ライフ

2008.05.12
 一、

「智!」
 旧国道沿いの坂道に差し掛かったときだ。背後から呼ばれた。同じクラスの健太郎が、斜めがけしたピカピカのスポーツバッグを激しく上下させながら走ってきた。
「明日の土曜さ、一組のやつらとサッカー対決するんだってさ。智も行くだろ?」
 荒れた呼吸を整えながら、健太郎がおれに問いかけた。
「あー、明日はダメなんだ。親戚の家に行くんだってさ」
「えー、おまえがいないとおれ、誰とツートップ組めばいいんだよ。一組に負けんのだけはやだぜ。親戚ん家なんてブッチしろよ。ブッチ。おもしろくないぜ、きっと」
「なに? ブッチって」
「ぶっちぎるって意味なんだ。ガッコさぼるときとか使うらしい。母さんがよくいうんだよな」
「ふーん。おれもできれば行きたくないんだけどな。親戚ん家なんて、一度も行ったことないし。でも十歳の誕生日だからって」
 母さんがそういったのだ。
『今度の週末は、おじいちゃん、おばあちゃん家に行くから、予定いれないでね』
 じいちゃん、ばあちゃん家?
『・・・どっちの?』
『どっちもよ。土曜日がお父さんの実家。日曜日がお母さんの実家。智は初めてよね』
 どっちも東京に住んでるってことだけは知っている。いつもはじいちゃんたちがうちに来る。おれの記憶にある限り、一度も行ったことはない。それを変だと思ったことはなかった。突然、行くって方が何倍も変だ。
『なんで急に。なんか理由あるの?』
『十歳だから』
 母さんが困った顔で笑った。それ以上つっこめなかった。

「智、明日、誕生日なのか?」
 健太郎に問われて、母さんの困った笑みが消えた。
「あ、ううん。誕生日は日曜日なんだけど、明日から泊まりに行くんだって」
「うっわー、泊まり? めんどくさそう。っていうかさ、おまえ、親戚家行ったことないって、じいちゃんとか、会ったことないのか?」
「あるよ。いつもはうちに来るんだ。今年はなんだか特別なんだって」
「まあ、十歳だからな」
 頭一個分でかい健太郎が、おれを見下ろした。くちびるの端っこをあげて、にやりと笑う。
『十歳だから』
 また、母さんを思い出した。
「なにそれ。十歳ってなんかあんの?」
「十歳っつったら、二桁だろ、二桁。それって、大人ってことだろ?」
 いひひっと健太郎が鼻にしわを寄せて笑う。
 十歳のどこが大人なんだ。法律的に大人といえば二十歳だ。結婚できる年齢は男子は十八歳。十歳なんて、小学校五年生以外のなにものでもない。ぜんぜんわからない。母さんの困った笑顔も、健太郎の笑いも、意味不明だ。
「健太郎は?」
「おれ? おれは四月生まれだからな。とっくに大人だよ」
 そういって、ポケットに両手をつっこんでポーズをとってみせた。そうやって歩いてると、中学生みたいにみえる。
「あ、そうだ。月曜の放課後、みんなでお祝いしてやるよ。じゃあな!」
 坂の途中の別れ道で、健太郎が手をあげた。
「うん、ありがと」
 おれは、もやもやした気持ちのまんま、旧国道を渡っていく健太郎を見送った。
 坂道の下から風が吹き上げてくる。少し伸びすぎた前髪が、風にぱさぱさと揺れる。じゃまくさい髪をかき上げる。
 そのとき、視界にひらりと舞う物体を捕らえた。おれの目は、キランと光った。と、思う。
「お金?」
 視線がその物体を捕らえた瞬間、身体が動いていた。サッカーと、学校からうちまでの行程の約八割を締めるこの坂道で鍛えた脚力が役だった。とっさに伸ばした足で、飛んできた獲物を踏みつける。
「よしっ!」
 おれんちは、裕福ではない。
 母さんの勤める会社の古い社宅、2LDKに、親子三人で住んでいる。
 経理部でバリバリ働く母さんは、中古品が大好きだ。フリマやら骨董市やらで、掘り出し物を見つけるのがうまい。
 父さんは三流大学の医学部の助教授で、いわゆる生粋の研究者。実験室にこもって、フラスコだのビーカーだの、いろんな色の液体だのをいじくっている半引きこもりの静かな人だ。あまり物に執着しないタイプで、立ち上げるときジージーとディスクを読み込む音がする年代もののパソコンを、文句も言わず、今でも使っている。
 そんな二人の間に生まれたおれは、母親譲りの貧乏性と、父親譲りの貧乏性を兼ね備えた由緒正しい貧乏性だ。ゲームボーイも、プレステも、ケータイも持ってない。欲しいとねだったこともない。貰えるものは全部もらう。もちろん落ちてるものは余さずチェック。使えるものはポケットに入れてお持ち帰りだ。
 お金が落ちていようものなら、交番に持って行って半年後に一割もらえる金額を念入りに計算した上で、神さまからの贈り物としてありがたくいただく。
 いま、おれの足の下にあるのは、風に煽られて飛んできた紙だ。紙といえば、紙幣。つまりお金だ。
「神さまからの誕生日のプレゼントだな」
 さっきまでのもやもやなど、一瞬で吹き飛んだおれは、しゃがみこみ、つま先をそっと上げてみた。
「なにこれ」
 靴底の下で、桃色のくまちゃんが笑っていた。七色の虹を滑り台にして、金色の傘を差した桃色のくまちゃんが、バンザイしながら滑り落ちている。
 そのわけのわからない紙っぺらをつまみ上げてみる。
「宝くじ?」
 このハデハデなイラストは、紛れもなく宝くじだ。抽選日は昨日。
「はずれだったから、捨てたのかな」
 当たりくじを捨てるやつはいないだろう。
 でも、ちょっとまてよ。前に父さんにこんな話を聞いたことがある。物理の世界の話だ。
 箱の中に猫を入れる。そこに毒ガスが発生する装置も入れておく。名前は忘れちゃったけど、なんとかっていう粒子が発生すると、毒ガスが出て猫は死んでしまうおそろしい装置だ。そうして箱を放置する。
 一時間後、猫は死んでいるだろうか。
 詳しいことは覚えてないけれど、蓋を開ける前は、猫が死んでいるかわからない。生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。つまり、生きている状態と死んでいる状態、二つの状態がある。観測しなければ決まらないというのだ。
「猫が可哀想」
 当時のおれの感想はその程度だったが、今ならわかる。
 この宝くじが当たっているか、はずれているか、おれはまだ自分の目で確認していない。つまり、現時点では当たっているかもしれないのだ。
 父さん、希望をありがとう!
 おれは、宝くじを空へと掲げてみた。
 桃色くまちゃんの顔の上に、スニーカーの跡がくっきりと付いていた。

 二、

 この旧国道沿いの坂は、武蔵野台地の境目を示す崖線だ。高低差二十メールを繋ぐ。ゆっくり歩いて登ったって、息が切れる。自転車では絶対に登れない。五十メートルライン。これはおれがこれまでに観察した結果、出した統計値だ。坂道の下から約五十メートル登ったあたりで、速度は歩くよりも遅くなり、だれもが自転車を降りることになる。そういうラインだ。
 そのしんどい坂を登り切った先に、おれの住む団地がある。
 母さんの勤める会社の社宅で、五棟の古い建物が並んでいる。全室南向きの部屋からの風景は絶景だ。
 眼下には、多摩川が西から東へと横切る。崖線の緑地帯が川に沿って、左右へと伸びる。青々と続く崖線のラインが目に鮮やかだ。駅の周りの商店街や、おれたちの通う小学校や、くねくねと入り組んだ道が、おもちゃみたいにみえる。健太郎が住む白いお城のようなマンションは、おれの団地の斜め下にある。
 夕陽差し込むリビングで、おれは今朝の新聞をめくった。
「あった。当選発表」
 ポケットからくまちゃんのくじを出す。
「12組131742番」
 宝くじの当選を見るなんて初めてだ。ちょっと大人になったような気がする。
 その小さな文字列を丁寧に追う。くまちゃんくじに記された六桁の数字を探す。もちろん六等からだ。このあたりが貧乏性だと思う。
「131742」
 一度見た数字は忘れないので、こういうとき便利だ。数字に強いのも、やはり理系の父さん譲りかもしれない。
「あっ」
 心臓がどくっと震えた。
「あった・・・」
 ウソみたいなホントだ。
 2等 下一桁2組 131742番 300万円。
 新聞の文字は、確かにそう告げていた。おれは、桃色くまちゃんくじを手にしたまま、おれはふっと息を吐いた。
 どうやらおれは、こういう場合、騒いだり、狼狽えたりしないタイプらしい。よく周りからも落ち着いているねって言われることが多いけど、大抵の場合、頭の中で次にすべきことの計算をしているのだ。
 こういうところは、やりくり上手でどんな場面にも動じない強気な母さんの血をしっかりと受け継いでいる。
 300万円。
 おれの頭は、すでに計算を始めていた。
 父さんの新しいパソコン、35万円。もちろん最新のコアツーデュオのインテルハイッテル。あと、冷蔵庫が冷えにくくなってきたって母さん、いってたっけ。去年、省エネ大賞を受賞した最新の省エネ冷蔵庫の消費電力が年間580キロワット。これに買い換えると一ヶ月の電気代が約300円節約できる。よし、買いだ。あと、おれの新しいサッカーボールも欲しいな。だいぶ綻びてきたから、シュートんとき、左に3度、切れるように曲がってくんだよな。たとえ3度といえども、飛距離があればそれは大きな誤差になる。えーと、それからそれから・・・
 おれの夢は膨らんだ。しっかり300万円分、膨らんだ。庶民による庶民のための夢だ。
 けれど、庶民の300万円の夢は、20時間後にあっけなく壊された。

 その夜、家の中はどこか違っていた。
 空気の密度がばらついていた。なんとなく肌で感じたのだ。緩んでいたり、張り詰めていたり、ゆらゆらと変わっていく。
 いつもよくしゃべる母さんが、静かだった。いつもあまりしゃべらない父さんが、一生懸命、しゃべっていた。
「明日、行くんだよね。じいちゃんたちんとこ。泊まりの準備、なにすればいい?」
 夕食のあと、母さんに訊いた。
「あ、ええと、なにも」
「なにも?」
「なにもいらないから」
「着替えも?」
「着替えもいらないから」
 洗い物をしていた母さんは、おれを見なかった。母さんの背中がゆらゆら揺れていた。おれは、桃色くまちゃんの宝くじも、300万円の夢も、一言も言い出せなかった。
 ざわざわしていた。家の中も、父さんも、母さんも、おれも、ざわざわしていた。

 三、

 土曜日の昼前、電話が鳴った。
「はい。今、参ります」
 リビングから母さんの声がした。おれの部屋のドアが、軽く5回、叩かれた。父さんだ。
「智、行くよ」
「うん、いま行く」
 ベージュの七分丈のパンツに、黒いTシャツ、その上から白い薄手のベストを羽織った。
 部屋を出るときに、ふっと思い出した。
 桃色くまちゃんの宝くじ。
 300万円のおれの夢を、ポケットに押し込んだ。
 父さんが玄関で待っていた。母さんがあとから出てきた。二人とも見たこともない格好いいスーツを着ている。
 母さんは、いつも会社に出かけるときみたいにキリっと背筋を伸ばした。
「さあ、行きましょうか」
 母さんが父さんを見上げて笑った。昨日の夜みたいなゆらゆら揺れてる母さんはどこにもいなかった。父さんはそんな母さんを見て、静かに微笑んだ。おれはそんな二人を見て、また、ざわざわした。
 団地前の広場に、真っ黒の外車が停まっていた。嫌な感じだ。ちょっとこわい。
 おれたち三人が出てくると、運転席から降りてきた男の人が、黙ったまま、すっと頭を下げた。そして、丁寧な動作で、後部座席のドアを開けた。
 なんだ、これ。なんだか映画みたいだ。
 父さんが乗った。母さんも乗った。誰もが無言だった。まるでそうするのが、そうされるのが当たり前みたいに、その状況を受け入れた。おれだけが浮いている。ほんの少し躊躇った。
「智様、どうぞ」
 運転手だろう男の人が、すっと手を差し伸べた。
 様? なんで?
 おれは、眉間にしわを一本だけ寄せて、考えた。
「智、乗りなさい」
 母さんがおれを呼んだ。おれはまだ答えを見いだせないまま、黒い大きな外車に乗り込んだ。ドアは静かに閉まった。
「これから父さんの実家に行くからね。おじいちゃんとおばあちゃんが待っているよ。智の誕生日パーティをやるんだって、張り切っていたよ」
「父さん」
 なんで、おれが智様なの? なんで母さんは困ったように笑ったの? なにが起こってるの? これからなにが起きるの? なにを隠してるの?
 訊くなら、いましかない。そう思って、口を開いた。けれど父さんに先手を打たれた。
「智、父さんも母さんも、なにも言わないし、なにも答えない」
 こんな父さんを初めて見た。まるで別人みたいだ。ざわざわする。なにもかもが落ち着かない。
「なにそれ、わけわかんない」
 子どもらしく、ここは抗議してみた。
「すべては明日の夜に決まるから」
 おれの誕生日の夜。十歳の誕生日に決まる。
 なにが決まるんだ? だれが決めるんだ? ぜんぜんわかんないよ。
 父さんは、まっすぐにおれを見ていた。瞳の色がわずかに青みを含んだグレーに見えた。その色があまりにも深くて、吸い込まれそうになった。
 たぶん、これ以上、なにを訊いても無駄なんだ。
 心臓がどくどく音をたてている。なにかが起ころうとしている。それが怖い。でも怖いだけじゃなかった。気分が高ぶっている。昨日から自分の身の回りに起こる出来事に、どきどきしている。
 昨日は、300万円の当たりの宝くじを拾った。今日、父さんと母さんは別人に変身した。おれは、智様と呼ばれた。
 これから行くじいちゃんとばあちゃんの家は? じいちゃんとばあちゃんも、変身するのか?
 明日の誕生日になにが起こるのか?
 胸の奥がとくとくと波打っていた。
 おれは窓の外へ目を向けた。車は首都高速を走っていた。ガラス張りのビルがいくつも並んでいる。たぶん六本木あたりだ。テレビでみたことがある。
「もうすぐ着くよ」
 父さんの柔らかな声がした。車が高速の出口へと速度を落としていく。それから数分後、おれは、生まれて初めて、息をのむというリアクションを覚えた。
 白い大きな門は、車が近づくと静かに開いた。そこから木々の立ち並ぶ坂道を上ること30秒、ふいに視界が途切れた。
 真っ白なお城があった。大きな大きなお城のような洋館だった。
 これは、なんだ?
 息をのみんだ。
 ぜんぶ見るんだ。
 頭の中で声がした。
 ぜんぶ自分の目で見て、自分で受け止めろ。それが「なにも答えない」といった父さんの本心だ。
 これは、十歳になるための儀式なのか。
 ギギっと重い音がして、ドアが開く。新しい世界が開く。
 出迎えは銀髪の執事から始まった。深々と頭を下げ「おかえりなさいませ」と外国語なまりの日本語でいった。
 玄関ホールは三階まで吹き抜け。天窓からやわらかな陽が白い大理石の床に落ちてくる。もちろんロビーから上へと向かう階段はゆるやかなカーブを描いている。下には、いわゆるお手伝いさんが5人、美しい規則性を持って並んでいた。着ている制服も、並んだ間隔も、びしっと同じだ。もちろん顔は違うけれど。よくみたら、三人は外国人みたいだった。そこへ主人が登場する。優しいクリーム色の絨毯を踏みながら降りてきたのは、まぎれもなくじいちゃんとばあちゃんだった。
「智、いらっしゃい!」
 ばあちゃんが手を広げておれを抱きしめて、ほっぺたにキスをした。バラの花束みたいなにおいがした。
「優樹、薫子さん、お帰り」
 じいちゃんが父さんと母さんに微笑んだ。
 それだけでもう十分だ。おれはここで、一つの答えを出した。
 父さんは、由緒正しいおぼっちゃまだ。

「智、お誕生日、おめでとう!」
 大人たちはお酒の入ったグラスを、おれはオレンジジュースの入ったグラスを、天井へ向かって掲げた。
「ありがとう」
 そう答えたおれの声が、なんだか遠かった。
 大きな食堂には、十人くらい座れそうな大きなテーブルがあって、食べきれないくらいのごちそうが並んでいた。じいちゃんとばあちゃんが笑っている。父さんと母さんも笑っている。もう昔からそうしてたみたいに、この場所で、ゆったりと笑っている。景色の一つとなって、この場所に溶け込んでいる。
 そうだ。ここは父さんが育った家だ。父さんはここで毎日食事をし、寝起きした。母さんだって、この家に遊びにくることだってあったと思う。
 この状況の中で、おれだけが一人だ。
 心臓のドキドキはとうに消えていた。
 おれは、目の前で起こるすべてを、一歩離れた距離から見ていた。
 さっき案内されたおれの泊まる部屋には、大きなベッドがあった。おれが三人くらい並んでも十分過ぎるくらいだ。クローゼットにはおれの着替えも、パジャマから洋服から靴まで、すべてが揃っていた。そのどれもがおれにぴったりのサイズで、おれの好みをすべて知り尽くしているみたいだった。
 廊下も階段も、この部屋も、すべてがこれまでの世界とはまるで違う。
 健太郎の住むマンションだって、おれんちから見れば緑の森の中に立つ白いお城に見えた。中だって、すごく広くて格好いい。
 ここは、そういうレベルを軽く越えている。
 本物のお城なのだ。
 普通は、どんな反応をするんだろう。
 健太郎だったら、あちこち見て回って、探検とかしそうだ。クラスの女子だったら、キャーキャー甲高い声で大騒ぎするのかも。
 でもおれの中は、静かだ。おれじゃないみたいに、静かだった。おれの中に別なおれがいて、そいつがおれの目を通して見たものを、おれが一歩離れた場所から観察している。観察しながら、冷静に分析して、なにか答えを求めようとしている。そんな感じだ。
「おじいちゃまはね、実は、イギリス人と日本人のハーフなの。智のお父さん、優樹の瞳の色はね、優樹のおばあさまの瞳の色を受け継いでいるのよ」
 ばあちゃんがいった。
 なるほど、じゃあ、父さんはクォーターというわけで、おれは1/8なんだ。父さんの瞳の色が黒じゃないことは知っていたけれど、異国の血を受け継いだんだね。
「この家は、明治時代から、学校を運営していてね。おまえのおじいちゃんは、大学や高校、中学校、小学校をいくつも経営しているんだよ」
 父さんがいった。
 じいちゃんは、いくつも学校をもってるんだ。だからお金持ちなのか。
 父さんは実は、今勤めている大学の理事長をしていたこと。父さんは海外でも有名な論文をいくつも発表している研究者だったこと。この家では、おれのひいばあちゃんにあたる人がイギリス人だったので、英語と日本語で生活していること。父さんも小さい頃、イギリスに住んでいたこと。
 大量の情報が、次々と押し寄せてきた。おれは、その一つ一つを、回り続ける脳に叩き込んだ。v  必要なのだ。おれの心の奥が、求めている。
 ぜんぶ聞いて、それを元に考えて、決める。そうだ。明日の夜、決まると父さんはいった。おれが決めるんだ。なにかを決めるんだ。
 だから目を開け。耳を澄ませろ。考えろ。
 脳が信号を発した。
 昼から始まったパーティも、ケーキやデザートを食べる頃には、夕方になっていた。
 父さんとじいちゃんは、論文の話をしながらじいちゃんの書斎に入っていった。母さんとばあちゃんは、温室へと散歩に行った。おれは、自分に与えられた部屋に戻った。
 ベッドに身体を横たえた。たぶん、その瞬間に、意識を失った。
 夢の中で、おれは、大きなコンピュータの前に座っていた。モニターがずらりと並んでいる。おれは、キーボードを叩いていた。おれに代わって、コンピュータが沢山の計算をした。モニターに数式や数字がずらずらと流れていく。
 おれは待っていた。
 コンピュータが一つの答えを導き出すのを待っていた。ずっと待っていた。数字が流れる。ずらずらずらずら流れていく。いつまでたっても止まらない。壊れたみたいに数字だけが流れていく。
 答えは、どこだ?

「智」
 夜ではなく、朝だった。
 母さんがカーテンを開けた。眩しい陽の光が、部屋に飛び込んでくる。
「おはよう。よく寝てたね。疲れてない?」
 ここは、どこだ?
 見慣れた自分の部屋じゃない。いつもの朝みたいに、母さんがいるのに、母さん以外のものがぜんぶ違う。
「今日もいい天気だね。おばあちゃまが朝食は外のテラスにしましょうって」
 あー、そうだった。昨日から父さんの実家に来てたんだ。なにもかも違う世界にいたんだっけ。
「顔洗って着替えたら、降りて来てね」
 母さんがドアの向こうに消えた。大きなベッドから抜け出した。部屋についている専用バスルームへ向かう。鏡の中の自分を見た。
 おれだ。
 前髪も、後ろも、少し伸びすぎてはいるけれど、間違いなくおれがいた。今日、十歳になるおれがいた。
 今日の夜、おれはなにを決めるんだろう。
 ふいに昨日みた夢が蘇る。数千、数万という数字が流れていた。いつまでたっても答えは出なかった。
 答えのない計算が、怖かった。初めて数字を怖いと思った。
 おれは今夜、答えを出せるだろうか。
 蛇口をひねり、勢いよく顔を洗った。濡れた前髪から、ぼたぼたと滴が落ちていた。

 四、

 覚悟はしていた。
 というか、あの父さんの家を見たあとでは、想像できることだった。けれど、それは、想像を遙かに上回るものだった。


 朝食を終えたあと、おれたち家族とじいちゃんばあちゃんは、車二台に分乗して、母さんの実家へと出発した。
 港区から車で四十分。おそらくは東京郊外。おれたちは森の中の道を走っていた。
「すごいね、東京にこんな森がまだあるんだ」
「ははは、東京じゃなくて、母さんの家だよ」
「は?」
「もう敷地に入っているよ。うちなんかよりも、ずっと広いんだ。たぶん東京ドーム二つ分くらいはあるんじゃないかな」
 父さんがニコニコと笑っていた。母さんは「たぬきとかリスとかいるのよ」と説明を追加した。
 東京ドーム二つ分の敷地の真ん中あたりに、母さんの家はあった。果たしてそれは、家を呼べるだろうか。瓦屋根に白い漆喰の壁。純日本風の平屋が、どこまでも広がっていた。
 だだっぴろい玄関でスニーカーを脱いでいると、廊下の向こうから、ドタドタと床を踏みならす音が近づいてきた。
 じいちゃんだ。
「おー! 智! おっきくなったな!」
 じいちゃんが大きな手で、おれの頭をわしわしとかき混ぜる。
「じいちゃん、その格好、なに?」
 じいちゃんは、袴を身につけていた。木の床、塗り壁、襖。こんな和風の家で袴とは、おれの方が来る時代を間違えたみたいだ。
「弓道だ。さっきまで朝の稽古をしておった。智もやってみるか?」
 じいちゃんがおれの背中をバンバンと叩いた。
「薫子、お帰り。みなさんもようこそおいでくださいました。古いだけの家ですが、どうぞくつろいでいってくださいね」
 じいちゃんと対照的に小柄なばあちゃんが、父さんたちに挨拶をした。
 昨日は洋風のお城で、今日は和風のお城。まったく正反対だけれど、どちらも同じ雰囲気を持っている。
 由緒正しい家柄。
 ものすごいお金持ち。
 普通ではない人たちの世界。
 母さんも、正真正銘、お嬢様だったのだ。

「智、誕生日、おめでとう!」
 大人たちはお酒の入った杯を、おれはオレンジジュースの入ったグラスを、天井へ向かって掲げた。
「ありがとう」
 そう答えたおれの声が、なんだか遠かった。
 畳を敷き詰めた大きな広間に、きっちり二列に並んだ座布団。そして膳。旅館とかで出てくる、一人用の小さな食卓だ。着物を着た仲居さんたちが、膳の間を行き来して、次から次へと、食事を出してくれる。膳を挟んで、会話が行き来する。
 驚かなかったし、息ものまなかった。ただ、やっぱりぜんぶが遠かった。

 夕方、母さんが、お風呂に入ってきなさいと、タオルと着替えを持ってきてくれた。母さんに連れて行ってもらったお風呂は、ほんとうに旅館みたいで、広い脱衣所までついていた。
「温泉だから、気持ちがいいわよ。少し滑るから、気をつけてね」
「東京で温泉が出るんだ」
「関東はどこを掘っても、温泉が出るんですって。珍しいことじゃないみたいよ」
 でも自宅に温泉が湧いている家なんてのは、東京にはめったにない。そのことを母さんはわかっているんだろうか。
「じゃあ、ゆっくり入ってらっしゃい」
「うん」
 母さんが脱衣所の引き戸をあけて、そこで止まった。
「智」
 おれを見た。
「なに?」
「隠してたわけじゃないし、嘘をついていたわけでもないの」
 母さんが小さく揺れた気がした。
 父さんの家のこと、母さんの家のこと。おれが今日まで知らなかった、知らされなかった事実。
 隠していたわけじゃない?
 それこそ嘘じゃないの?
「理由があるの」
 そうだよね。理由があるんだよね。理由がなければ、こんなこと意味がないもんね。
 それでも、おれは、父さんと母さんが言わなかったとてつもない事実を見せつけられたんだよ。たった二日の間に、目の前に、これでもかと、突きつけられたんだ。
「母さん、おれ」
 おれ・・・
 おれ、今、なにを言うつもりだったんだ?
 なんで隠してたんだよ。理由ってなんだよ。おれになにを決めろっていうんだ。こんなこと、おれにどうやって受け止めろっていうんだ。
 突き上げてくる。怒りとか恐れとかが、どんどん溢れてくる。
 おれ、なにやってんだ。まるで、だたをこねている子どもみたいじゃん。もう十歳になったのに。
『十歳っつったら、二桁だろ、二桁。それって、大人ってことだろ?』
 ししっと笑う健太郎の顔を思い出したら、なんだか、泣きそうになった。
 突然、ぜんぜん違う世界に投げ込まれた。自分一人だけが、その世界に属していなかった。よく知っているはずの、でも初めて見る父さんと母さんを遠くから眺めながら、おれはたった一人なのだと気づいた。
 おれの世界はどこいったんだよ。
 健太郎としゃべった一昨日が、どこか遠くにいってしまった。
 悔しくて、泣きそうだ。
「智、あのね」
「ストップ」
 柔らかな声が、母さんを止めた。おれを止めた。父さんが、母さんの横に立っていた。
「お母さん、ルール違反だよ」
「でも」
「智は、ぼくに似て計算が速いし、そのうえ、ものごとを理解することも、じっくり分析することも、小さい頃から得意だった。それから、智は、お母さんに似て、勇気も度胸もある。ぼくたちの智は、弱くない」
 父さんの静かな声が、湯の流れる音に交じって、耳に入ってきた。伏せていた顔をあげた。
「智は大丈夫だ」
 ブルーグレーの瞳がまっすぐにおれを見ていた。

 服を脱ぎ、洗い場で身体を洗い、ゆるりと湯煙のたつ湯船に身を沈めた。深呼吸してみると、檜のにおい、っていうのかな、柔らかい木のにおいがした。
 瞼を閉じる。
 超が十個くらいつくだろうお金持ちな家が二つ。
 由緒正しいおぼちゃまとお嬢様の二人。
 ゆらゆらと揺れた母さん。
 静かに笑んだ父さん。
 十歳の誕生日。
 ルール。
 おれ。
 ゆっくりと計算し、分析する。そして、足りないものを見つけた。
 問いだ。
 おれが出すべき答えの問いが、まだなかった。
 怒りも、悔しさも、泣きたい気持ちも、消えていた。

「さて、お集まりのみなさん。待ちに待ったわれらが智の十歳の誕生日、つまり約束の日が、ついにやって来たのですっ!」
 母さんちのじいちゃんが、大広間の真ん中に立って、ぐるりと輪になって座ったおれたちを見渡した。
 じいちゃんばあちゃんたちが、盛大な拍手をしている。
 これは、なんかのショーなのか。温泉旅館といえば、隠し芸大会と卓球がつきものだとよくいわれるけれど。
 父さんと母さんは、なんだかこわばった顔つきで、正座している。
「これが件の契約の書だっ!」
 着物を着たじいちゃんは、袂からなにやら取り出した。水戸の黄門様のように、みんなの前に突きつける。
 和紙? 墨で「契約の書」と書かれている。
「おお!」
「開きます!」
 びろびろびろんと、蛇腹に折りたたまれた紙が、畳の上に広がった。じいちゃんばあちゃんたちがどよめいた。
 このノリはなんだろう。
 おれは初めて戸惑っている。この二日間、どれほど異世界が広がろうと、息をのんだだけだったおれが、いま、盛大に騒ぐじいちゃんばあちゃんたちを前に、本気でびびっている。
 なんだよ、これ。
 父さんと母さんは、下を向いていた。
「智、これを読むのだ」
 じいちゃんがおれを呼んだ。おれは円座の真ん中に進み出て、畳の上の和紙とにらめっこした。
『智の十歳の誕生日に、家に戻ること。どちらの家を選ぶか、智が決めること』
 問いは、こんなところにあった。そして、それはおれの中に、静かな怒りの火を灯した。
「父さん、母さん。説明を」
「はははっ。智、なんだか大人みたいだね。格好いいな。さすが智だ」
 父さんが笑った。
「ごめん! ごめんなさい! ぜんぶお母さんが悪いんです!」
 父さんの背中をばちんと殴った母さんは、畳の上に額をこすりつけた。
 話は十年前、おれが生まれたばかりのころまで、遡る。  

 あるところに、生粋のお嬢様がいました。家柄良し、器量良し、度胸良し、三拍子揃ったお嬢様でした。そんなお嬢様の夢はなんと、庶民になることだったのです。  

「つまり、庶民になりたかった母さんが出会ったのは、運悪くおぼっちゃまで、それでも家の反対を押し切って、社宅暮らしを強行。おれが生まれて、跡継ぎ問題が浮上。両家の争いの解決を、生まれて間もないおれの将来に押しつけた。そういうことですか?」
「まあそういうことになるかしらね、おほほほ」
「おー、智は頭がええのう。完璧なあらすじだ」
「ほんとうに」
「さすがは優樹の子だ」
「いやいや、薫子の子だからだ」
「ちょっと、お父さん、やめてよ」
 両家の争いに再び火がついた。ただし言い争っているのは、じいちゃん二人と母さんの三人だけ。ばあちゃん二人は、お茶を飲みながら和菓子を食べている。父さんは、そんな母さんたちを見ながら笑っていた。
 おれは、そんな家族の真ん中につったっていた。
 母さんやじいちゃんは、けんかしながら、なんだか楽しそうだった。ばあちゃんたちも、楽しそうだった。父さんは、もっと楽しそうだった。
「で、智はどっちを選ぶ?」
 父さんが笑顔のまま問いかけた。
「おれだけにその責任を負わされるのは、フェアじゃないよね」
 おれは笑顔で答えた。そしてポケットに入っていた拾いものの鉛筆を取り出した。「契約の書」に向かう。
「智、なにしてるの?」
「お、智、決める気になったか? うちへ来い! 昨日は案内できなかったが、庭にプールもテニスコートもあるぞ」
「いや、うちだってそんなものはある。あと、弓道場と、乗馬コースもある。うちにしなさい」
「ちょっとまって、じいちゃんたち。こんな重大なことを、おれだけに任されるのはやっぱり不平等だと思うんだ。というわけで、父さんや母さんたちにも責任とってもらいたいと思うんだけど」
 おれは、みんなの目の前に「契約の書」を広げて見せた。
『智子の十歳の誕生日に、家に戻ること。どちらの家を選ぶか、智子が決めること』
「さとるこ?」
「違う、さとこだよ、さとこ」
「智子って誰よ?」
「もちろん、おれの妹」
 にやっと笑って見せた。
「え? え?」
 なにごとにも動じないあの母さんが、動揺した。
「これはものすごい責任だね」
 父さんがいつものように静かに微笑んだ。
「智の妹? 女の子の孫も欲しかったんだ! でかしたぞ、優樹、薫子さん」
「おい、薫子、いつ生まれるんだ? 予定日はいつだ?」
「ちょっと、お父さんったら、まだできてもいないのよ!」
 母さんが顔を赤くした。
「智に妹が生まれたら、お姫様のような天蓋付きベットを用意しますわ」
「あら素敵。ではこちらの家では、専用のお茶室を用意させましょう」
「すばらしいですわね」
「ええ、ほんとうに、楽しみですこと」
「ちょっと、お母さんたちも、やめてよ!」
 母さんが慌てている。父さんが、そんな母さんの手をそっと握った。
 十歳の誕生日に開いた扉の先は、父さんと母さんがいて、おれがいて、いつもと変わらない、でももっと賑やかで優しい時間だった。
 もしかしたらおれは、きっと誰よりも幸せなのかもしれないなと、お気楽な家族の真ん中で、思った。
 きっと十年後も、またこんな風に「契約の書」を囲んで、みんなで笑っているのだ。そこには十歳になった智子がいる。
「智子、ごめん、おれのせいだ。この300万円はおまえのためにとっとくからな」
 おれは、まだ見ぬ妹に、小さな声で謝った。
 ポケットの中で、桃色くまちゃんがかさりと音をたてた。
(了)