ぼくらの行進

2007.01.15
「おまえの野球センスはチームの中でもかなり高い」
 コーチの言葉に、ぼくの心は嬉しさで浮き立った。
 今思えば、相当ガキだった。顔面に期待が丸だし。尻尾をちぎれんばかりに振る犬に見えただろう。次にくる言葉を待ち切れず、頬は軽く上気さえしていた。
『おまえ、次の試合からエースナンバーだ』
 待ちわびていた。その言葉を待っていた。背番号1をつけた自分が見えた気がした。マウンドに立つその背に、しっかりと1が刻まれていた。
 期待は、打ち砕かれたとき、熱をともなった痛みへと変わる。
「拓哉、おまえ、キャッチャーやってみないか?」
 頭が受け付けなかったらしい。え? と聞き返す。
「キャッチャーに転向してみないか?」
 キャッチャー?
 耳を通り抜けたコーチの言葉を、頭でかみ砕く。ジャリっという嫌な音が耳にこだました。音が身体の中をなでていく。心臓の鼓動がどくんと跳ね上がった。酸素が足りない気がして、大きく何度も息をつく。
 なにか言わなきゃ。
 懸命に言葉を捜したけれど見つからない。喉から、息とも声ともわからない空気が漏れただけだ。口の中が渇く。
「おまえ、肩、すごく強いんだよ。打撃センスもいい。そういう奴は、ピッチャーじゃもったいない」
 ちょっと待ってくれよ。
 キャッチャーってなんだよ。ピッチャーじゃもったいないってなんなんだよ。
 コーチの言葉が全身を駆けめぐる。ごくりとつばを飲み込む振りだけして、声を振り絞った。
「ぼくは」
 声が震える。落ち着け。
 大きく息を吸い込む。コーチを見上げた。まっすぐにその目を捉え、はっきりと言った。
「ぼくは、ピッチャーがいいんです」
「それもよくわかってるんだがな、拓哉。キャッチャーは扇の要っていってな、守備の中ではかなり重要なポジションなんだ。打者に合わせて、ピッチャーの配球を考えたり、フィールディングもしなきゃならない。知ってるだろ。おまえは頭の回転も速い。そしてなにより肩がいい。ピッチャーしかできないような純之介と違って、おまえはもっと広い目で試合をみることができる。そういう目を持ってるんだ」
 びくんと身体が揺れた。小さく震え出す。
 純之介の名前がぼくを揺るがす。ぼくと同じピッチャーをめざし、ともに闘ってきたライバルで、幼馴染みで、そして親友の一人だ。
 純之介の球は誰よりもよくコントロールされている。小学校三年からずっと一緒にやってきたぼくが、純之介のことは一番よく知っている。球の威力やスピードだけならぼくの方が上だけれど、全体的なバランスで見れば、純之介には適わない。そんなこと、いやってほど知っている。
 エースは純之介で、ぼくは、いつでも控えのピッチャーだった。
 試合は、先発と後発を、純之介とかわりばんこに勤めてきたけれど、勝率が高いのは純之介だ。ぼくがピッチャーをおりてもおりなくても、純之介はいつだってチームのエースピッチャーにだった。
 目の前が一瞬、真っ白に染まった。
 そして、真っ白な天空から、ひらめきが落ちてきた。
 なんだ。そっか。
 ぼくは、もうきっとずっと前から、負けていたのだ。
 腹の奥底から、なにか湧き上がってくる。これはなんだ。黒くて熱い固まりがもくもくと湧き上がる。身体の中に火種ができる。じりじりと内側から焼かれていく。抑えきれない。自分が飲み込まれる。身体が熱い。喉の奥が熱い。どれほど強くくちびるを噛みしめても、指を握り込んでも、止まらない。火の点いた自分が止まらない。
「ぼくは、負け犬ってことですか?」
 最近、覚えた言葉をつぶやいていた。クラスの女子たちのあいだで流行っていた。口にしたとたん、全身をびりりと電気が駆け抜けた。ぼくは、なにかに負けたのだと、思い知らされた。自覚というのだろう。言うんじゃなかった。後悔した。けれどもう遅い。気持ちは動き出す。出口を求めて、凶暴なほどに荒れ狂う。
「拓哉。おまえ、なに言ってんだ? 負けとか、そういうんじゃないんだ。おまえには」
「ぼくは・・・キャッチャーなんて、嫌だ!」
「拓哉! おい!」
 張りつめた糸は、簡単に焼き切れた。コーチの前から身を引きはがし、寒風の中、走り出す。グラウンドを駆け抜けた。幼馴染みでチームメイトの秀吉が、なにか言った。なにも見ず、なにも聞かず、なにも言わず、ただ走り続けた。
 自分の部屋に飛び込む。ものすごい音をたててドアを閉める。母親に怒鳴られた。応える余裕などなく、ドアに背をあてて、ずるずると座りこんだ。
 悔しい!
 悔しい!
 悔しい!
 頭を抱え、膝に埋めた。叫び出したくなるのを、息をとめ、くちびるを噛み、どうにか堪えた。ふっと、気が遠くなった。
 キャッチャーってなんなんだよ。いままで、ぼくのなにを見てきたんだよ。大人が決めることじゃない。
「勝手に決めんな! 決めつけんなよ!」
 言葉を吐き出すように、グラブを投げつけた。バーンという重い音が部屋に響き、そしてぱたりと落ちた。
 静けさが戻る。震える喉で、息を吐き出す。
 ぱたぱたと音がしていた。雨か? 顔をあげる。窓の外へ視線を向ける。金色に塗り替えられた銀杏の葉が、次々と落ちていく。隣の家のひさしをたたき、降り積もっていく。
 握り込んだままだった指をゆっくりと開いた。手のひらに、爪の後が強く残っている。乾いたくちびるをなめる。口の中で、じわりと血の味が広がった。
 ぼくは、ピッチャーになりたかった。
 マウンドを、ぼくの場所にしたかった。
 金色の枝の向こうに、真っ青な空が広がっていた。その日を最後に、ぼくは少年野球チームの練習に出なくなった。

 吐く息が白く凍る。
 早朝の空気がきんと張り詰める。
 家を出ると、小さな雪片が空を舞っていた。空から落ちてきている、という感じではない。空気の流れに合わせて、軽い欠片が、上へ下へ、ちらちらと動く。ゆっくりと、けれどやがては地面に落ちるが、積もりもせず、軽く濡らすだけだ。
 ウィンドブレーカーのフードを被り、ジッパーを首もとまで上げる。十分にストレッチをしてから、門を開き、走り出す。
 練習を止めても、トレーニングは続けていた。ランニング、ストレッチ、自宅の庭に作られたネットに向かっての投げ込みや素振りは毎日。週に、一二度は、チームメイトの秀吉を相手にキャッチボールをしている。
 住宅街を抜け、川沿いの土手へと上がる。ここからは街が見渡せる。冬の朝を迎えた街は、白い靄の中に包まれ、まだ静かに眠っていた。空が明るさを増してくる。陽はまだ見えない。
 規則正しく息を吐き出す。白い息が後ろへと流れていく。身体の中から、じわりと熱が生まれる。この感覚が好きだ。自分の中で熱を生みだし、自身を動かす。手に、足に、身体の隅々までエネルギーが満ちていくのがわかる。野球を始めて、自分の身体を知った。初めて意識した。きちんとトレーニングを積むことで、より速く投げられるようになっていく。より速く走れるようになっていく。自分で自分の身体を作っていく楽しみを知った。
 ぼくはいつも、この道を東に向かって走る。夏は、すでに太陽が昇っていて眩しいが、冬は陽の昇りゆく様をみることができる。ご来光じゃないけど、冷えた空気の中で、最初の光りを浴びることは、どこか神聖な気がしていた。
 今日は曇りだ。光りは溢れてこない。どこまでも続く灰色の空がのしかかってくる。空気の流れで、雪片が舞う。その向こうに人影が見えた。シルエットしか見えない。それなのに、心臓がドキンと音をたてた。
 ぼくは知っている。白いトレーニングウェアの上下を着て、こちらに向かいランニングしてくる。長身の細い身体。見覚えがある。いつもその背を見ていたのだ。投げる姿を見てきたのだ。忘れることなどできない。
 純之介だ。
 幼なじみで、クラスメイトで、そして誰もが認めるチームのエース。
 会いたくない。
 純之介が悪いわけじゃない。頭ではわかっている。けれど感情を制御できない。どこか違う方向へ突っ走っていく。
 純之介はマウンドをもらった。あの場所は純之介のものだ。ぼくの手が届く前に、ぼくはくるりと方向転換させられた。ぼくは、自分の居場所をなくした。大好きだった野球から背を向けた。みんなとやる野球から離れた。
 笑うことも、忘れた。
 悔しくて、堪らない。純之介が羨ましくて、妬ましくて、どうしようもなくなる。汚い。どんどん汚い想いが溢れてくる。純之介をみると、自分が汚れていく。なんでぼくだけ、こんな想いをしなくちゃならないんだ。こんなのは嫌だ。
 もう嫌だ。
 頭の中では、回れ右をしてすぐに引き返せと命令する。けれど身体は、前へ進み続ける。走り慣れたこの道を逸れることを許さない。
 純之介が顔をあげた。視線と視線がぶつかる。純之介の口が「あ」の形に開く。そしてぴたりと立ち止まった。
 あと五歩。ぼくは膝に力を入れる。
 あと三歩。純之介の口もとから、ぼくと同じように白い息がまるく膨らみ、ゆらりと空へ吸い込まれる。
 あと一歩。純之介から視線を逸らした。
 くちびるを咬んだ。
 純之介の視線がぼくを追っていたのがわかった。ぼくは、前だけを見た。振り返らなかった。純之介は、ぼくを呼び止めなかった。呼び止められても、返事などするつもりもなかった。
 ぼくは背中にずっと純之介を感じていた。走っても走っても、純之介の存在は、大きくなるばかりだった。

「たーくちゃん」
 窓際の席から、頬杖をついてグラウンドを見下ろしていた。今朝、舞っていた雪は、もう止んでいる。サッカーやドッジボールのグループが校庭を走り回るのを眺めていた。
 声とともに、後ろからヘッドロックをかけられる。今のぼくに、こういうふざけたことをしてくるのは秀吉だけだ。
 ぼくは、もう前のように、ふざけることができなかった。
 この身に起きたことは、誰かに話せるほど、簡単じゃない。ぶちまけてしまえるほど幼くない。もう子供のままではいられないのだ。野球から遠ざかって、時間が経てば経つほどに、そういう想いは強くなった。
 同級生たちが急に子供みたいに見えた。
「秀吉」
 給食の終わった昼休み、教室に残っているのはぼくと秀吉と、女子が数人くらいだ。ヒーターが熱を吐き出す音さえ聞こえてきそうなほど静かだ。のんびりとした空気が漂っている。ときおり校舎のどこかから、バタバタと走る音や誰かの笑う声が響いていくる。後ろから大きな身体の秀吉が体重をあずけて、のしかかってくる。
「なんだよ。どけよ、重いんだよ」
 秀吉の手をのけようとするが、逆にぎゅっと締め付けてくる。ぼくよりも一回りも体格のいい秀吉を、ぼくがどうこうするのは無理だ。あきらめて、力を抜く。
「おまえさ、なんで純之介だけ、無視すんの?」
 秀吉の言葉は、ぼくのど真ん中に飛び込んできた。
 秀吉はいつだって言いたいことをずけずけ言ってくる。こういうとき、直球を見逃したバッターの気分になる。お手上げだ。それでも以前のぼくなら、空振りしてもいいからフルスイングして、正面からぶつかっただろう。
 無視したくてしてるんじゃない。純之介に嫉妬しちゃうんだよ。どうにもならないんだ。すっげえ、悔しい。つらいよ。どうしていいか、わかんねんだ。
 そう言えた。
 もう前みたいに自分を出すことはできない。これ以上傷つくことがいやで、自分を守ることしかできない。
「純之介? 誰、それ」
 秀吉に頭をはたかれた。
「いってぇ」
 後頭部をおさえて振り向く。秀吉がぼくを見下ろしていた。睨んでいる。ぴりっと緊張が走る。
 秀吉は六年の中で一番背が高い。体つきもがっちりしている。よく中学生と見間違われるくらいだ。いつもはふざけてへらへらしている奴だけど、ときどき大人びた表情を見せる。とくにこんな風に怒った顔のときは迫力が増す。
「バカか、おまえ。おれたち、あと一週間で卒業だぞ。このまんまでいいなんて、思ってねえだろが」
「思ってねえよ」
「じゃあ、なんとかしろや」
「できるなら、やってるよ」
 このままでいられるわけはない。野球を捨てたまま、生きるなんて無理だ。秀吉と純之介とぼく。この三人で、ずっと一緒に野球をしていたい。同じ中学いって、同じ高校いって、ずっと続けたい。本当は野球がしたい。いますぐにでも、グローブをはめ、ユニフォームを着て、あの土のにおいのするグラウンドを走りたい。
 でもどうしていいかわからないんだ。
 ぼくたちは、あと一週間で小学校を卒業する。一ヶ月もたたないうちに中学生にならなければならない。自分がなりたくてなるのではなく、自動的に、強制的にならなきゃいけないのだ。それなのに、ぼくはまだ立ち止まったままだ。動けないでいる。ここまで前だけをみて駆けてきたのに、次の一歩を踏み出す方法がわからない。ぼくだけを置いて、時間だけが、めまぐるしく過ぎていく。
 どうしていいのかわからない。
 そう言えたら、もっと楽になるだろうか。ぼくはくちびるを咬んだ。いつの間にか、くせになっている。言葉を飲み込むことを覚えてしまった。
 ぼくは変わった。変わってしまった。
 なにが人を変えるのか。ぼくは身をもってそれを知った。
 ピッチャーになる。ピッチャーであり続ける。それがすべてだった。それを失ったのだ。今まで目の前に見えていた道が、音をたてて崩れていくんだ。
 机の上においた拳を握りしめる。身体の中を、またあの熱い想いが流れていく。
「秀吉」
「んー?」
「おまえ、知ってるか?」
 叫びたいんだよ。
 誰が悪いのかわかんねえけど。ばかやろう。ちくしょう。ふざけんな。大声で怒鳴りたいんだ。そういうのって、飲み込むと身体の中がめちゃめちゃ熱くなるんだ。火が点いたみたいになって、喉がからからに渇いてくる。すげえ痛いんだ。
 知ってんのかよ?
 言葉がなにも出てこないまま、秀吉を見上げていた。
 応えを待っていた秀吉が、短い前髪をぱらりとかき上げて、一つため息をつき笑った。苦笑っていうのだろう。少し眉を寄せて、口元だけで、しょうがないなっていう笑みをつくる。
「ま、おまえのことだしな。おれがとやかくいうことじゃないよな。でも、引退試合には来いよな。卒業式の次の日だかんな。忘れんなよ」
 ぼくはなにも答えなかった。
「おーい、秀吉、ちょっと来てくれよ。謝恩会なんだけどさ、先生がこれ、クラスで決めとけってさ」
 教卓のあたりから秀吉を呼ぶ声がする。秀吉はクラス委員だ。みんなから頼られている。
「おう、今いく」
 秀吉がぼくの背中に手をあてて、軽く二回たたく。
 もっと力抜いていいんじゃねえの?
 秀吉の手の温かさをとおして、そんな声が聞こえた気がした。
 同い年のやつに慰められてるぼくってなんなんだよ。
 ほいじゃあな、と秀吉が手をあげて机の間を歩いていく。教卓の前で、なにかを言い合って笑った。そんな秀吉がものすごく大人に見えた。
 昼休みを告げる予鈴が鳴った。
 数人の生徒と一緒に、純之介が教室に入ってくる。ぼくを見た。
 純之介は、元々、言葉が少ない奴だ。ぼくや秀吉がみんなと一緒にふざけているときも、そっと外から見ている。かといってみんなからはずれているわけじゃない。
「な、純之介もそう思うだろ?」
「うん」
「純、おまえ、いつだって拓哉の味方だよなぁ。ちっとはこの秀吉さまの味方してくれてもいいんじゃね?」
「バーカ、十年早いって」
 純之介が笑う。これがいつもの光景だ。
 問えば、応えが返ってくる。話だってちゃんと聞いてる。いつもちょうどいい位置にいた。ぼくと秀吉が熱くなってぶつかるときも、純之介がいたから行き過ぎることはなかった。
 今は、その関係がずれている。ずらしたのはぼくだ。純之介はなにもしていない。理不尽だろう。純之介に嫌われても当然のことをしている。
 それでも純之介はぼくを見る。責めるでもなく、問いつめるでもない。なにか言いたげにぼくをみる。
 ぼくはすばやく視線を外す。居心地が悪い。不安定で、足が地につかない。
 ちくんと心臓が痛んだ。

 手の中のボールの存在を確かめる。
 確かな重みが手の中にある。すべてはこの球から始まる。
 すっと息を吸い込む。視線はストライクゾーンを捉えたまま、両腕を振りかぶる。左足が上がる。右腕を引く。ぎりぎりまで身体を引っ張る。腕がしなる。弓から矢が放たれるように、指先から小さなボールが離れる。
 がこっと音をたてて、緑色のネットが大きくゆれた。球はストライクゾーンを大きく逸れて、ネットの枠にあたった。
 ストライクが入らない。ど真ん中を狙っているのに、コースが定まらない。どこへいけばいいのか、方向を見失ったみたいに、ボールが惑う。
 いま、ぼくの前にキャッチャーの構えるミットがない。たったそれだけのことで、球は迷い始めた。
 一人では野球ができない。キャッチボールもできない。まともに投げることさえできないのだ。ピッチャーにはキャッチャーが必要なんだと、思い知らされる。
 ちくしょう。
 かごに入っていたボールを、力任せに投げつける。ボールがつきるまで、ただむちゃくちゃに投げつけた。庭のあちこちに球が散らばる。
 息があがる。
 こんなことしたって、無駄だってわかっているけれど、やめられない。身体の中の熱が、出口を求めて暴れるのだ。熱を吐き出すためだけに、投げ続ける。そうしなければ、崩れてしまいそうだった。
 最後の一個を拾い上げる。どこへでも飛んでいけばいい。そんな想いをぶつけて構える。ふいに、引いた右腕をそっと掴まれた。
「そんな投げ方しちゃ、肩、痛めるぞ」
 振り返る。
「・・・兄ちゃん」
 手の中からボールが自然落下した。兄の優哉が拾い上げる。汚れたその小さな球を、小鳥でも扱うようにそっと手のひらにのせて包む。
「懐かしいな、このボール」
 そういって、笑った。
 久しぶりに見る兄は、別れた数ヶ月前よりもさらに背が伸びていた。秀吉よりもはるかにでかい。背が高いだけじゃない。全体の筋肉の付き方が違うのだ。かっちりと厚い。これが高校野球で全国大会を目指す投手の身体だ。
 去年、県外の高校へスポーツ推薦で入学した。甲子園出場の伝統を守り続ける名門校だ。その年すぐにレギュラーになり、夏には甲子園のマウンドに立った。優哉の投げる姿を、ぼくはテレビで観た。
 甲子園のマウンドは、丁寧に整備されていた。水がまかれ黒く光っていた。サイレンの音とともに最初の一球が投げ出された瞬間、震えがきた。兄の生み出した一球が試合を開始したのだ。
 容赦なく照りつける陽射しと、立っているだけで流れる汗。そして観衆。勝ち続けなければ行くことのできないあの場所が、どれほどの高みにあるのか。あの場所に立つことがどれほど重いのか。兄はその身体に焼き付けている。
 優哉は、マウンド以外の場所を知らない。
 街の運動公園の小さな野球場が、中学校のグラウンドになっても、投げ続けた。設備万端の高校のグラウンドだろうが、甲子園だろうが、投げるだけだ。そこで投げ続けるために、できうる限りの努力をする。いつでも上を目指し、確実に昇っていく。
 そういう人だ。
 兄のそういう姿を見て、ぼくは兄と同じピッチャーを目指した。初めてマウンドに立ったとき、これが欲しい、この場所が欲しかったんだとわかった。
「兄ちゃん。なんで?」
 普段、野球部の寮で生活している優哉は、実家にはほとんど戻ってこない。夏の大会が終わったあと、二日ほどいたが、その後は暮れも正月も帰ってこなかった。
「期末試験も終わって試験休みなんだよ。四月になればすぐに春大だから、今のうちに一度帰省しとこうと思って。今年はセンバツもないし」
「優哉! 帰ってたの?」
 頭の上から母の声が振ってくる。二階のベランダで洗濯物を取りこもうとしたのだろう。ぼくと優哉が見上げると、手すりから身を乗り出すようにした。
「母さん。ただいま」
「びっくりするじゃない。連絡もなく急に戻ってくるなんて」
「ちょっと用事があって」
「用事って、なあに?」
「ちょっとね」
「とにかく、一度、家に入りなさい。ちょうどケーキ焼けたところなのよ。拓哉も」
 ぼくは目を背けた。
 野球の練習に行かなくなってから、親ともうまくいっていなかった。理由を問いつめられ、なにも応えなかった。言いたくなかった。簡単に誰かに話してしまえるほど、ぼくの中では簡単ではなかった。そのあとコーチから連絡があったみたいで、なにがあったのか知ってからは、それ以上、突っ込んではこなくなった。自然と、親との会話は減った。
 ぼくは母さんの焼いたケーキを喜ぶほど、もう子供じゃない。かといって、すべてを飲み込んで平気な顔していられるほど、大人じゃない。じたばたしているのだ。周りの人たちとのいびつな距離に、なによりも自分がじたばたしている。
 グラブを脇に抱えたまま、母さんと兄ちゃんに背を向けて歩き出す。
「拓哉、どこいくの?」
 母のため息が振ってくる。無視する。
「こら! 返事くらいしなさい。もう」
「拓哉」
 優哉がぼくを呼び止める。振り返り、兄の顔を見る。優哉がふわりと笑う。
「キャッチボールしようぜ」
「え?」
「先に河原んとこに行ってろよ。着替えてくる」
 優哉が玄関のドアに消えていった。

 四つ年上の兄と、同じグラウンドで闘ったことはない。ぼくや秀吉、純之介が少年野球チームに入ったのは、小学校三年生のときだ。優哉はすでにチームのレギュラーでエースだった。入ったばかりで、野球の「や」の字も知らないぼくたちは、ひたすら基本練習で、試合に出ることはなかった。
 それでも、優哉はぼくをキャッチボールに誘ってくれた。この河原で、兄とキャッチボールをした。ぼくは兄とキャッチボールができることが嬉しかった。その時間はなによりも輝いていた。優哉が中学に入ると、部活の練習が忙しくなり、ぼくとの時間は減った。
 何年ぶりだろう。久しぶりのキャッチだ。
 練習と同じように、近い距離の軽い投げ合いから始める。球は緩く、弓なりだ。それが次第に距離が開き、軌跡はまっすぐなラインになっていく。グラブの音がパンっとあたりに響く。
「おっ、いい球、投げるな。拓哉」
 優哉が笑った。
 兄は昔からよく笑う人だ。母親に似た優しい笑顔でふわりと笑う。人柄も、その笑顔にすべて現れているといっていい。
 ぼくは父方の祖父に似ているといわれる。ぼくが生まれる前に死んじゃったけれど、厳しい人だったらしい。きりっとした眉と切れ長の目は祖父譲りだ。写真で見たら、ぼくは若い頃の祖父にそっくりだった。
「おまえ、チームの試合でもレギュラーで投げてるんだってな」
「最近は投げてないよ。知ってるんでしょ。練習にも試合にも行ってないこと」
「投げたくないのか?」
「え?」
「おまえは、キャッチャーミットに向かって、投げたくならないか?」
 受けた球をグラブに入れたまま、動作が止まる。どくんと鼓動が跳ね上がる。
 マウンドからまっすぐ前に、キャッチャーのミットがある。すべての力をのせて投げ込めば、そこに吸い込まれる。音をたててミットに収まる。
 あの感覚。あの爽快感。全身に蘇ってくる。軽い眩暈がする。右手をぎゅっと握りしめる。
 そんなの、もうとっくに・・・。
「拓哉」
 兄がぼくの名を呼ぶ。母に似た優しい眼差しが、まっすぐにぼくに向けられる。その視線にあぶられて、溢れてくる。ぼくの中に抱えていた想いがどくどくと溢れてくる。抑えきれない。
「投げたい。ものすごく。どうしても。なにがあっても。ぼくは、野球がしたい!」
 優哉が笑った。それは、甲子園のマウンドで、初めての試合に勝ったときにみせた、あの笑顔だった。
「よかった。練習してきた甲斐があった」
「練習って?」
「ちょっと待ってろ」
 優哉がベンチ脇に置いたスポーツバックの中をごそごそとあさる。なにかを取り出し、「じゃーん」と言いながら、ぼくの方へ左手を差し出してみせた。
 キャッチャーミットだ。
 一目見て、よく使い込まれているとわかる。古くて汚いけれど、手入れされ、大切にされてきたものだ。
「兄ちゃん、それ」
「おれが捕ってやる。ちゃんと座るからな。おまえ、投げろ。ボールはこれ」
 今度は右手を差し出される。手を出すと、真っ白いゴムボールが落ちてきた。ずしりと重量感がある。
「軟式ボール。中学で使うやつ」
「なんでキャッチャーミットなんか。まさか」
「あー、違う違う。ピッチャーやめたわけじゃないって。おれ、他の奴みたいに器用じゃないから、ピッチャー以外できないんだよな。これは、おれが一番尊敬する人からもらったミット。日本一のキャッチャーだった人だ。ほら拓哉、もうちょっと下がれ」
 優哉に指示されるままに、優哉との間に距離を作る。
「うん。そのあたりでストップ」
 優哉が座る。その姿がまるでずっと前からキャッチャーをやっているみたいだ。
 パンっと優哉がミットを叩く。どきっとした。びくりと身体が震える。
「拓哉。これが一八・四四メートルだ」
 だいたいだけどなと付け加えて、ぺろっと下を出して笑う。
 一八・四四メートル。マウンドから捕手までの距離だ。中学以上は、プロだろうと草野球だろうと、この距離は変わらない。バッテリーの距離だ。
 遠い。
 そう感じた。マウンドも本塁もなにもないただの土の上だけれど、これがバッテリーの距離なんだと実感した。
 どくんどくんと心臓が波打つ。その音が聞こえる。
「拓哉」
 優哉が両手を大きく広げてみせる。好きなところへ投げろのサインだ。ぼくたちのチームで使ってきたサインを、優哉が送ってくる。頷いた。
 高鳴る心臓を抑えるように、一度、大きく深呼吸する。グラブの中で、真新しいボールをするりと撫でてみる。ふわりとゴムのにおいがした。三本の指で掴んでみる。初めて触れたのに、手に吸い付くみたいだ。
 そして、兄を見た。優哉の構えるミットを見た。まっすぐにぼくに向かって構えられている。今、この世でたった一つ確かなものだ。
 ゆっくりと振りかぶり、足を踏み出し、右腕を投げ出した。指から離れた瞬間、指先がじゅっと熱くなった。球は一八・四四メートルを真っ直ぐに走り、ミットに収まるとき、タンと音をたてた。
「ナイピッ」
 優哉の声を合図に、全身から力が抜けた。ふっと息を吐き出していた。
 たった一球だった。
 一球投げただけで、全身をなにかが満たしていく。荒れ狂う熱さではない。どす黒くもない。透明で、清流のように冷たい。それが身体の中にこもった熱を、押し流していく。
 代わりに生まれたのは、新しい熱だ。静かに燃えていく、小さな火がぽつりと灯る。暗闇だった道をほのかに照らす。壊れてしまったと思った道の、ほんの数歩先が見えてくる。
 投げるということ。投げる相手がいるということ。一八・四四メートルという距離。野球。それらすべてが、一度、空っぽになったぼくの中に、再び満ちてくる。
 あの音が欲しかった。
 あのミットが欲しかった。
 野球というにおいの中に、いたかった。
「あんま飛ばすなよ。プロテクターはないんだからな。おまえの球はあたったら痛てえんだよ。重いからな」
 優哉からの返球を受け取り、ぼくはにっと笑い返した。
 久しぶりに笑った。
 優哉の向こうに、赤く染まった空が広がっていた。眩しくて、なんだか涙が出そうになった。袖でぎゅっと顔をぬぐうと、次の一歩を踏み込んだ。
 その翌日、優哉はあのミットをぼくに残して帰った。彼が守り、そして闘うべき場所へと戻っていった。母さんは、なにしに帰ってきたのよ、とちょっと拗ねていた。優哉は母さんそっくりの笑顔で笑った。

「あら、拓哉、早いわね。これからランニング?」
 優哉の帰った翌日の朝、ランニング前のストレッチをしていたら、母さんが表に出てきた。新聞受けを覗いて、ふわりと欠伸をする。
「うん」
「ねえ、優哉、なんで戻ってきたのかな。お正月にも戻ってこなかったのよ。野球部の練習がつらいのかしら。あんた、なにか聞いてる?」
 優哉が戻ってきた理由を、ぼくはもう知っていた。
 部屋の机の上に置かれたあのミットと、そこに添えられた雑誌の小さな切り抜きがすべてを語っていた。
「べつになにも」
 ぼくは嘘を一つ、ついた。
「そう」
「じゃ、行ってきます」
「車に気をつけるのよ」
 踏み出しかけた足を思わず止める。
「母さん、ぼくはもうそんな子供じゃないよ」
「あら。そうね。いわれてみれば、私と背丈、変わらないじゃない。いつのまに大きくなったの?」
 母さんがくすっと笑って、ぼくの頭に手のひらを載せる。
「背丈だけじゃないってば」
 ぼくがむくれて、母さんの手を払うと、母さんがにやっと笑った。いやな笑いだ。完全に子供扱いされている気がする。母さんが、さむっと身体を震わせて、玄関に滑り込んでいくのを見送り、ぼくは走り出た。
 土手の上から見下ろす街は、この前と同じように白い靄に包まれている。けれどその向こうには快晴の空が待っている。靄が晴れれば、光に包まれた街が浮かび上がるだろう。
 たった二日前には、雪が舞い、真冬の色を纏っていた街はもう、春を帯びている。ぼんやりとやわらかい光に包まれ、冷気の中にも、確かに春を感じることができた。
 この道を、このまま東へ向けて走り続ける。光に向かって走り続ける。光の中に、ぼくは、その見慣れた背中を見つけた。ぼくと同じ、光に向かい、走る後ろ姿を捉える。間違えはしない。
 きっと会えると思っていた。
「純之介!」
 前を走る純之介が振り返り、ぼくをみとめ、足を止めた。
 ぼくは、大きく息を吸い込んだ。
「ごめん!」
 朝陽の中、ちょうど一八・四四メートル向こうで、純之介がふわりと笑った。

「拓哉! なにしてるの。卒業式、遅れるわよ!」
 母の声が階下から響いてくる。
「わかってるー!」
 大声で返事する。部屋を出ようとして、ふと立ち止まる。あのミットが呼んだような気がしたのだ。
 ぼくは、机の上にあるミットに指先で触れてみた。ずくんと、左の手のひらが熱い。熱をもって、痛む。
 純之介にごめんと告げることができたあの日、ぼくは、初めてあのミットをはめた。純之介の投げる球を受けてみたのだ。
 ピッチャーの投げる球を、ぼくは生まれて初めて受けた。目の前に向かってくる球を怖いと感じた。それでも飛び込んできた球を、このミットは捉えた。しっかりと掴まえた。手のひらがじんと痺れた。
 今もまだあの感触が、広げた手のひらの上に残っている。いつまでたっても、その熱が消えない。逃したくなくて、忘れたくなくて、ぎゅっと握りしめる。
 壁に貼った切り抜きが、窓からの風にひらりと揺れ、存在を主張した。それは、一昨年の夏の甲子園のワンシーン、決勝戦のゲーム終了直後の写真だった。
 マウンドのピッチャーと、そこに駆け寄ったキャッチャーがグラブとミットを打ち合わせている。泣き出しそうに顔歪めたピッチャーに笑いかける背番号2。兄と同じユニフォームを着たその横顔を、ぼくらはよく知っている。
 兄が尊敬する日本一のキャッチャーは、今、ぼくたちのチームのコーチをしている。あの優勝の瞬間、すでに、彼の肩は限界だったことも、野球選手としての未来がないことも、あとで知った。
 ぼくは、あのミットに込められた意味を知った。でもぜんぶじゃない。ぼくなんかの両手で受けとれるほど、あのミットは小さくない。そんなに簡単じゃない。
 けれど、ほんの少しならわかる気がした。
 一番簡単で、一番単純で、一番重要なこと。
 ぼくらはみんな、野球が好きだってこと。
 ピッチャーで在り続けることも、キャッチャーを目指すことも、ぼくはまだ決めていない。
 けど、これから先、その答えを探すための手がかりは掴んだ。行き場のない想いを、兄が受けとめてくれたあの一球の音とともに、純之介の放った一球の熱い跡とともに、この身体に染みついている。
 答えを見つけるのはまだ先だ。
 でも必ず、見つける。
 ぼくらの行く先は、ちゃんと光の中にあるんだ。

「あー、肩こったぁ。今日の校長の話、一段と長かったよなぁ。卒業おめでとうの一言だけでいいっての」
 秀吉が首を回し、黒い筒で肩をとんとんと叩く。
「秀吉、そんな校長、この世にいないから。絶滅しちゃってるから。それから、卒業証書の使い方、間違ってる」
「ばーか、こんなもん、他になんの役にたつってんだよ」
 秀吉が筒をバットのように構えてみせる。びゅんと音をたてて素振りする。
「あっ!」
 純之介が思い出したように声をあげる。
「どした?、純」
「拓哉、明日の引退試合。先発どっちにする? コーチが自分たちで決めておけって言ってたよ」
「あー」
 二ヶ月ぶりで練習に出たとき、そういえばそんなこと、言ってたっけ。
「ぼくは、どっちでもいい。純之介、決めてよ」
「えー、ぼく?」
「おれが決めてやる。これまでのデータを解析するとだな」
「どこにデータがあるんだよ」
「いいから黙ってきけ。拓哉が先発で、純への継投ってパターン。これが一番、勝率が高いんだ。相手は後輩っつっても、次期レギュラーだからな。絶対負けるわけいかねえだろ」
「勝たなきゃ、だな」
「うん」
「よっしゃ。じゃあ、昼飯食ったら、運動公園に集合な。他の六年の奴にも声かけとくから。最後の練習、しようぜ。遅れんなよ、拓哉」
「遅れないでね、拓哉」
「なんで、ぼくだけ」
「卒業式に遅刻してきた阿呆だからな、おまえは」
「あれにはいろいろ深い訳が」
「拓哉みたいな単純な奴に深い訳なんて、あるわけないだろ」
 がははと秀吉が身体を揺すって笑う。純之介もつられて笑う。
「ひどっ!」
 頭の上で、今すぐにもほころびそうな桜のつぼみが、ぼくらの笑い声に揺れていた。
(了)