HANABI

2007.08.15
 一、

 黒鉛が、白いざらりとした表面に、わたしの欲望のラインを焼き付ける。
 なにかが焦げるにおいがした。ワトソン紙か、黒鉛か、わたしの指か。欲望をはき出しすぎるのだろう。ただの白い紙では、もう受け止めきれない。紙と黒鉛と指の隙間が、その温度差に堪えきれなくなる。狭苦しい二次元の面で、圧力が崩壊する。乾いた音をたてて芯が折れた。
 目が覚めた。
 夜明けだ。夢の残滓なのか、思考の欠片なのか、脳が搦めとられてうまく働かない。もう一度、瞼を閉じる。樋を叩く、小さな水音が耳に障る。雨だ。わたしは深く息を吐いた。

 二、

 雨の日は、ゆっくりと歩く。昔から雨が嫌いだった。いつのまにか、傘からはみ出さないように、用心して歩くくせがついた。
「フカツ、遅刻するよ」
 肩を叩かれた。同じクラスの宮崎が薄いくちびるの端を形よく持ち上げて笑む。くるりと傘が回転し、宮崎の肩に滴が落ちた。白い夏服の薄い布地に染みていく。濡れた制服が、肌に張り付いて透ける。日に焼けた宮崎の肌が、露わになるよりもずっとエロティックに艶めく。ごくっと喉の奥が鳴いた。
 わたしは、人間の肉体に惹かれる。腕や足の形、首筋のライン、筋肉の作り出す盛り上がり、日に焼けた肌。惹かれて、欲しくて、どうしようもなくなる。わたしは、行き場のない希求を紙へと落とすことを覚えた。自分だけのものにするために描くのだ。こういうのを性というのだろうか。
 あの腕と出会った日も、こんなふうに雨が降っていた。
 前をゆく白いシャツが、傘からはみ出た分だけ雨に濡れていた。肌に張り付いた白いシャツは、見ているだけで気持ちが悪くなる。肌にまとわりつくシャツを剥ぎ取りたい。衝動を抑えることができず、苛々した。
 ふいにその腕が動いた。シャツを捲り上げたのだ。
 美しい腕だった。露わになったその腕に、魂まで持っていかれた。大げさでなく、そんな気がした。
 腕の持ち主は、同じ高校の少年だった。まだ細い。筋肉は薄く、滑らかだ。十五歳か、十六歳。顔がみたい。あの腕へと続く造形を知りたくなった。
 二歳も若いその腕に引きずられて、二、三歩、よろよろと歩を進めた。膝頭が濡れた。まるで、硫酸にでも触れたかのように、わたしの足は硬直する。雨がわたしの好奇の邪魔をした。彼はもう視界から消えていた。忌々しい梅雨だ。

「フカツ、なにしてんの? 行くよ」
 宮崎の声が耳に触れる。顔をあげた。宮崎の肩に、まだ制服が張り付いている。指で撫でてみる。弾力がある。少女の腕だ。
「なにそれ? なんかのおまじない?」
「境界線を確かめただけ」
「また妄想の世界にはまってた?」
「妄想じゃないよ。わたしにとってはどっちも現実界。ただ、いまいるべき場所が、どっちだかわかんなくなっただけ」
 宮崎が笑う。宮崎には、どっちも本物だってことが、わからないらしい。
「ほら、心臓がおかしい」
 宮崎の手をとって、左胸に押しあてる。宮崎の手のひらは、思いがけず冷たくて、薄いシャツも薄い下着も通り越して、心臓に直に触れられているみたいだ。
「ちっさ」
「あんたにいわれたくないんだけど・・・なにしてんの」
「ちっさいから揉んであげてんの」
「ちっさいままでいいんだよ」
「男子はおっきいのが好きなんだよ」
「おっきくなったら、ブラ、高いじゃない」
「確かに! 胸がでかいとお金がかかるんだよ。世の中、変だよ。変」
「かわいいブラも、ないしね」
「恋にでも落ちた?」
 世の中の変は、ふいに恋に変換された。
「あ。いま、どくっていった」
 宮崎の茶色の瞳がわたしの心臓に落ちる。
「フカツが恋」
 宮崎が瞼を細める。
「誰?」
 囁くような声は、耳ではなく、宮崎のくちびるの動きで読み取った。
 恋?
「あり得ない」
 宮崎に背を向けて歩き出す。
「えー、つまんない。つまんないよ、フカツ」
「あんたをおもしろがらせるために、生きてんじゃないから」
「ケーチ。ケチケチ」
「意味わかんない」
 喧噪を打ち消すように、予鈴が鳴った。
 恋? あの腕の主に? そんなの、あり得ない。わたしが欲しいのは身体だけ。心なんていらない。
 階段を駆け上がる。息が上がっていく。鼓動が激しい。肺が痛い。
 恋ならばもっと・・・
「フカツはいいなぁ」
「なにが」
 二段上から、宮崎の指が伸びる。
「綺麗な長い髪」
 灼けた指先は、髪に絡まることなくすり抜ける。
「男子好みの細い身体。抱きしめたら折れちゃいそう」
「宮崎だって細いよ」
「あたしのはぜんぶ筋肉だから折れない」
「折られたいの?」
「いいね、そういうのも」
「宮崎の趣味ってよくわかんない」
「フカツにはわかんないよ」
 宮崎の顔が、いつもと違う色を帯びる。笑っているのに、憂いがある。まるで、マルスだ。
 勇敢な戦士。闘う神。それゆえに、あの石膏像は無表情といわれる。けれどわたしの指は知っている。無いわけじゃない。隠しているのだ。あの静かな面の裏にたぎる感情を、巧みに隠している。なんのために闘うのか。あるいは、誰のために闘うのか。美しい謎がある。
「宮崎。もしかして、好きな人がいる?」
 宮崎の憂う頬の下に、甘い熱が満ちている。
「いないよ。そんな人」
 熱を帯びた女の瞳が嘘を示す。らしくない。欲しいといえない。好きだといえない。こんな宮崎を、わたしは知らない。
 こういうのを、恋というのだろう。夢の中でまで、狂ったように木炭を擦りつける瞬間を、そんな甘い名で呼べはしない。
「キサラギ」
 腕の持ち主の名は、ひどく酸っぱい味がした。顔をしかめる。宮崎みたいに笑えない。
「なんかいった?」
 宮崎はもう、マルスでもなく、女でもなかった。十八歳の宮崎が、軽やかに上がっていく。スカートが跳ねる。陸上で鍛えた美しいラインがわたしの指を挑発する。
「パンツ見えるよ」
「残念でしたー。スパッツ履いてます」
 宮崎の笑い声とチャイムがぴたりと重なった。

 三、

 冷房の効いた美術室から見るグラウンドは、今日も白っぽく焼かれ、熱に揺らいでいる。陸上部がランニングを始めた。宮崎が先頭を走る。ショートパンツから伸びた足が、規則正しく土を蹴る。
「夏みたい」
「みたいじゃなく、夏なんですよ。深津先輩」
 隣にいた五十嵐が独り言を拾ってくれた。二年生だ。キャンパスに、蒼いねっとりとした絵の具を、盛り上げるように重ねている。油のにおいを嗅いでみる。やはり重い。水彩を好む自分には、油絵の具は重すぎる。その粘り気も、解けずに混じり合うだけの色合いも、筆も、においも、すべてが手に絡みつく。重く絡まり、動きを封じられていくみたいだ。
「深津先輩、知ってます? 一年の田宮が今日、部活休みな理由」
 五十嵐が絵筆を油壺の中へ落とした。からんと、意外に澄んだ音がした。眼鏡の奥の五十嵐の目がにやっと笑う。
「なに?」
「如月っていう同じ学年の男子に、振られたんだそうですよ」
 刹那、目の奥に羞明を感じた。
 シャツから伸びた腕に、筋肉が作り出す筋が一本通る。美しい形。他のものなんていらない。あれが欲しい。
「あの子、なんかすごいキレイじゃないですか、顔が。だから目立つんですよね。あの子が入学してから告った女子は一年から三年まで、なんと十人以上。全員がかなりひどい振られ方したみたいですよ。如月の悪口で溢れてます。確かにカッコイイんだけど、でも冷たくて、バカにされてる感じ。先輩、知ってました?」
 弾けるような音がした。拍手に似ている。ぱちぱちと響く。視線は惑うことなく、窓へと向かう。白っぽいグラウンドにユニホーム姿が二列を作っていた。
「ほら、あの子ですよ。野球部の。一番手前でキャッチボールしてる子。如月智、女の敵」
 知ってる。
 一年C組、如月智。十五歳。野球部でピッチャー。左腕。この街で、小学校から野球を始めた。中学でも有名だった。野球部にいるわたしの幼なじみ、乾純太が、すごいピッチャーなんだ、と興奮していた。
 名前。クラス。出身。経歴。ゴミみたいな情報だ。ゴミ以下だ。言葉にできるような事実など、なにも生み出さない。わたしの一部分も揺らすことなく、散っていくだけだ。知りたいんじゃない。感じたいのだ。

 あの腕に再会したのは、梅雨の合間のグレーに塗り潰されたグラウンドだった。
 如月の足がプレートを踏む。肘を後ろへ引く。肩が回り、腕に筋肉が盛り上がる。一瞬、そこで停止する。引き絞られた弓のように、右手のグラブをはめた手も、球を握る左手も、すべてが張り詰めて、一番美しいバランスをつくる。そして、撓る。柔らかく撓り、息を吐くように緩むのだ。小さな白い球が、長い指から放たれる。弧を描く球跡を追うと、そこに捕手の差し出した黄色いミットがあった。ミットの音を合図に、息を吸った。
 美しい腕が、球を投げる、それだけの、ほんのわずかな継起の中で、白熱し、絶対的な存在へと変質した。
 その日から、わたしの網膜は如月を追い、わたしの指は如月をなぞる。わたしの欲望どおりに、白い紙の上に、いくつもの如月が現れ、積み重なっていった。幾枚重ねても、如月の腕はわたしのものにならない。黒鉛にまみれた指がべたつく。如月を追うわたしの視線は、きっとひどく粘性を帯びているに違いない。

「深津先輩?」
 五十嵐がセルロイドの眼鏡を指一本で押し上げた。
「女の敵のことはもういいよ。それ、今日中に仕上げるんでしょ。筆、止まってるよ」
「はあい」
 五十嵐が絵筆を鼻の下に挟んで見せた。鼻の頭に丸い汗が浮いている。夏が来る。グラウンドをいくつもの球が行き来する。パチパチと弾ける音がまだ続いている。ただのキャッチボールだ。 準備運動に過ぎないのに、その肩も肘も腕も指先も、すべてがピッチャーであることを伝えてくる。野球というスポーツを知らないわたしにも、全身で自分が投手であることを主張する。

「あいつ、すげえよ。本物だよ。ベスト4、いけるかも」
 乾の目が子どものように輝いていた。
「あんましゃべんないし、無愛想だし性格も悪いんだけど、投手としては最高だ」
 丸坊主の頭を掻いた。
「重いんだよ、球がな、こうズンってな」
 乾が左手をじっと見つめる。そこに受けた熱を確かめるように見て、そして手のひらをしっかりと握りしめた。満足そうに笑まう。乾は、捕手で、野球部主将だ。高校最後の夏の大会に向けて、チームのまとめに奔走する。どこまでも実直で、素直だ。
 乾は、如月のあの腕が産んだ球に触れた。その球の重さに彼の喜悦を見いだした。わたしが欲しいあの腕にも、きっと触れただろう。如月を知ったのだ。如月の話をする乾をみると、身体の奥がまた、擦れて熱くなった。


 五十嵐の筆は、女の敵のことなど忘れて、一心にキャンバスを走る。わたしもさっきまで向かい合っていたパジャントに戻った。
 ギリシアの女性をモデルにしたというパジャントは、一番好きな石膏像だ。その眼差しに魅せられる。熱いのか、冷たいのか。光と影の中で、その温度は変質する。動かないはずの石像の表情は、紙の上に写し取られるとき、変化する。その変化は決して嫌なものではない。描くたびに出会いがある。ふいに落とした線一本で、すべてが変わることもある。それを楽しんでいた。
 スケッチブックを開いてみる。心臓の裏側にべとつく手のひらが触れた。
 真正面から捉えたその端正な顔は、パジャントに似ていた。けれど似ているだけの別人だった。
 落ちた木炭が砕けた。心臓からの血液が逆流する。ぐらりと身体が傾ぐ。咽頭が締め付けられる。熱く、強い酸味がこみ上げる。口元を押さえ、美術室から走り出た。
「深津先輩?」
 五十嵐の声が背中にあたる。トイレに駆け込み、水道の蛇口を大きく開く。水がほとばしる。口を開くが、唾液しか出てこない。喉の奥に詰まった熱の固まりを、早くはき出さなければ、喉が焼けてしまう。殴るように、洗面台に両手をついた。古い洗面台は揺らぎもしなかった。
「なにやってんの、わたし」
 パジャントの眼差しは、如月の眼差しだった。その欲心の深さに、わたしは初めて自分という人間を畏れた。

 四、

「フカツ、あんた、ごはん、食べてる?」
 昼休みの教室で問われた。返事はしなかった。嘘をつくことも、誤魔化すことも、性に合わない。ならば黙るしかない。
「病人の顔してるよ、今のフカツ」
 宮崎がわたしの前髪をかき上げる。
「うん、知ってる」
 宮崎をまっすぐに見上げた。吐き出すことのできなかった熱は、病巣となり、わたしの肉に喰らいついた。四肢は冒され、操られるままに如月を描いた。もはや腕だけでは足りなかった。走る姿。投げるときの腕の撓り。バットを構え、球にミートするまでの短いステップ。マウンドで汗を拭うしぐさ。白いシャツのめくられた袖。まっすぐな背骨。強い意志を持ち、人を寄せ付けようとしない光を放つのに、誰もが惹かれてしまうその眼差し。如月のすべてを写した。その全身を写して、初めて知った。
 如月は、不貞不貞しく、そして気高く、たった一人で咲き誇る花だ。そこにあるだけで、心を奪う。奪われた心を取り戻すために描く。如月へと向かう自身の熱に、きっと意味はない。その花を写し取ることができればいい。胸の内側に写る如月を、わたしの指が一つ一つたどり、真っ白いワトソン紙の上へと焼き付ける。その行為でしか、熱は冷めない。
 体温も気温も、容赦なく上がっていく。
 夏季大会の予選が始まっていた。

「あいつは、やめとけ」
 スケッチブックの上に、影が落ちた。顔をあげる。
 乾の声は、低く嗄れていた。膝の上に載せたスケッチブックを閉じて立ち上がる。目の前の汚れたユニホームが、残陽に染まる。午後六時を過ぎてもまだ明るい。角度を持ち色づいた光と、鳴き続ける蝉の声が、重苦しいほどにまといつく。
 斜暉に満ちたグラウンドに、打ち終えたばかりの球が数百、散らばっている。汚れたユニホームが、ベースの間を駆け抜ける。高く吠えるようなかけ声が空気を震わす。ここには熱がある。外へと発散していく、清々しく美しい熱だ。
 スケッチブックを両腕に抱きしめた。自分の中にある熱を隠す。身体の深いところに澱み、引きこもっていく熱は、夏を闘う者の前では醜い。
「乾、主将のあんたが練習抜けちゃ、だめじゃん。明日、試合なんでしょ」
「あいつはだめだ」
 わたしを無視して乾が繰り返す。頬についた砂粒が、汗に流される。
「ずっと見てたんだろ。スケッチブックがいっぱいになるくらい、おまえ、あいつのこと見てたよな」
 抱いたスケッチブックが、欲望の分だけずしりと重さを増す。
「だったらわかるだろ。如月に他人の気持ちなんかわからない。フカツがいくら想っても、あいつは振り向かない。あいつが大切なのは、自分と野球だけだ。傷つくのはおまえだろうが」
 如月という名でわたしはもう一つの世界へダイブする。
 白いシャツ。日焼けした腕。筋肉の筋。切れ長の目。マウンドに立つ姿。汗を拭うしぐさ。如月の姿が視界を覆う。血流が唸りながら身体を駆けめぐる。内へ内へと温度を運ぶ。発熱し、体内の水分が蒸発する。自分が渇いてしまうくらい、ずっと見ていた。だから知っている。
 如月はだれも想わない。如月はだれも欲しくない。わたしはそんな如月の姿を映すだけ。
「乾。違うから。これ、恋じゃないから。だからわたしは傷つかない」
 乾のくちびるが小さく動く。風が凪いでいた。蝉が騒がしい。乾はわたしを見つめたまま動かない。宮崎みたいに、そんな、澄んだ目で見ないで。
「じゃあね」
 逃げるように、乾の横をすり抜ける。汚れたユニホームから土のにおいがした。如月も同じにおいを持っているのだろうか。土と汗と草と、むせかえるような夏のにおいを、乾と同じユニホームをまとう如月も、その身体に持っているのだろうか。ふとそんなことを考えて、自分と如月を隔てる空間を思い出す。
 なにもないのだ。言葉も、視線も、交わったことは一度もなかった。如月は、わたしを知らない。あの指先の熱も、そこから生まれた球の重さも知らない。知るすべもない。
 笑ってしまう。ほんとうに、笑ってしまう。堪えきれなくて、くすくすと笑う。
「フカツ」
 乾の手が腕を捉えた。引き寄せられる。足元で砂がじゃりっと音をたてる。シャツに乾の指が食い込む。
 熱い指だ。
「好きだ。フカツが好きだ」
 熱い声だ。
 夏の太陽のように、人を焼く、生々しい声だ。鼓膜が震える。振動が指先にまで満ちる間、瞼を落とし感じていた。
 これは、恋だ。こういうのを恋と呼ぶのだ。
 あまりにも強すぎる。一瞬のうちに咲き乱れ、一瞬のうちに散りゆく桜花のようだ。真夏に咲いた桜花に、酔い、そして惑わされる。桜のみせる夢をみる。
 その瞬きほどの甘い時間に、身を委ねてみることはできるだろうか。他の者の姿に縛られたこの身体を、この人は解いてくれるのだろうか。
 瞼の裏側で花が散る。鳥肌が立った。汗が背筋を流れ落ちる。自分の浅ましさが滲み出ていく。触れている乾の指に伝わってしまう。
「乾、放して」
「嫌だっていったら?」
 乾の手がわたしを引き寄せる。その腕に抱こうとする。土のにおいが近づく。目眩がする。
「だめだよ」
 乾の身体を押しのける。数人の女子が、笑い声を上げながら歩いてきた。
「乾」
 乾が手を放し、私を解放する。女子の声が遠ざかるまで、乾は指を握り込んだまま、乾いた地面を見ていた。
「そんなに如月が好きか」
「好きじゃないよ」
「どうして誤魔化すんだ」
「誤魔化してない」
「おまえ、自分のこと、ぜんぜんわかってないのな」
「乾」
「もういいよ」
 砂を蹴る乾いた音が消える。表情のない乾の顔と土のにおいが残滓となった。
 乾いた風が駆け抜けた。グラウンドの整備が終わっていた。野球部員の姿はなかった。乾も、如月も、もうどこにもいなかった。
 最後の陽光がぎらぎらと絡みつくように、空っぽのグラウンドを充たしている。マウンドに埋め込まれたプレートが、呼吸するように煌めく。耳に残る乾の甘い声を消した。マウンドに立つ如月の形だけを、斜揮のなかに描いた。

 五、

 夏休み初日、宮崎から電話がきた。
「今日の試合、勝ったよ」
 今日、野球部が勝てば、県大会決勝出場が決まる。創部以来の快挙に、学校も町も湧いていた。乾にはあれから会っていない。試合も観に行っていない。わたしがエアコンの効いた部屋で白い紙を撫でているとき、彼らは、圧迫する熱風さえその強い腕でかきわけ、走り、球を追い、その先にある頂点を掴もうと腕を伸ばしていたのだ。
「暑い夏になりそうだね」
「乾たちにとっては最後だからね」
「卒業したって、野球なんていつでもできるのにね」
「そういうとこ、フカツっぽい。高校野球って特別なんだから」
 宮崎が、携帯の向こうで笑っている。笑いを残したまま「明日七時、花火大会だからね。忘れないでよ」と、ふいに電話は切れた。

 花火大会は、毎年七月の終わり頃、隣市との合同で開催される。川沿いの道には屋台が並び、人が犇めく。歩くたびに肩は人と触れあう。熱気と喜楽に満ちたエネルギーがぶつかり合い、相互に作用あるいは変質し、熱と期待を高めていく。
 宮崎との待ち合わせは、老桜の下と決めていた。川を渡る高速道路のすぐ脇にある大きな桜木だ。百年以上も前からそこにあるという老樹は、開花と同時に甘味を宿した香気を放つ。人は誘われるようにその枝を仰ぎ、ため息を吐く。
 宮崎はまだいなかった。
 その木肌に手のひらをあててみた。ごつごつとした黒い表面に、わずかに温もりを感じる。まだ生きているのだ。人の手を借りなくても、自分だけの力で立ち続ける。すべてを拒んでいるようにも、すべてを受け入れているようにも思えた。
 閃光、そして音。
 鼓膜を喰い破り、脳から腹の底へと突き抜ける。空が哮り、紅く染まる。歓声が地表から沸き上がる。
 大輪の紅の花が散っていた。その下に、如月を見つけた。老樹を挟んで、反対側に如月がいた。ひとりだった。
 二つめの閃光が、如月の横顔を浮かび上がらせる。形のよい鼻の頭が空を向く。パジャントに似た眼差しは、今夜は花の色を映す。紅も、黄檗も、虫襖も、瑠璃も、蘇芳も、如月に重ねる。スケッチブックに描いた如月に色を落とすよりも、何倍も美しく、そして心は弾んだ。
 老樹の下に、わたしと如月だけがいる。大音に震える空気塊の中に、わたしと如月が閉じこめられている。
 キサラギ。
 その名を呼んでみたくなった。初めての欲望に囚われていた。下腹部に鈍い痛みが走る。生理の予兆かもしれない。身体は女なのだと思い知る。十八歳のわたしは、如月の前で、こんなにも女なのだ。
 繋がりたい。触れたい。あの眼差しに含まれたい。あの腕に触れたい。如月にわたしの存在を知らしめたい。胸も、腹も、指先からつま先まで、わたしという肉体がすべて疼く。
 これは恋か。ただの希求か。情欲か。
『好きだ。フカツが好きだ』
 乾の熱い声が耳に触れる。あの眼差しがわたしを揺るがす。まっすぐに恋をぶつけてきた乾の目が、わたしを乱す。
 新しい熱が、空に咲く。尺玉が吼える。如月の横顔が潤む。肩から腕のラインがまっすぐにそこにある。この腕が好きだ。弓のように撓る腕が好きだ。まっすぐに伸びた背中が好きだ。マウンドで汗を拭うしぐさが好きだ。誰も寄せ付けない眼差しが好きだ。
「如月が、好きだ」
 如月が、わたしを見た。交差する。
「あー、あんた、知ってる。いつも、スケッチブック持ってグラウンド見てる人だ」
 如月の声がわたしに届く。これは夢か? わたしは言葉を忘れる。
「おれのこと、描いてるって聞いたんスけど、先輩って、ストーカー?」
 閃光。炸裂音。喝采。声。如月の声。
 その声は、風のようにさらりと流れてくるのに、わたしに触れたとたん、火花を散らした。火薬のにおいに混じり、鼻腔を塞ぐ。息が、できない。
「如月ー!」
「おっせーよっ!」
 土手の下から野球部の一年生が手を振る。如月がもう一度わたしを見て、目を細めて笑った。
「じゃあね、センパイ」
 嘲笑いだけ残して、如月は消えた。
「キサラギ」
 その名を呼んだ。届かない距離だとわかっていて、呼んだ。如月を呼ぶわたしの声をのせて、火球は空へと舞い上がる。花は開き金粉を散らす。かむろスターマイン。一番好きな花だ。
 如月を呼んだ口の中は、甘くもないし、苦くもなかった。ただ辛かった。
「フカツ」
 宮崎が手を振っている。白藍から浅葱をへて、瑠璃に染まる、美しい空の色を抱く浴衣を纏っている。宮崎の後ろに乾がいた。躊躇うようにくちびるを噛みしめ、それから小さく笑った。
「宮崎」
「フカツ、どーした?」
「宮崎」
 宮崎が下駄をかたかた鳴かせながら走ってくる。
「ちょっと、なに泣いてんの?」
 宮崎の輪郭が滲んで、紅く染まる。
「好きだ」
 あの眼差しも、あの声も、ぜんぶ。
「好きなんだよ、すごく好きなんだよ。どうしようもなく、好きなんだ」
 乾の手が伸びて、わたしの頭をくしゃりと撫でた。宮崎がほんの一瞬、乾を見た。柔らかな瞳だった。そこにあるものを、知ってしまった。
 宮崎の欲しいもの。
 乾の欲しいもの。
 わたしの欲しいもの。
 まっすぐなもの。
 届かないもの。
 宮崎の腕がわたしを抱いた。わたしはその腕にしがみついた。

 空一面に、大輪の花が咲いた。
 これは恋だ。いくつもの恋だ。もうずっと咲き続けていた花だ。緋の花は、ゆっくりと星を散らし、川面に滲んで消えた。
(了)