスメイトには、ちょっと信じられない光景かもしれない。普段のおれは、だれかとふざけ合ったり、夢中でしゃべったりして、じっとなんてしてないから。
 そんなおれが、物音も立てずじっと座っているのは、思い出があふれる部室にいるから?
 明日が、久野と会える最後の日だから?


 久野と会ったのは、高校の入学式の後だった。校庭にあふれる部活勧誘の嵐の中、バスケット部のブースで一緒になった。
「でか・・・」
 それが第一印象だった。入学したての頃、まだ一六〇センチを超えたばかりだったおれの横に、のそっと現れた久野は、その時すでに一七五センチを超えていた。
「英洋中学バスケ部出身の久野です」
 低く、落ち着いた声で挨拶をした。
 おれたちの高校のバスケ部は、全国大会で決勝常連の強豪チームだった。小学校の頃からバスケをやっていたおれは、この高校でバスケ部に入ることがずっと夢だった。中学のバスケ部の先輩や、中学リーグで戦った相手もいたから、おれにとっては懐かしい顔ぶれだ。その中で、東京の名門私立からやってきた久野が目立っていたのは、その背だけではなかったと思う。
 切れ長の黒い瞳。誰もが認めるさわやかな、整った容姿。スポーツマンとして鍛えられた体格。そして入学試験トップ合格。
 天は二物を与えずというけど、久野にはそんな格言は関係ないようだった。
 入部届けに記入し終えた久野が、初めておれをみた。
「東中の桜木くんだね。久野です。よろしく」
 少しだけ微笑んで、おれに手を差し出した。自分も手を差し出しながら、吸い込まれるみたいに、久野の澄んだ瞳を見上げる。
「なんで、おれのこと?」
「一昨年の全国大会で、二年生なのにすごい活躍だったから、よく覚えてる。残念ながらうちの中学は、一回戦敗退だったから、試合であたることはなかったけれどね」
「ふーん。そっか。久野だっけ? これからよろしくな!」
 それがおれと久野の最初の出会いだった。なんでもない、普通の出会い。クラスも違ったし、寮に入っている久野と違い、おれは自宅から通っていたから登下校も別。ただ、部活が一緒だけの友達だった。
 久野の秘密を知ってしまったのは、高校二年の夏合宿だった。  

 夏のインターハイを控えて、七月の終業式早々スタートしたバスケ部の夏合宿は、初日からきつい練習が行われていた。インターハイ二連覇を目指すためだ。
 元々バスケ部は練習がきついのが有名で、新入生が入部したものの、半分は一ヶ月で辞め、残りの半分は夏合宿後に去り、四分の一程度が、毎年残る。
 おれも久野は、バスケにかけるパワーは人並みでなく、きつい練習も乗り越えた。おれと久野のコンビネーションプレイが認められて、一年が終わる頃には補欠選手に選ばれていた。二年になってレギュラーになり、いよいよインターハイ目前の夏合宿。はりきらないわけがない。合宿初日、気合い入りまくったおれは、いつも以上にハイになって、コートを走っていた。
 ハイになっていたのには、わけがある。
 実は、期末試験の成績が悪くて、その日の追試のために不眠不休の三日間を過ごし、テストに挑んでいたのだった。無事に追試を乗り切り、どうにか及第点をもらって練習に参加した。三日間のうっぷんを晴らすべくノリノリのおれだった。
 そんなおれの様子を心配して、久野がおれをコートの外にひっぱり出す。
「恵、顔色悪いぞ。寝不足だろう? ほどほどにしとけ。倒れるぞ」
「だーいじょーぶだよ! おれが倒れるような人間に見えるか?」
「いつものおまえだったら大丈夫だろうけど。ずっと寝てないんだろう?」
「へーき、へーき。なんだかいつもより体が軽い感じまでするんだよね」
「そうやっておまえは調子に乗るから心配なんだ」
「久野は心配性だな〜」
「キャプテンに言われてるんだよ。恵は目を離すと何をしでかすかわからないから、よく見張っとけってな」
「なんだよ、それ! まるで子供扱い」
「違うんだ?」
「久野、てめー、コートに入れ! 勝負だ!」
 すぐ熱くなるのがおれの悪いところ。久野はそんなおれの相手を、文句も言わずにしてくれる。切れ長の目を細めて、しょうがないなって顔してる。
 わかってる。自分が子供だってことも。久野が、先輩なんかよりもずっとずっと大人びた奴だってことも。久野があまりにも大人なんで、入学してしばらくした後に、聞いてみたことがあった。
「久野って、いったいどんな育ち方したんだよー。その年でそんなに落ちついちゃってさ。兄弟いないの?」
「いる、妹が一人」
「へー、初耳。そういや久野の家族の話って、聞いたことなかったな。おやじさんが厳しい人だったりするのか? 何やってる人?」
「自営業、みないなものかな」
「って、何?」
「なんだっていいじゃないか。それより数学の宿題やってきたのか?」
 久野がはぐらかすなんて、めずらしかったから今でも覚えてる。
 家族のこと、あまり知られたくないのかな。
 久野は寮住まいで、親元を離れてる。わざわざ東京の有名私立中学から、こんな田舎のスポーツくらいしか有名じゃない高校に来るなんて。なにか家族とあったのだろうか。
 気にはなったけど、なんとなく聞けないでいた。  

 周りの連中が休憩に入ったのをいいことに、おれらはゴールを一つ占領して、ワンオンワンで勝負を始めた。
 一年で十センチも身長が伸びたおれだが、今や一八〇を超える身長の久野とでは、体格差がありすぎる。それでもおれは持ち前のすばしっこさと、得意のフェイントで久野をかわしゴールへ近づく。久野はおれの体調を気にしてか、あまり本気でかかってこない。
「おい! 本気でかかってこいよ!」
 久野を煽るように、睨む。そのとき、体育館の入り口に校長先生とともに入ってきた人物のスーツ姿が目に入った。背の高い、どこかで見た顔の男性。どこだっけか。そこにいるだけで迫力があるというか、目が離せないというか、そんな感じの人物だった。
 久野がおれの視線に気づいて、入り口の方を見る。そして「あっ」と小さく言った。
「何? 知ってる人?」
「ちょっと、ごめん、恵」
「えっ? どうした?」
 そういって校長先生ともう一人の男性の方へ走っていく。三人は、軽く言葉を交わすと、一緒に体育館を出て行った。
 誰だろう?
 一人でボールを持ったままゴール下に突っ立っているおれのところへ、同じ二年の須藤がやってきた。
「いやー、やっぱり迫力だね、間近で見ると」
「何が?」
 須藤が何を言っているのか、よくわからない。
「何って、おまえ、知らないの?」
「だから、何?」
「さっきのスーツの紳士さ、久野財務大臣。つまり久野の親父さんだ」
「は?」
「桜木、おまえ何も聞いてないの? 久野から」
「大臣って」
「久野の親父さん、政治家なんだよ。現職の財務大臣」
「まじで?」
「すごいおぼっちゃまだよな、久野の奴。うわさじゃ、東京に親の決めた許嫁ってのがいるらしいぜ。同じ寮の奴が言ってた。たまに電話があるらしい」
「許嫁って」
「婚約者だよ。久野の嫁さんになる人」
「うそ」
「桜木、久野と一番仲がいいくせに、何も知らないんだな」
「だって久野は何も」
「あぶない! よけろ、桜木!」
「え?」
 バンッ!須藤の言葉にぼーっとしていて、おれめがけてボールが飛んできたのに全く気づかなかった。おれの意識はそこでぶっとんだ。

 なんか、きもちいい。ヒンヤリしたものが、額にのっている。ゆっくり目を開く。まずおれが見たものは、久野の顔のドアップだった。
「うわっ!」
 びっくりして飛び起きる。
 ごちっ。
 おれの顔をのぞき込んでいた久野に思い切り頭をぶつけた。
「ったたた」
 顔面を押さえてる久野。
「ご、ごめん! びっくりして」
「いや、それよりおまえは大丈夫か?」
「そういや、おれ、どうして? ってゆーか、ここどこ?」
「部室。おまえはボールがもろに頭に当たって、今まで気絶してたの」
「え、まじ? うわー、恥ずかしい」
「だからいったろ、無理するなって」
 長椅子に寝かされたおれの横で、ぼろい椅子に腰掛けておれの顔をのぞき込む久野。切れ長の黒い瞳。こんなに間近でみたのは初めてで、なぜかドキリとした。急に須藤の話を思い出す。許嫁という言葉。なんだか重い。おれの知らない久野に見える。
「あーえっと、いま何時? もう外暗いんだな。そろそろ戻らないと。迷惑かけてごめん」
 居たたまれない。空気はあるのに息苦しい。起きあがる。動くと、ボールをぶつけた頭がズキと痛んだ。痛みに少しだけ顔をしかめる。そんなおれを久野は見逃さない。長椅子から立ち上がろうとするおれを久野が制する。
「もうちょっと横になってろ」
「だって、夕食の時間だし」
 ちらりと壁時計をみる。もう六時を回っていた。バスケ部の合宿は、毎年、学校で行われる。宿泊は寮の空いている部屋があてがわれ、食事は寮の食堂でとる決まりになっていた。だから時間も厳しい。
 ぷっと久野が吹き出す。
「なんだよ」
「あいかわらず食事の心配してるからさ」
「いいじゃんか! 食べるの好きなんだ」
 くっくっと久野が笑う。おれもつられて笑う。少しだけ緊張がほどけた。ふうっと息をつく。ぱたっと長いイスに寝そべると、久野がタオルと氷を額に当ててくれた。その冷たさの心地よさに、ほっとする。ほっとして、また、ふいに思い出す。
「なあ、昼間のあの人、親父さんだって?」
「ん? ああ。そうだよ」
「なんで学校に?」
「仕事で近くまで来たからだって」
「仕事って、大臣なんだろ?」
「ばれちゃったか」
「なにそれ」
「いや、できれば隠しておきたかったから」
「隠すことじゃないだろ」
「あんまり知られたくなかった」
「なんで?」
「ここでは、政治家の息子って目で見られたくないんだ」
「別に誰の息子だろーが関係ないだろ? ただの学生じゃんか」
「そう思わない奴らもいるんだ。政治家の息子だとわかったとたんに態度変える奴とか、ね」
「どういうこと?」
「見え見えに友好的になる奴とか多い。でも親父になんか不祥事があったりすると、とたんに離れていくんだ。そういうのの繰り返し」
「なんだよ、それ! おまえには関係ないじゃんか」
「でもみんなそうだった。東京では、ずっとそんな奴らに囲まれてた」
「だからこの高校に来たのか?」
 長椅子から久野の顔を見上げる。部室の電気は消えているが、窓の外からグラウンドを照らす照明の明かりが入ってきて、久野の表情を読みとれるくらいには見えている。久野がおれをじっと見ている。
「ちょっと違う」
 おれの視線に気づいて微笑む久野。少し意味ありげな瞳で。
「じゃあなんで?」
「桜木恵に会いにきた」
「は?」
 なんで? おれ?
「中学の全国大会でおまえのプレーを見た。ちっこいのに力一杯戦ってて、見ていて気持ちがよかった」
「だからってわざわざこんな田舎の高校にこなくても」
「同じチームで、闘ってみたかったんだ。おれの最後のわがままとして」
「最後のわがままって、どういう意味だよ」
 久野が寂しそうに笑う。でも何も言わない。
「なんだよ、なんで黙ってるんだよ、気になるじゃんか!」
 飛び起きた拍子に額のタオルが床に落ちてぽとりと音をたてた。久野がゆっくりとそれを拾い上げる。視線は手に持ったタオルに落ちたままだ。おれを見ない。
「久野?」
「おれは、この先の道がすべて決まっている」
 久野が静かに話し出す。
「この先の道って、進路のことか?」
「そう、これから歩む道、全て」
「すべて?」
「おれの家は代々政治家で、長男は政治家になることになっている。そのための教育を小さい頃から受けてきた」
「なんか小説とかドラマの話みたいだ」
「そうだね。でもあるんだよ、そういう家が。入学すべき大学も。卒業後に何をするかも。そして結婚の予定さえも、すべて決まっているんだ」
 久野の声が淡々としすぎていて、おれはおとぎ話を聞いているような感覚に陥っている。でも、何かがおれの中にわいてくる。この感情はなんだ? 怒り? 悲しみ? 諦めたように語る久野に? それとも久野の家に対して?他人のことなのに、自分の道を決めつけられたみたいで、息苦しくなる。
「須藤が言ってた。許嫁がいるって」
 このおとぎ話が、現実の話なんだってことを裏付ける証拠。
「親同士が決めた相手だ。幼い頃からよく一緒に遊んでいたんだ。中学の時、父親から許嫁だって教えられた。そういう家なんで、あまり驚きはしなかったな。だからおれももう普通ではないのかもしれない」
 答える久野の表情は変わらない。優しく微笑んだままだ。何かがおれを苛つかせた。許嫁の話を笑いながらする久野に。久野の父親に。その許嫁に。言葉では表せない怒りを感じる。
「お前はそれでいいのか?」
「恵なら、そう言ってくると思ったよ」
「家継がなきゃならないとか、許嫁がいるとか。そんなのもう古い考えじゃないか! お前の意志はどうなるんだよ!」
「おれの父親は確かに厳しい人だ。だけどおれの意志も尊重してくれる、そんな人なんだ。おれの好きにしていいと言ってくれた。家の望む通りに生きようと思うのは、おれの意志だ」
「そんなの、いやだ!」
 自分が後を継げと言われているかのように叫んでしまったおれ。自分のあげた声にはたと気づく。何言ってるんだ、おれ。まるで自分のおもちゃを取り上げられたみたいに。久野はおれのものじゃないのに。久野を縛る久野家に怒りを感じている。
「怒ってる。恵らしい」
「なんかわかんないけど、むかつくんだよ」
「おれのせい?」
「わかんね。なんか久野を誰かに取り上げられた感じ」
 ぷっと久野が吹き出す。
「恵のそういうところが、好きだ」
 笑いながらさらりとおれの頭をなでながら言う久野にぎょっとする。別に、他意はないんだよな? でもちょっと焦ってるおれ。
「はぁ? 何言ってんの?」
「初めてお前を見たときから、元気いっぱいに生きてる感じのお前が気になっていた。おれのできないことを、いとも簡単にやってのける恵にあこがれていた。だから、おれの最初で最後のわがままは、桜木恵と高校三年間をバスケットに費やすこと」
「最後っていうな。高校卒業したら、なんかもう一生会えないみたいな言い方だ」
「そうだな、ごめん」
 でも久野の目は、本当に会えなくなるんだよって言っているみたいだった。卒業したらもう二度と会えなくなるなんて、そんなのはイヤだ。久野のバカ!
 泣きたくなって、ごまかすように時計を見上げた。
「あ、晩飯、食いっぱぐれる。寮に戻ろう」
「動いて大丈夫か?」
「平気、平気。晩飯食わないと、明日、力でないからな。おまえ、おれとバスケしにここへ来たんだろう。だったら明日からいやと言うほど、一緒にバスケしてやるよ」
「もう十分やってるけど」
「まだ足りないだろ」
 寮に向かうおれの少し後ろを歩く久野を背中で感じながら思う。タイムリミットは、高校卒業まで。久野とおれの関係は、そこで終わる。その時おれは、どうすればいいんだろう。久野になんといって別れるんだろう。  

 その夏のインターハイは、決勝で東京のライバル校に負けた。原因は、このおれだった。
 後半戦が始まってすぐ、リードしているのをいいことに、調子にのって無理なガードをしようとして、思い切りライバル校の選手にぶつかった。たまたまそいつがおれの一回りも体格がよかったせいで、おれの方がはじき飛ばされ、その拍子で肩を痛めてしまったのだ。倒れたおれを見て、久野がすぐにタイムをとって飛んできた。心配そうにおれをのぞき込むが、監督の号令でコートへ引き返していった。監督はおれの代わりにレギュラー補欠だった須藤をメンバーに加えた。
 おれのペナルティで、相手のフリースローからゲームが再開したが、そこから試合の流れが変わった。相手校が勢いをつけ、どんどん追い上げ始めたのだ。救護室で手当を受けたおれがベンチに戻った時には、すでに四ゴールも差が開いていた。おれは全治二週間のケガを宣告され、ゲームに戻りたくても戻れない状態だった。
 そのまま差は縮まらず、試合終了となった。
 あれだけがんばったのに。悔しい。悔しい。
 おれは、表彰式の間中、ぎゅっと拳を握っていた。そうしないと、みっともなく涙を流してしまいそうだったから。このインターハイを最後に引退する三年の先輩たちは、みな、泣いていた。泣きたくても、泣けなかった。
 閉会式も終わり、他のみんなが更衣室へ戻って片づけをしていても、おれは、自分のせいで負けたことが許せなかった。
「すみませんでした!」と頭を下げたおれを、監督や先輩は責めなかった。おれのせいだと責めてほしかった。許せなくて、悔しくて、情けなくて、どうしたらいいかもわからず、スポーツバックを睨みつけたまま、動けなかった。
 どれだけそうしていたのだろう。静かになった更衣室の様子に気が付いて、ふと顔をあげる。周りを見回すと、少し離れたベンチに、制服に着替えた久野が一人、腰掛けていた。おれが久野の姿をとらえた瞬間、久野が立ち上がっておれの方へやってきた。黙ったまま長身の久野を見上げるおれに、久野が突然どなりつけた。
「あほう! お前のせいで、大事な試合をだめにしたんだぞ」
 久野に似つかわしくないあまりの音量に、思わず体がビクっと揺れる。ぶつけられた言葉に、おれは自分自身への怒りが再燃してくるのを押さえられなかった。ベンチから立ち上がって、まるで久野が悪いみたいに、自分の怒りを久野にぶちまけてしまった。
「わかってるよ! 負けたのはおれのせいだよ! おれが調子にのってたからだ。仲間を助けるどころか足をひっぱった。おれはチームで戦う資格なんかないんだ! おれは、お前のパートナーでいる資格もない!」
 怒りとともに、がまんしていた涙が急にあふれ出す。ぼたぼた落ちる涙で前が見えない。腕組みしたまま、おれの前に立ちはだかる久野の冷たい声がひびく。
「じゃあ、やめるのか?」
 久野の問いに、ぐっと詰まってしまった。高校三年間を久野とバスケットに費やすと、夏合宿が始まったあの日に心に誓った。それ以来、ずっと、久野とバスケットだけがおれの生活の中心だった。今更バスケをやめられるなんてこと、あり得ない。
「やめたくない」
「聞こえないな」
「やめない!」
 キッと久野を睨みつけて言った。ぎゅっと拳を握りしめて、ありったけの力で踏ん張って、久野をまっすぐに見た。久野の表情が急に変わって、冷たかった久野が、ふわりと笑った。
「おれのパートナーは、お前しかいない。だからこんなことでやめるなんて簡単に言われちゃ、困るな」
「久野」
 久野の大きな手が、おれの頭をくしゃくしゃとなでる。急に気持ちがゆるんで、また涙があふれてくる。
「でも、先輩にっ、迷惑かけてっ。先輩たち、最後なの、に」
「来年、おれたちで返そう。インターハイ優勝して、先輩たちに返そう」
「来年の、インターハイ」
「恵、おれがお前をインターハイに連れて行く。必ず。だからついてこいよ」
 まっすぐな久野の瞳。自信があって、余裕があって。おれの知っている誰よりも格好いい。初めて見たときから、その姿にその瞳に、憧れていた。そんな久野が、おれをパートナーとして認めてくれている。
 おれは泣きながら、頷いた。うん、お前のパートナーとして、絶対について行くよ。必ず。
 そう伝えたかったけれど、うまく言えなかった。久野はわかったよって言うみたいに、おれの頭を軽く抱きしめた。
 久野の肩に顔を埋めると、制服から久野のにおいがした。久野の大きいな手のひらが、おれの髪をゆっくりとなでる。なんだか、とても気持ちがいい。撫でられてのどをならす猫の気持ちがわかるような気がする。おれは猫じゃないけど。
 あれ?
 あれれ?
 この体勢って。
 なんだか急に気になってきた。狭い更衣室で、ふたりっきり。久野に抱きしめられている格好で。これって、端から見たら変だ! どうしよう。なんか、ドキドキしてる。おれ、変だよ。
 すっかり涙も引っ込んで、この状況にうろたえているおれを知ってか知らずか、久野はおもむろに「元気の出るまじないをしてやる」と言って、おれの顔をのぞき込むようにかがみ込んだ。そして、一瞬、マジな視線をおれに投げかけて、鼻の頭に「ちゅっ」と軽いキスを落とした。
「な、なななな、なにすんだ! バカ!」
 思い切り久野を突き飛ばす。
「な? 元気出たろ?」
 そういって、あわててるおれの姿をおもしろそうに片まゆをあげて笑ってみている久野。こっちは、マジにびっくりしたのに、久野は冗談だよとでもいっている顔つきだ。
 おれは、バクバクと波打つ心臓を抱えて、その音が聞こえないように、大げさな身振りで、片づけを始めた。手は動かしたまま、時々視線を久野に投げかける。久野は、入り口の近くのベンチに座って、誰かが置き忘れていったらしいマンガ雑誌を読んでいる。たとえ手にしているのが少年マンガでも、何か筋が一本通ったような久野の姿は、いつ見てもかっこいい。それは、彼が背負っている未来があまりに重いものだからか。
 他の学生とは明らかに違う久野。
 久野について行きたい。そして、必ずバスケでトップになる。
 久野と二人で。
 おれ、久野が大好きだ。  できればずっと一緒に・・・

 かたん、という音で目が覚める。いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。ゆっくり顔をあげると、目の前の椅子に久野が座っていた。
「こんなところで寝ていると、風邪をひくぞ。恵」
「久野・・・。なんでここに?」
「教室にお前の姿が見えなかったから。たぶんここだろうなって思った」
 たった今まで、久野の夢を見ていた気がする。
 まっすぐにおれを見る久野の視線に居心地が悪くて、ほおづえをついて、わざと久野から視線を離した。
 窓の外は、相変わらずの雨空。冬を目前にして、冷たい雨に、開きかけた桜のつぼみも縮こまっているように見える。
 おれは、机の上にあった写真屋でもらう簡易アルバムをパラパラとめくった。久野はだまっておれの様子を眺めている。
 今年の夏合宿。そしてインターハイの写真。そこには、心の底から一体となってがんばってきた部員達の笑顔が満載だ。おれは最後のインターハイで二年の時の屈辱をはらした。接戦だった決勝で、優勝が決まった瞬間、おれはぼろぼろ泣いたんだっけ。蘇る記憶と共に、涙があふれそうになる。三年間の久野との想い出が、あふれて止まらなくなる。
 卒業までと思っていた久野との高校生活の幕切れは、あっけなくやってきた。
 インターハイが終わり、チームが二年を中心とした新体制になるのを見届ける頃と、東京の高校へと転校が決まっていた。
 明日、久野は、ここを去る。
 パタンとアルバムを閉じて、立ち上がる。
「そろそろ帰るか。暗くなってきたし。ここも寒いしな」
 ほんとうはまだ、帰りたくない。久野ともう少しだけ、一緒にいたい。でも、一緒にいたら、おれは。
 何でもない様子を装って、床に放りだしてあった鞄に手を伸ばす。ゆっくりと。ひきとめないで。でも、ひきとめて。久野。
「恵」
「ん?」
 いつもみたいに、普通に返事をする。
「ありがとう」
 バカ。そんな優しい声で、そんなこと言われたら、もうこらえきれないじゃないか。ぽたと音をたてて、床に涙が落ちた。鞄を片手につかんだまま、動けなくなる。声も出せず、顔も上げられず。
 ギッ。
 久野が立ち上がった拍子に、部室の古い椅子がきしむ。その音がまるで合図だったみたいに、おれは久野に抱きついた。放り出された鞄がバンっと音を立ててロッカーにぶつかった。久野の鎖骨の辺りにおでこをくっつけて、声を殺して泣いた。久野はおれを抱きしめる。
 涙が久野の制服に染みこんでいくのが見えた。久野へのありがとうも、好きも、全部、そこに入ってたから、おれの想いも、なんだか久野に伝わった気がした。
 それで十分だった。
 久野から離れて笑顔を作る。
「政治家になったら、テレビで久野が見れるな。久野議員汚職疑惑とか?」
 少しおどけてみせる。
「おいおい。冗談にならないよ」
「えっ! 久野、汚職とかするような悪い奴になんのか?」
「ならないよ。でも、政治家なんて、立場違えばみんな悪者みたいにみえるだろ」
「大変な職業だな」
「そのとおり」
「んーでも楽しみ! テレビの中の久野見んの!」
「恵、人の人生楽しんでるな」
「だって、おれの友達で有名人になりそうなのって、今のところ久野くらいだもん」
「政治家は芸能人じゃないぞ」
「おれにとっては政治家でもないよ。久野は友達だから」
 会えなくなっても、おれは久野を見つけることができるから。
 久野がう。おれも、笑う。
「帰るか?」
「うん」
「恵」
「なに?」
「明日、泣くなよ」
「バカ! 泣かないよ。女じゃあるまし」
「以外に涙もろいし、泣くかも」
「泣いて欲しいの?」
「いやー。泣かない方に五百円だからなぁ」
「はい? あ、もしや誰かと賭けてんのか? 須藤だな? んなことすんのは!」
「いやー? バスケ部全員かな?」
「なにやってんの。お前ら」
「で、おれはこうして恵に頼みにきたってわけ。おれの五百円、よろしく」
 というと、おれの前に屈み込んで、おれの鼻の頭に、あのときみたいなキスをした。おれはあふれる気持ちで泣きそうになったから、目を細めて楽しそうに笑う久野の足を思い切りけっ飛ばした。
 雨はまだやまない。
 たたん、たたんという音もさっきのまま。相変わらず窓をつたって流れている。
 暗くなっていく部室を今ひとたび眺めると、バタンと部室のドアを閉めた。二人でしばらくそのドアを見つめる。もう二度と開けることのないだろうドアを。それからまたいつもと変わらない態度で、他の生徒達に紛れて放課後の校舎を歩く。
 明日は晴れるといいな。
 君だけの道をゆく君のために、笑えるといいな。
(了)