レッツ!

2007.11.15
 一

 八回の裏。五対八。三点ビハインド。ツーアウト。ランナー三塁。
 四番打者がボックスに立つ。振るうバットが風を巻き上げる。キャッチャーマスクの内側で、汗が流れた。ぬるく顎を伝う。今日、本塁打を生み出したバットが、再び目の前に開かる。ここでの勝負に意味はない。もう一点も許せないのだ。
 千陽は、マウンドの祐介をみた。祐介の手から、ロージンバックが滑り落ちる。白が散る。表情のない顔をあげる。
 歩かせるぞ。
 サインを出す。祐介は肯きもせず構えた。
 小さなスタンドは、今日が平日であることを疑うくらいの観客で埋まっていた。秋季大会決勝戦は、両校ともに全校応援だ。攻撃のときも、守備のときも、応援団は異協和音を奏で続ける。音の外れたトランペットが競うように高く鳴く。メガホンがぶつかり合い空気を撃つ。割れた声と拍手が重なり、打ち消し合った。
 敬遠を意識させないくらいの、それでも明らかにボール球とわかる球を要求した。二球続けてのボールは、千陽のミットを鈍く鳴らした。これでいい。打者にはわかっているだろう。次も見てくる。手は出さないはずだ。祐介に外への球を求めた。
 午後の弱い陽が、力なく立ちこめる。眩しい季節は過ぎ去り、憧れだけを残す。高く青いはずの空は、どこか他人顔だ。
 闘えると思った。
 新チームを引き継いだ。夏の聖地を知るあの人たちが去って、一ヶ月が経った。自分たちも同じように闘えるのだと思っていた。
 出遅れる。球が逸れる。溢す。捉えられない。繋がらない。何一つ、満足に動かなかった。数人の三年生がいない。それだけだ。千陽も祐介も、ともに甲子園の土を踏んだ。あの空を、あの空気を、あの熱を知っている。それでも足りない。圧倒的に、足りないのだ。今、スタンドで観客の中に埋もれているあの人たちとは、なにもかもが違い過ぎる。ただそのことだけを思い知る。
「ツーアウト!」
 指を高く突き上げ、空で振る。
 ツーアウト。三点差。攻撃はあと一回。
 ダメかもしれない。
 マスクの中で千陽の吐き出した息が溜まっていく。濁り、沈殿する。前が、よく見えない。千陽の視界に、負という文字が点じる。
 点を入れれば、入れ返される。イニングを重ねるほど、走者を許してしまう。勢いは相手にあった。流れは、とうに向きを変えていた。それに気づかないわけがない。もうどうしようもない濁流の中にいるのだ。足掻く。抗う。それでもだめだ。足を掬い取られ、絡まり、押し流されていく自分を、これでもかと感じてしまう。
 ここで、負ける。
 空が高い。青くても、煌めかない。あの夏と同じじゃない。
 祐介がまっすぐに立つ。肩越しにサードランナーを見た。左腕の祐介の背中で、ランナーが軽くステップを踏む。祐介の右足が上がった。
 どうやって、ミットを構えればいいのだっけ。
 ああ、応援団が煩いな。

 差し出された千陽のミットが揺らいだ。ホームベースの後ろに在る、180センチの大きな身体が、空気に溶けるように薄らぐ。
 千陽。だめだ。
 祐介の中に電流が流れた。けれど止められない。後ろに引かれた腕は、バネのように戻るだけだ。指先から球が離れていく。
 いやな音がした。球を投げ出した勢いのまま、祐介がホームへと駆け出す。視界の端でランナーが疾駆する。スタンドが叫呼する。
 ホームベースの前で構えた祐介のグラブに、球は戻ってこなかった。スパイクが砂にまみれたベースを踏んだ。耳が痛くなるほどの咆哮に飲まれた。
 マスクが投げ捨てられていた。千陽の背が見えた。背番号2が、バックネットの前で行き場を見失っていた。逃げる場所も、隠れる場所もないグラウンドで、あの人たちの前で、すべてを放棄し、佇んでいた。

 二

 夢でもなんでもない。絶対に許してはならないところで、点が入る。どうしようもない瞬間を叩きつけられる。これが現実だ。生きて、動く、試合の脈動だ。
 サイレンが鳴った。スタンドの応援団の前に並び、頭を下げた。千陽以外の全員が泣いていた。感情を出すことのない祐介も、泣いていた。顔をあげ、スタンドを仰いだら、涙が零れた。拭いもせず、くちびるを咬むでもなく、スタンドを見上げた。スタンドの先にある空を見上げた。
 表彰式も終わった。意味のない盾をもらった。着替えも済んだ。あとは野球部のバスに乗る。自走する機械に助けられて、この場所から引きはがして貰うだけだ。
「千陽、祐介は?」
 ロッカールームを出ようとしたとき、チームメイトの今井が気づいた。祐介がいない。カバンはまだここにある。まだ球場内にいる。
「探してくる。今井、悪い。先、行っててくれ」
「りょーかい」
 まだ、目の縁を赤く残したままの今井が、手を振った。
重い鉄扉が、背後でゆっくりと閉まる。無機質な音が、球場地下の廊下にこだまする。リノリウムの床の上で、靴が鳴く。薄暗い空気に、吸い込まれていく。なだらかな坂を下る。突き当たりを左へ折れる。ダッグアウトへと続くその先に、人影を見つけた。投手にしては細いその身体が、夕闇に半分、塗り潰されている。
「祐介」
 背後からの声に応えもせず、祐介はゆっくりと身体の向きを変え、壁に寄りかかった。祐介の横顔の向こうに、緑の人工芝が広がる。その視線が斜め下へと落ちる。両の手をきつく握る。爪がめり込む。
「祐介、帰るぞ」
 切れる。心と身体が引き千切れる音がした。
「なんで、諦めた?」
「え?」
 祐介の低い声が耳を滑り、こぼれ落ちる。
「あのとき、なんで諦めたんだよ。なんで走らなかった? なんで、投げなかったんだよ!」
 祐介が足を踏みしめた。砂粒と靴底の摩擦音が、空気を冷たく振動させる。波となり、全身を揺さぶる。立っているその姿勢を維持することが難しい。心臓が唸りをあげる。
「祐介」
 喉が押し潰される。声が擦れる。
「あの球が逸れたとき、おまえは諦めた・・・いや、違うな。あの球が届く前に、もうだめだと諦めてた。だから走らなかった。後ろに転がった球を、おまえは見送った。拾ったあとも、動かなかった。あの試合、負けると諦めてたからだ。違うか?」
 違わない。
 千陽の声帯の代わりに、その心音が答えた。
「おれが・・・おれたちが、グラブ構えて守ってる場所ぜんぶに、背を向けた。あのとき、おまえだけが諦めてた。わかってんのかよ!」
 壁が鈍い音をたてた。祐介が左の拳を叩きつけた。厚塗りされたグレーのペンキが、割れて、砕ける。
「祐介! 左手」
「触んな!」
 壁を殴りつけ、千陽をはね除けた左手を握りしめたまま、祐介はその手を抱くように右手で押さえた。
 痛めたのか? そんな一言も出てこない。千陽が祐介から逃れるように俯く。
「かっこわりぃ」
 祐介が小さく呻く。拳にくちびるを当てる。
「おれも、おまえも、かっこ悪すぎ」
 祐介の踏み出した一歩が、小さな風を起こす。冷たい風だ。足音が数歩、進んで止まる。導かれるように千陽がゆっくり顔をあげる。祐介のくちびるが動く。
「あの人たちに、返したかった」
 夏の終わりに、あの人たちが笑顔とともに残していったものを、返したかった。ともに過ごした二年間を、形にして見せたかった。確かに受け取りましたと、伝えたかった。
 祐介が暗い廊下へと消えていく。背後に千陽の足音はなかった。
 ロッカールームの前で、セカンド今井とショート柴原のコンビがふざけあっていた。足元には、祐介と千陽の荷物がある。
「あ、祐介。どこいってたんだよ。バス出るぞ」
「反省会」
 今井と柴原の顔に残る笑いの残滓につられる。祐介の表情が緩む。
「アホか。これからガッコ戻ったら嫌ってほど反省させられんのに」
「だよなー。おれ、今日、バント失敗してるしなぁ。あー、やだやだ」
「それよか、千陽はどこだ。おまえを探しに行ったはずだけど」
「ベンチ。柴ちゃん、あいつ、連れてきて。荷物もって先に行ってるから」
 祐介が自分と千陽のカバンを両肩にかける。出口へと歩き出す。
「いっこ、持つ」
 今井が左肩のカバンを受け取った。洞窟のような廊下に、柴原が消える。自分と今井以外、誰もいない。冷たい空気が沈む、その見慣れた場所で探す。
 汚れたユニフォームの背中が泣いていた。
 一年前だ。秋の大会の決勝戦で、負けた。先輩たちが、この廊下に蹲り、壁にすがり、仲間の肩で、泣いていた。一点差だった。最後のバッターが、相手チームのエースに打ち取られた。頭から突っ込んだ一塁ベースで、動けずに伏した。土にまみれた拳がベースを叩いた。声を上げて泣いていた。嗚咽が聞こえた。
 その人はキャプテンとして、次の夏、野球部を甲子園へと導いた。
 あの人たちのようになれたらと、望んだ。いつか、あんなふうになりたいと、願わずにいられなかった。
 一年、経った。追いつきたいと手を伸ばした三年生の背中はもうない。前も、後ろも、ただ薄暗く冷えた廊下があるだけだ。
「祐介?」
「あ、ごめん」
「肩、大丈夫か? ちゃんとアイシングしたか?」
「大丈夫」
 柴原の声が、廊下を伝い響いてくる。背後から追ってくる。祐介は振り返ることなく、歩いた。
 今井がなにか冗談を言った。
 小さく笑った。

 三

 人の吐き出す息と、食べ物のにおいと、ふざけあう物音が、ゆったりと入り交じる。騒々しく、エネルギーに満ちた時間が、過ぎていく。濡れた窓は内側から曇り、朝から降り続く雨の混ざる景色を塗り替える。
「今日、練習中止だって」
 両手一杯に購買のパンを抱えた柴原が九組に現れた。
「やっりー! この雨ん中で練習なんて、やだもんねー」
 今井がパンの山に手を伸ばす。その手を思い切り叩かれる。
「いってえ」
「おまえは自分の弁当、あるだろうが。これは、おれと祐介の分。それと、監督からの伝言だ。ほれ」
「ふえ?」
 おにぎりを口いっぱいに含んだ今井が、柴原の差し出した紙切れを覗く。
「ひんふぉれえうう?」
「きったねえな。口にもの入れたまましゃべんな」
 柴原が椅子を鳴らして今井から離れる。
「筋トレメニュー。ストレッチ、バイク二十分、ランニング二十分・・・マシンルームの自主練メニュー?」
 祐介がぼそりとメモを読み上げる。
「そう。おれは行くけど、祐介はどうする?」
「いくよ」
「じゃあ、ホームルーム終わったら、体操着でマシンルーム来いよな」
「ああ」
「ちょっと、ちょっと、ちょっと! おれは? なんでおれには訊いてくんないの?」
「今井は練習嫌いなんだろうが」
「練習大好きな球児がこの世にいるかっての」
「だから自主練なんて出ねえんだろ?」
「いんや、出る」
「わけわかんねえ」
「だって、おまえらだけ筋肉モリモリんなって、上手くなろうなんて、ずりいじゃん」
「知ってたけど、やっぱりおまえはバカだな」
「なんですって!」
 祐介は、今井と柴原の絡み合いに、ため息を一つ吐き出し、視線をはずした。そのまま教室の左前方、窓際へとずらす。深緑のジャケットを被り、机の上に伏す大きな背中を捉えた。
 柴原が祐介の視線を追う。
「今日、千陽となんか話したか?」
 祐介が無言をもって否定する。
「あー、うっとーしい」
「今井」
 柴原が今井の名を呼び、制する。今井が飲み干した牛乳パックを握りつぶす。
「だってさ、負けた要因なんて、わかりすぎるくらいわかるだろ? みんな、打てなかったし、エラーもした。足りないもんが、いっぱいあったんだ。なのにさ、あいつ一人で、おれぜんぶ背負っちゃってますってツラしやがって」
「今井、やめとけ」
「柴ちゃんは、悔しくねえの?」
 まっすぐな今井の瞳が、柴原へと向かう。
「おれ、すっげえ、悔しかった。だから、次は負けたくない。春までに、もっと強くなりたい。そんで、今度はこのメンバーで、甲子園に行きたいんだ」
 祐介が瞬きをする。その音まで聞こえてきそうなほど、静かだった。そして、湧き上がる。手が鳴る。声があがる。
「今井くん、かっこいいー!」
「来年も期待してるぞ、野球部!」
「いっけーいけいけ、いけいけ、いまいっ!」
 九組にいる全員が、今井たちを取り囲む。
「青春だなぁ。今井ちゃんはそんなに野球が好きなんだ」
 柴原が笑いを噛みしめながら、今井の頭を軽く叩く。
「好きだよっ! 悪いか!」
「あっはっはー!  やっぱ、おまえ、バカだ。あー、腹、いてえ」
 柴原が腹を押さえ、机に伏した。
「千陽」
 祐介が呼んだ。騒がしさの続く教室から逃れるように、千陽が出て行く。
「あのバカ」
 今井が小さく舌打ちし、その後を追う。祐介が立ち上がる。その腕を柴原が引いた。
「離せよ」
「千陽は大丈夫だ」
「なんでおまえにわかるんだ」
 柴原が祐介を見上げて笑う。
「だって、おれらが選んだキャプテンだし?」
 だから、信じる。
 それだけで十分だろう?
 柴原の目がいう。その手のひらの温度から、夏の終わりの熱が蘇った。
 三年生がいなくなって初めての練習の日だ。絡みつくような陽の下で決めた。初めて組んだ円陣の中心で、千陽が笑った。
「全員で、行くぜ!」
 次の夏へ、頂点へ、全員で行くのだと、笑った。
 祐介が息を吐き出す。柴原の手が離れた。
「今井もいるしな。あいつ、バカだけど、野球バカだから」
「なんのフォローにもなってない」
「あれ?」
 柴原が笑いながら、目の前のあんドーナツの袋に手を伸ばす。ビニールの袋を割く。
「それ、おれのだよ」
「固いこと言わない」
「いや、おれんだし」
「買ってきたのはおれだ」
「金を出したのはおれだよ」
「祐介って、意外にがんこだよな。千陽のサインには絶対に首振らないくせに。そんなに信頼しちゃってるんだ?」
 あんドーナツを取り返した祐介が、柴原のにやついた顔に丸めた紙くずを投げつけた。いつもの無表情をほんの少し、崩した。

 四

 耳が痛い。
 今井の声も、柴原の笑いも、祐介の視線も、クラスメイトのざわめきさえ、ぜんぶ痛い。痛くて、重い。
 グラウンドを離れても、追い掛けてくる。八回の裏、ツーアウト、ランナー三塁。その瞬間を放棄した自分を、諦めなかった全員が、どこまでも追い掛ける。一秒たりとも、解放してはくれない。
 伝統校だとか、去年、甲子園に行ったとか、だから今年も行かなくてはいけないとか。そんなものは圧力にも、痛みにもならない。この高校を選んだときに、とうに決めた覚悟だ。比べれば、今、体内を巡るこの粘着質な疼痛は、稚拙すぎる。自分で選んだ場所を逃げ出した、ただの負け犬が背負う小さな疵だ。
 それなのに、なぜ、これほどまでに痛むんだ。
 小さな、形ばかりの庇の下で、軽く頭を振る。しぶきが散る。鉄扉を背に寄りかかる。その冷たさにぞくりとする。制服のブレザーを着ていないことに気づいた。白いシャツが濡れて肌に張り付く。野球部と書かれたプレートが、後頭部をひっかいた。
 目の前に、水浸しの専用グラウンドがある。
 バットも、グラブも、ミットもない。球一つ、落ちていない。マウンドとすべてのベースは、水色のビニールシートに覆われて見えない。去年替えたばかりの、外野の人工芝の鮮やかなグリーンが、雨を弾きながら、それ以上伸びない芽を空へと向けていた。
「逃げ込んだ先がグラウンドなんて、おまえもよっぼど野球好きだよな」
「今井」
 雨を避け、部室棟の小さな庇の下を歩いてくる。その口もとから、息が白く球体を描く。走ったのだろう。いくつもの白い蒸気が、丸く連なる。
「あ、息が白い!」
 気づいた今井が、口を開き、音を出しながら大きく息を吐き出した。柔らかな声が形と成る。
「秋季が終わると、冬が来るんだよな。去年の今頃も、今年も、来年も」
 千陽より、頭一つ分小さい今井が、隣に並んだ。確かめるように、また息を吐く。子どものように、なんども繰り返す。チームで一番、騒がしい。笑ったり、笑わせたり、忙しい。けれど、バットを握ると変わる。その鋭さに、息を呑む。
「昨日の試合、何対何だった?」
 そのバットは、風を切る。苛烈さを与え、獲物を追う生き物のように、球は人の手を逃れ、走る。
「五対九。それがなに?」
 今井の問いに追いつけない。
「四点差で、負けたんだよな」
「だから、なんなんだよ」
「認めろよ。おれたちは負けたんだ」
「そんなの、わかってる」
「わかってない。おまえだけが、負けたこと、わかってない」
「わかってる。あのとき・・・おれが後逸したとき、もう負けるんだって思った。だから」
「だから逃げたんだろ。試合から逃げて、おれたちから逃げて、昨日から、ずっと逃げ続けてる。負けたことを認めたくないからだ」
「違う」
「違わない。千陽」
 雨がシートを打つ。水が集まり、低きへと流れる。近いところで、鳥が鳴く。甲高く鳴き、遠くで同じ鳴き声が応える。羽ばたきが雨の向こうへと消えた。消えるまで、見送っていた。
 千陽の視線が、グラウンドへと戻ってくる。
「闘えると思ったんだ」
「うん」
 千陽の声に、今井が応える。
「去年のあの人たちみたいに、闘えると思った」
「でも、おれたちは足りなかった」
「相手チームが強いとか、そんなの関係なかった。おれたちに力がなかった。でも、あの人たちの前で、負けたくなかった。ぜんぜん違うんだって、認めたくなかった」
 千陽の吐き出した息が、細く揺らぐ。今井が下ろした視線のその先で、千陽の拳はきつく結ばれていた。
 大きな円を描く白い息とともに、千陽の身体が沈む。ずるりと背を滑らせ、僅かに残る乾いたコンクリートの上に、しゃがみ込む。
「去年の秋、千陽はもうベンチ入りしてたけど、おれは、ずっとスタンドから観てた。あの決勝の試合、覚えてるか?」
「覚えてる」
「一点差だった。九回の裏、フォアボールで、高柳さんが一塁に出た。ツーアウトまで追いつめられて、最後のバッター、西條さんが打った球は、平凡な内野ゴロだった。ファーストでアウトだって、誰が見てもわかってた。スタンドがため息でいっぱいになった。それなのに、あの人だけが諦めなかった。一塁だけしか、見てなかった。力なくしてたスタンドにすごい歓声が上がった。義務で応援にきてたやつらとかも、みんな、声張り上げてた。泣きながら、名前、呼んでた。走れって叫んだ」
 あのときの高揚は、まだここにある。思い出せば、胸の内側が震える。その場所を、今井は手のひらでそっと押さえてみた。どこへも行かないように、いつまでもここにあり続けるようにと、閉じこめる。
「間に合わなかったけど、鳥肌がたった。すげえ、かっこよかった。負けたのに、悔しいのに、それなのにさ、気持ちいいんだ」
 あのとき、グラウンドから見上げた。みんな、泣いていた。でも笑っていた。今井は、ベンチの上で飛び跳ねていた。柴原が隣にいた。その向こうに、抜けるような青空があって、あのとき、そこに確かに描いた。夏へと向かう自分たちを、はっきりと描いた。
 八回の裏、ツーアウト、ランナー三塁。その後のことは、あまり覚えていない。輪郭がぼやけて、掴みづらい。残ったのは、痛みだけだ。
 昨日、グラウンドから見上げたあの空は、何色だったろう。
 雨がグラウンドを打つ。
「次は、おまえらの番だ」
 プロテクタをつけたままの胸を、どんと叩かれた。何よりも、その姿で、動き一つで、導いてくれたキャプテンは、千陽の胸を叩き、固く、眩しいものを残した。
 それはまだ、ここに眠ったままだ。
 最後の夏を終えたら、ここにあるものを、おまえらの番だと、後輩たちに手渡せるだろうか。
 千陽は、なにもない手のひらを閉じた。
 まだ、渡せない。未練たらたらで、消化不良で、小さな欠片一つ、誰にもやりたくない。ぜんぜん、足りない。
「たった一年なのに、こんなに違うんだな」
「おまえごときと西條さんを比べんなよ。あの人は、おれの永遠のキャプテンだ」
「恥ずかしくて、比べることもできねえよ」
 今井がははっと声をあげて笑う。
「でも、おまえが今のキャプテンだからな」
 今井の吐き出したキャプテンという言葉が、ほんの僅かの間、白い形を成して、宙に浮いていた。空気に交じり、消えてしまっても、その残滓は千陽の中で、確かな温度になった。
 立ち上がり、伸びをする。寒さで身体が硬くなっていた。関節を解く。
「あー、さみい。千陽、戻るぞ。反省会は十分だろ?」
 今井がブレザーの上から腕をさすり、にやっと笑う。
「ごめん」
「え? お礼に、今日の自主練のあと、ラーメン餃子おごるって? 悪いなぁ」
「誰もそんなこと、言ってねえよ」
「柴ちゃんと祐介の分もおごってくれんの? さすがキャプテン」
「調子のいい耳だな」
「自動翻訳機能付きなんだ」
「壊れてるな、それ。正しく調節してやる。耳、貸せ」
「いやーん、千陽くんに襲われる」
「バカ」
 今井が走り出す。
「おい、濡れるだろ」
「溶けないから平気」
「ほんとに、バカだな」
「ありがとう」
「まったく褒めてねえし」
 雨が額に、頬に、あたる。あたって、砕けて、集い、流れる。その冷たさは、すぐに体温が打ち消す。寒いはずなのに、身体の内側が熱を放つ。心臓が脈打つたびに、温度を上げていく。
 重なる雲は、低く流れる。今井を追い、走る。雲と一緒に、走る。
 その先にあるものが、九回裏、ツーアウト、十点差でもいい。
 走るだけだ。
 ただ、走るだけだ。
 背中が疼く。グラウンドに呼ばれた気がした。
(了)