百の冬、千の春

2007.02.15
 はでな音がした。
 小さな破片が、きらきらと弾け飛ぶ。
「やっべー」
「逃げようぜ」
「葵、おまえも逃げろ!」
「えっ? ちょっ! 待った! 亮太! うっちー!」
 ドタドタと廊下を鳴らしながら、共犯の二人が駆けていく。その足音はあっという間に消えてなくなった。残されたのは、六年二組の教室の真ん中に立ちつくしたおれと、ガラスの割れた窓から吹き込む冬の風だけだ。
「どーすんだよ、これ」
 破片の飛び散った床を見回す。こういうのは残されたもんが損ってわかってんのに、逃げられなかった。おれの正義が発動したのだ。
 悪いのはおれたちだ。狭い教室で、キャッチボールなんて始めたおれたちが、完全に百パーセント悪い。自分が悪いことしたってわかってんなら、謝る。拳骨くらおうが、親の呼び出しをくらおうが、それが男のけじめってもんだ。それがおれの正義。こそこそ逃げ隠れすんのはおれじゃない。
 机の上に載った大きめの破片が、光をちらちらと光りを放ち、視線を引き寄せた。とても綺麗だ。見とれた。ふらりと手を伸ばす。
「素手で触っちゃだめだ」
 伸ばした自分の手の甲に、別の手がそっと重ねられた。ぎょっとして勢いよく振り返る。幼なじみで、ずっと同じクラスで、どうにもこうにも縁の切れない、おれの難題で悩みの原因、西園寺晴人がいた。相手が西園寺だとわかって、手を振りほどく。三歩くらいあとずさる。割れた窓から、二人の間に冷たい風が吹き込む。これが、おれと西園寺の距離だ。
「放っとけよ」
「ケガするから」
 だから、放っとけって。おまえになんか、構ってほしくないんだよ。
 声にならない声で、つぶやいてみる。西園寺の手を振りほどき、行きばを失った手で、アーミー風ズボンを握る。西園寺はなにも言わない。この空気が息苦しい。心配してくれているとわかっていても、素直になれない。他の奴だったら、さくっと受け入れてる。なのに相手が西園寺だと、それだけで過剰に反応してしまう。どうにもならない自分が歯がゆい。
 ふんっと息を吹き出す。そんなおれを見た西園寺が、小さく笑った。口の端っこを少し持ち上げるような、大人びた笑いだ。
 かちんときた。身体の中が瞬時に熱くなる。
「おまえ、おれのこと構うのって、おれんちが、おまえんちの家来だからか?」
 どこかが壊れたみたいな顔でおれを見た。びりりと身体が痺れた。西園寺を見ていることができなくなって、視線を外す。小さく息を吐き出す音がきこえた。
 西園寺が、用具入れから出したほうきとちりとりを、おれに押しつける。
「また明日ね。葵」
 顔をあげると、いつもと変わりない笑顔を作った。
 西園寺のいなくなった教室で、立ちつくす。おれの発した言葉が、口の中でざらざらとこびりついていた。

 昔々、今から何百年も昔、あるところに大きなお城がありました。そのお城には心優しきお殿様が住んでいました。お城には、殿様の家来たちが一緒に住んでいました。その中でも一番偉い人は家老と呼ばれていました。それがおれのじいちゃんのじいちゃんのそのまたじいちゃんのじいちゃんのじいちゃんです。殿様の名前を西園寺晴一といいました。殿様と家来たちは、とても仲良しでした。
 おしまい。
 つまり、おれんち本多家は、代々、西園寺という家の家老だった。江戸時代が終わっても、お城がなくなっても、本多家と西園寺家の縁は切れなかった。今でも両家の関係は、形を変えて続いている。
 おれのじいちゃんは、西園寺のじいちゃんと一緒に、田舎で楽しく暮らしている。おれの父さんは、西園寺の父さんの親友だ。じいちゃんも父さんも、西園寺をとても大切にしている。おれは、そんなじいちゃんたちを見て育った。西園寺がそばにいることが、当たり前だった。
 でも今の世の中、城主と家老の関係なんて、どこにもない。とっくの昔に終わった繋がりに、ただ、とらわれているだけだとしたら・・・。ふいにひっかかった。おれが西園寺を親友だと思っていたことすべてが、嘘に思えた。おれたちを繋いでいるものが過去や家系や血なら、そんな理由で一緒にいるのが堪えられなくなった。
 おれはおれ。ただの本多葵だ。それでいい。西園寺なんていらない。家に縛られるなんて、まっぴらごめんだ。
 あと一ヶ月もすれば、おれたちは小学校を卒業する。私立中学を受験する西園寺と離れて、おれは、普通の中学生になる。あと一ヶ月の辛抱だ。
 ガラスを割ったことを正直に白状した先生に怒られ、家でも母さんにこってりと絞られている間、おれは、西園寺のいない生活を思い描いていた。
『おれんちがおまえんちの家来だからか?』
 ふいに、自分の放った言葉が蘇る。
 なんだか悔しい。こんな言葉を発してしまった自分が悔しい。悔しくて胸の内側が熱くなる。きゅっとくちびるを噛む。両手をぎゅっとにぎりこむ。言葉が耳の奥にこびりついて離れない。西園寺の顔がちらつく。
「あーっもう! なんだってんだよ! なんでおれが!」
「は? なんですって?」
 あ、やべ。目の前に怒り狂った母さんがいた。

 翌朝、学校にいくと、割れた窓は、もう新しいガラスに替えられていた。亮太とうっちーは、夜になっておれに詫びてきた。朝一で、先生にも謝りにいった。だからもういい。おれをおいて逃げたことも許してやる。これがおれの正義だ。
 窓際の席から、一番廊下側の列を見やる。西園寺の席は、ぽかりと開いていた。朝の会が始まっているのに、西園寺は来ない。ぼんやりと教室を見渡すと、空席が目立つ。風邪でも流行ってるのだろうか。先生が出席を取りながら「飯田さんは受験のためお休みです」と言った。はっとした。今日って、西園寺も受験日じゃなかったか。
 足元からざわりと寒気のようなものがあがってくる。
 おれ、受験前のあいつに、なんていった?
『また明日ね。葵』
 笑ってた。西園寺は、なにごともなかったように、笑ってた。大丈夫だろう。いつも冷静でクールなあいつなら、きっと大丈夫だ。たかが受験ごときで、慌てたり、怯んだりしない。けど、おれのせいで落ちたなんていわれたら、一生、後味が悪い。
 気にしたくないのに、気になって仕方ない。
 西園寺が目の前にいると、居心地が悪い。いなければ気になる。頭ん中では、離れたいって思ってるのに、この矛盾はなんだ。またもや、あーっもう! と叫びそうになって、口をおさえる。最近、連発している。それもこれもぜんぶあいつのせいだ。
 おれは机の上につっぷして、強く頭を振った。後ろの席のうっちーが、おれの椅子を蹴り上げた。

「やってらんねえよなぁ」
 亮太が両手をこすり合わせながらぼやいた。その口元から白く息が形をつくる。
 午後は、授業をつぶして、卒業式の練習だった。立ったり座ったり、歌ったり、卒業証書を受け取る練習までした。寒い体育館の中で、拷問の二時間。解放されたときには、全身すっかり凍えていた。手も足もかじかんでいる。暖かい校舎を目指して、おれらは渡り廊下の床を鳴らしながら、駆け抜ける。
「暖房費、けちってるよな、絶対。亮太、おまえの肉でおれをあっためてくれ」
 うっちーが亮太の右腕にしがみつく。亮太はちょっと太り気味だから、いつもあったかいのだ。
「あったけぇ」
「うわっ、ひっつくな。葵まで。重いって。離れろ!」
「いやーん、亮太くん、わたしを離さないで」
「あほか。キモい。やめろ」
 押しくらまんじゅうみたいにくっつきながら、笑う。笑って顔をあげたら、真っ青な空が飛び込んできた。
 こんな風にバカやれるのも、きっと今だけかもしれない。
 中学生になったら、きっともっと大人にならなきゃいけないんだろう。大人になるってことは、自分に自由でいられなくなることだ。叫びたくても、叫べない。
 青い空が目にしみる。急に息苦しくなって、ぎゅっと瞼を閉じる。卒業式の練習なんてするから、こんな気分になるんだ。
 ふいに、ぐいっと腕を掴まれた。
「わっ!」
 バランスを崩す。掴まれた腕がおれを抱え込む。
「なんだよ! あぶねえだろ。急にひっぱるな」
 見上げて、言葉を失った。
「葵」
 西園寺がおれを呼んだ。

 かたん。
 下駄箱に寄りかかると、木の蓋が鳴いた。中途半端な時間だから、おれと西園寺しかいない。これが女子なら、愛の告白? ってな感じで、大歓迎なんだけど、相手が西園寺じゃ、ジョークにもならない。想像したら、ますます気分が悪くなった。
 西園寺はなにも言わない。沈黙は苦手だ。空気が重い。息苦しくて、身動きがとれない。
 おまえが連れてきたんだろ。おまえがおれに用事あんだろ。なんか言えよ。
 がまんしきれないのは、いつもはおれだ。
「どうだったんだよ、今日」
「今日?」
「受験」
「あー、楽勝」
 いつものクールな顔で、さらりと言いのけた。正直、おれはものすごくほっとした。昨日からずっと、胸のあたりでちくちくしていた痛みは、今朝、急激にその深度を増し、心臓にまで達した。不用意な一言が、他人の人生を狂わせるかもしれない。そういう恐怖を、生まれて初めて味わった。冷たい汗があるってことを、知った。
「葵、心配してくれたんだ?」
 葵がにこりと笑う。近所に住む幼稚園児からおばあちゃんまで、女なら誰でも悩殺されるという極上の笑みだ。だけどおれにそんなもんが効くわけない。
「誰もおまえの心配なんてしてねえよ。おまえが私立いけば、おれの中学生活はバラ色だからさ」
 余計なことを言った。わかっているけど、止まらない。そろりと西園寺を伺う。
 どきんとした。やつは、さっきと同じ、優しい顔で笑ってた。そしてまっすぐにおれを見て言い切った。
「でも、いかない」
「は?」
 思考の一時停止。
「合格しても、私立には行かない。葵と同じとこいく」
 一瞬止まった脳が、弾けるようにフル回転を始める。血圧が上昇していく。
「ちょっ、ちょっと待ったぁーっ!」
「なに?」
「なんなんだよ、おまえ。せっかく受験したんだろうが。なんでいかないとか言うんだよ。ふざけんなっ!」
 むらっと腹が立った。なぜだかわからないけど、腹の中が煮え立つ。受験料払って、受験して、そんで行かないだって? 西園寺にしてみれば、私立中学なんて、軽いもんだったかもしれない。だけど、死にものぐるいでその学校目指してるやつが聞いたら、まじ、怒るよ。
「聞きたい? 理由」
「え?」
 西園寺が、唇のはじをほんの少し持ち上げた。警鐘が鳴り始める。注意せよ。西園寺がこういう顔をするときには、ろくなことがない。
「あのね」
 どくんと心臓が音をたてる。
「いやっ! いいいいいいいい。聞きたくない。黙ってろ。おれも男だ。これ以上、なにも問わない。そしておまえは私立行け。全国の受験生の平和のためにも、行ってくれ。わかったな」
 自分でなにいってんだかわからない。両手で耳を塞ぎ、じりっと後ずさる。背中が靴箱と接触する。西園寺がゆっくりと手を伸ばす。逃げ場がない。野犬に追いつめられた、うさぎちゃんの気分だ。耳を塞いでいたおれの腕を剥がして、耳に口がくっつくくらいまで近づいてくる。
 食われるっ! ほんとにそう思った。
「葵と一緒にいたいから」
 西園寺の声が耳をなでた。
「は?」
 腰が抜けた。膝ががくんとなって、冷たい床の上に、ぺたりと座り込む。西園寺が笑い、おれの頭にそっと手のひらをおく。
「それだけ言いにきたんだ。また明日ね」
 西園寺の足音が消えてもまだ、動けなかった。
 マイペースだ。
 おもいっきりマイペースだ。おれが名前の呼び方を変えたり(前は晴人って呼んでいたんだ)、避けたりしてるの、わかってるはずなのに、これっぽっちも気にしてない。これが殿様気質ってやつなのか?
 西園寺の放った必殺の一撃がきいた。帰り支度をすませた亮太に肩を揺さぶられるまで、座り込んだまま、ぐるぐると思考の海で溺れていた。

「西園寺! ちょっと来い」
 学年主任があわてて教室に飛び込んできたのは、もうすぐ朝の会が始まるという時間だった。空気がざわりと揺れる。西園寺が静かに立ち上がる。教室を出るとき、首だけで振り返った。こっちを見たのだと、口元だけで笑った西園寺をみてわかった。
 やつは本気だ。
 昨日の合格発表に、行かなかったのだ。おばさんが代わりにいったと、母さんから聞いた。もちろん合格していたが、入学はしないと公言した。昨日から西園寺家も、うちも大混乱だ。朝っぱらから呼び出しをくらう理由なんて、それ以外にない。大人にはいろいろと思惑があるらしい。決めるのは西園寺なのに、だ。
 けど、おれだって認めたくない。おれにはおれの思惑がある。西園寺のいない中学生活。おれの夢!
 二時間目が始まっても西園寺は教室に戻ってこなかった。休み時間になるたびに、西園寺ファンの女子たちがぐるりと輪になってなにかを囁き合う。
「なあ、葵。晴人どうしちゃったんだろうな」
 ガラス割犯人一味がおれの周りに集まってくる。
「さあな」
「なに、その態度。お前の親友だろ? 職員室呼ばれて戻ってこねえのに、心配じゃねえのかよ」
「誰が親友だって? あいつはただの幼なじみだよ!」
 うっちーの言葉に思わずまじになってしまう。
「なに、怒ってんだよ。葵、おまえさ、晴人とけんかでもしてんの?」
「え?」
「だってさ、前はもっと仲良かっただろ。急にそっけないしさ」
「そうそう。おれも気になってたんだ。おれの推理によるとだな。葵、おまえ、好きな子、晴人に取られたんだろ?」
 うっちーがきひひっと笑う。
「そんなんじゃねえって。うるせえよ」
 絡んでくるうっちーの腕を振り払う。
「ビックニュースだぜっ!」
 教室のドアが開くと同時に飛び込んできたのは、一組の坂井だ。情報屋って呼ばれてる。
「なになに?」
 坂井の周囲に、人だかりができる。
「西園寺が私立中、入学拒否だってよ!」
 一瞬、すべての音が消え去って、それから、教室がひっくり返るような騒ぎになった。
「晴人、かっこいー! おれもやってみてぇ」
 うっちーが手足をバタバタさせる。
「ばあか、おまえの成績で受験なんてできるか。ってか、これか。呼び出しの原因は」
 亮太が腕組みして、うーんと考え込む。
「葵、おまえ、知ってたんじゃねえの?」
「なんも知らねえよ」
「だっておまえ驚いてねえだろうが。知ってんだろ、理由」
『葵と一緒にいたいから』 
 西園寺の言葉が蘇ってきて焦る。消し去りたいのに、消えない。耳が熱くなる。ごしごしとこする。
「なにやってんの? 葵」
「知らねえって言ってるだろ!」
 おい、と亮太の呼び止める声も、三角関係? と笑ううっちーも、無視した。チャイムが鳴る。構わず廊下を駆け抜け、階段を上がる。自分にまとわりつくすべてのものを断ち切るように、勢いよく屋上へと飛び出した。
「あーっもう!」
 フェンスを蹴り飛ばす。両手で金網を掴み、頭を押しあてる。
 西園寺とおれ。
 城主と家来。
 この世に存在しないものにとらわれているのは、おれの方だ。ないものから逃れようと足掻いている。逃げたいのに、そのくせ、西園寺の言葉一つに揺らいでしまう。まっすぐな想いに、ゆさぶられ、またとらえられている。西園寺のとなりにあることが、正しいようにさえ思える。
 なにやってんだ、おれ。はっきりしろよ!
 冷たい風が、おれを責めるように、ちくちくと刺す。
 ガンっ。
「そいつ、ばっかじゃねえのぉ」
 背後で大きな声がした。誰がバカだよ? 振り向く。校舎の中から、ガタイのいい三人が現れた。六年の中でも一番タチが悪いっていわれてる。いじめは朝飯前。そのくせ勉強はできるし、親や先生の前ではいい子ぶる。おれの正義がぶるぶるっと震える。そんなやつらだ。
「先客がいるぜ」
 リーダー格の三条がおれをまっすぐに指さした。
「いけないですねぇ。今は、授業中ですよ」
「あー、こいつ、噂の本多くんだー」
 取り巻き連中の米山と蒲田がひげた笑いを寄こす。
「なんだよ、噂って。おれってそんなに有名?」
 こいつらの絡みにのってやる必要もなかったけれど、おれは今、解けない難問を抱えて、もやもやしてる。どうとでもなれ、そんな気分だ。
「こいつ知らないみたいだぜ。教えてやれよ、ヨネ」
 米山がにやりと笑う。
「本多ってさあ、西園寺とできてるんだって? そのせいで、西園寺が私立蹴ったとか。お熱いねぇ」
「なんだって?」
「あとさあ、おまえって、西園寺の家来なんだってな。西園寺の家って、殿様なんだろ? おまえ、西園寺のこと、殿〜とか呼んだりしてんのか?」
「ぎゃははっ!」
 おれの中でかちりと点火音がした。腹のあたりに、熱い火が灯る。
「誰にきいた? そんな話」
 三条たちをまっすぐに見据える。
「なあ、ふたりって、どこまでいってんの?」
「一生、家来の身分ってどんな感じ?」
 切れるな。抑えこめ。
 手のひらに爪が食い込むくらい力いっぱい握りしめる。その拳が震える。怒りが、どんどん湧き上がってくる。
 やばい。まじ、切れそうだ。
「なあ、知ってるか?」
 三条が薄笑いを浮かべながら、おれから視線をはずすことなく、一歩一歩、近づいてくる。身長差十センチ以上、体重差たぶん十キロ以上の巨体が迫ってくる。
 逃げるな。目を逸らすな。
 三条の手が動く。大きな手に、髪をつかまれる。
「っつ」
 ひきつるような痛みが走る。三条が顔を寄せてくる。
「殿様ってやつはさ、気まぐれなんだよ」
 とくん。心臓が鳴く。
「なにがいいたいんだ」
「飽きたら、ぽいっ」
 おれを投げ捨てるように、三条の手がおれを突き放す。全身でふんばったはずなのに、簡単によろけて、尻餅をつく。とっさに尽きだした手のひらが、コンクリートでこすれた。熱い痛みが走る。投げ出したままの足の横に、三条のスニーカーが踏み込まれる。
「興味がなくなれば、いつでも切り捨てる。クールな顔で、ばっさり。おまえもさ、捨てられんじゃねぇの?」
 三条の笑い声が、おれを貫いた。しゅいーんと耳が鳴る。血が逆流したみたいに、唸りをあげる。全身がどくどくする。トレーナーを掴み、胸元を押さえる。かすれた息しか出てこない。
「こいつ、震えてんじゃん」
「西園寺に捨てられるって思ったら怖くなった?」
「・・・うるさい」
「ま、殿様にとってみれば、ただの家来だからな。捨てるのも拾うのも、自由だろ」
「おれも拾われてみたぁい」
「うるさいってんだよっ!」
 力いっぱい両腕を伸ばし、三条を突き飛ばす。
「こいつっ!」
 三条たちが向かってくる。足を払われる。どさりとコンクリートの上に倒れ込む。米山がのしかかる。この巨体に押さえ込まれたら終わりだ。手足を大きく振り回し、暴れる。米山にキックが決まった。立ち上がり、頬を拭う。手の甲に血がついた。それでも、本当に痛いところは、もっと別な場所だ。
 三条たちの言葉は、胸の深いところを貫いていた。引き抜こうとすると、余計に傷が広がった。今まで自分でも気づけずにいた想いが、傷口から溢れ出す。
 ほんとうは、怖かった。
 城主と家来という絆。西園寺との関係が、そんなもので築かれているとしたら、いつか崩壊する。そんな不確かなものの上にあるおれと西園寺。その繋がりが、足元から崩れていくとき、おれは、居場所を失う。確かに繋がっているという確信を失い、一人ぽっちになる。
 それが怖かった。だから、自分から離れた。傷つく前に、逃げ出したんだ。
 殴られた痛みが熱に変わる。熱は怒りに変質する。
 なんでおれが怖がんなきゃいけないんだ。怖がって、逃げてどうすんだよ!
 ぎゅっと拳を握る。向かってきた蒲田に、怒りとともに身体をぶつける。勢いついたまま、蒲田の上に倒れ込む。
「ヨネ、後ろに回れ!」
 三条が叫ぶ。その声に気を取られて、一瞬、動きが遅れた。米山の太い腕が首と腹に回り、背後から動きを封じられる。暴れてもふりほどけない。真正面の三条がにやりと笑う。
「やるじゃん。でも、お楽しみはこれからだろ? 蒲田、西園寺、呼んでこい」
「あいつは関係ない! 相手ならおれがしてやる!」
「はっはー! 殿様想いだな。さっすがぁ」
「そんなんじゃねえよ!」
 蒲田が屋上を横切り、扉を開いた瞬間だった。蒲田の身体が吹っ飛んだ。大きく開かれた扉の向こうに、西園寺が立っていた。
「関係ないわけないだろ? 葵」
 西園寺が笑う。ゆっくりと歩み、三条の目の前に立った。
「西園寺!」
 三条が西園寺に飛びかかった。西園寺の胸ぐらを掴む。西園寺がくちびるの端をにやりと上げた。
「やめといた方がいいんじゃない? せっかくあの中学、受かったんだからさ。補欠だけどね」
「なっ」
 西園寺が三条の耳元で囁いた。たぶん、三条とおれにしか聞こえなかったはずだ。三条の顔色が変わった。
 まっすぐに西園寺の視線が三条を射る。口元は笑っていても、目が笑っていない。怖いくらい鋭い。三条が言葉を飲み込んだ。西園寺を掴んでいた手がゆるむ。
 睨んだだけだった。たったそれだけで、三条を下がらせた。
 これが西園寺だ。
 ずっと昔から、知っていた。その強い瞳も、意志も。ときに、痛いくらい、まっすぐに想いをぶつけてくることも。いつだって怖いくらい本気だってことも。誰よりもおれが知っていた。
「いくぞ」
「なんでだよ! 三条!」
 三条のあとを追うように、米山たちが校舎に入っていく。重い鉄扉がばたんと閉まると、四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。急に膝から力が抜けた。
「はでにやったね。その傷」
 西園寺がおれをのぞき込んで笑う。
「なんで来んだよ」
「三条のターゲットは最初からおれだったからね。あいつらがおれのことシメてやるって話してんの、聞こえたから。葵がいるとは思わなかったけど」
「は?」
「三条もおれと同じ学校、受けたんだ。あいつは補欠のぎりぎり合格。プライドにひびが入っちゃったんだね」
「おまえが大騒ぎを起こすからだろ」
「うん。ごめんね」
 西園寺が、頬の傷にそっと触れた。座り込んだまま、西園寺を見上げる。西園寺が手を差し出した。
 敵わない。
 ぶつかってきたかと思うと、こんな風に手を差し伸べてくる。おれに居場所をくれる。しょうがないなって声が、おれの中で聞こえた。
 おれに向かって差し出された西園寺の手をとる。温かかった。冷え切った指先がじんとしびれた。

 春。三月。卒業式。ついでに、大安。
「行ってきます!」
 玄関を出ると、西園寺が待っていた。
「おはよ、葵」
「はよ」
「それ、普段着。おばさんに怒られなかった?」
 紺ブレに白いシャツ、グレーのズボンという完璧卒業式ルックの西園寺がくすっと笑う。
「卒業式だからって、いきなりブレザーとか着れるかよ。恥ずかしいっての」
「らしいね」
「おら、行くぞ」
 西園寺を促して歩き出す。ふわりと桜においが流れてくる。
 この街には、桜が多い。どの枝も、つぼみをぱんぱんに膨らませている。いつ咲きこぼれてもおかしくない。赤紫のつぼみは、一気に、真っ白な花へと姿を変える。街全体に、ふわりと白いカーテンを引いたようになる。学校へと続く、このゆるいのぼり坂も、もうまもなく、真っ白なアーチに包まれる。
 門が見えてくる。生徒としてここを通り抜けるのは、今日が最後だ。明日も、明後日も、来年だって、この門はここにあるのに、今日を境に、すべてが変わる。いや、変わるのは、おれたちだ。
 ふいに、寂しさがまとわりついてくる。隣で西園寺がふっと笑う。
「なんだよ」
「寂しいの?」
「人の心ん中、のぞくな」
 キックをお見舞いする。軽く受け流した西園寺が、ふと足を止めて、桜の枝を見上げた。その横顔が陰る。桜のつぼみを見ているのか。その向こうに白く霞む空を見ているのか。もっと遠く、手の届かない、なにかなのか。
「葵」
「ん?」
「おれ、葵が、おれたちの家のことで、おれのこと避けてるの、知ってた。けど葵に避けられて、初めてわかったんだ」
「は?」
「おれは、じいちゃんたちが羨ましかった。なにがあっても、変わらない。死ぬまで一緒だといえる、確かな関係が羨ましかった。おれも、欲しかったんだ。変わらないものが」
 ちくんと胸が痛む。
「でも、それっておれでなくてもいいだろ?」
「きっと他のだれとも、そんな関係になれない。おれにとっては葵だけだ。それが、受け継がれた血だというなら、それでもいい。きっかけなんて、なんでもいい。葵が、そういうの、嫌なんだってわかってても、おれには葵しかいないから」
 かっと顔が熱くなった。西園寺のこんなところが恥ずかしい。百パーセントの気持ちをぶつけられると、どうしていいかわからない。途惑い、焦る。汗がでる。鼓動があがる。逃げたくなる。そして、嬉しくて、泣きそうになる。
「おまえ、恥ずかしいんだよ!」
「ほんとのことだよ」
「普通はそんなこと、言わないんだって。寄るな! あっちいけ」
 足を速める。おれの後ろから、西園寺がついてくる。振り向かなかったけれど、きっと笑ってるんだろうなと思った。

「葵! 晴人くん! 写真、撮るわよ。こっち見て」
 桜並木の下で、母さんがおれたちにカメラを向ける。母さんたちの後ろには、父さんたちがいた。
 西園寺の父さんとおれの父さん。どっちも普通の人で、どっちがえらいとか、そんなの関係なくて、ただ一緒にいるのが当たり前みたいにそこにいた。父さんたちが、いつかじいちゃんになっても、きっと一緒に笑ってるんだ。それは、また明日、陽が昇るのと同じくらい、確かなことなんだ。
 そんなふうになれたらいい。
 ほんの少し、そう思った。
 おれの右どなりに、西園寺が立つ。ちらりと見上げる。おれの視線に気づいたように、くちびるの端があがる。
 やっぱり敵わない。
 ならもう、観念するしかないだろ。
「しょうがないから、ここにいてやるよ」
 カメラ目線のままつぶやくと、隣で西園寺が笑った。
「はい! チーズ!」
 おれの右手と西園寺の左手が、同時にピースした。
 今朝、まだつぼみだった桜が、白い花びらを綻ばせ、おれたちの頭上で笑っていた。
(了)