紙飛行機の飛ぶ先に

2008.11.15
 一、

「好きだ」
 残り少ない太陽が、赤い陽光を斜めに投げる。教室にはもう誰もいない。おれと、こいつだけ。
「ジョーク?」
 念のため、きいてみた。こいつのことは、小学校から知っている。友だちだった覚えはないが、こんな田舎じゃ、知らない人間もいやしない。名前や顔を知っている、声を知っている、まあその程度の知り合いだが、記憶にある限りでは、ジョークとかいうやつじゃなかった。
「いや」
 いつものお堅い顔で答える。
「じゃあ、同情?」
 おれはついさっきまで、職員室に呼び出しをくらっていた。今年三十回目の記念すべき呼び出しだ。進学がとか、若いうちはとか、よくわかんない言葉で熱く語る担任の前で、ぼんやりと突っ立っていた。大人なんて、好きなだけ話させておけば、いずれ語り尽くして自己満足する。ほっとくに限る。職員室常連のおれは、二年の頃には、もう悟っていた。それに職員室はエアコンが効いていて、あったかい。立っているだけで頭がぼーっとしてしまう。暖かい空気が上の方にいくってのは、真実だ。担任が「おれが高校受験のときはな」と昔話に入ったとき、こいつは、別の先生んとこにいた。先に用事を終えたこいつが、職員室から出て行くとき、おれと目があった。切れ長の目が、おれをまっすぐに捉えていた。向けられた眼差しは、いつもと変わりなく無表情なのに、なにかを含んでいる気がした。
「違う」
 あの目に、哀れまれているのかと思った。ならば一発殴ってやればいい。けど返事はノーだった。こいつが読めない。
「おまえはなにを考えているんだ!」これまた熱血な若い体育教師が、授業に参加しないおれをみつけるたびにいうけれど、もっとわかんないのは、目の前にいるこいつだぞ。どうしたらおれみたいなヘラヘラ笑ってるだけの落ちこぼれに好きだなんていえるんだ?
 でもわからないから知りたくなる。なぜなんだ? と問いたくなる。おれたちはそういう生き物らしい。本に書いてあった。あの体育教師も、おれのことが知りたかったのだろうか。目の前のこいつをみてそう思ったけど、きっともう遅いのだろう。最近では、あまり話しかけてこなくなった。「おまえ、言いたいことがあるなら、はっきりいってみろ。欲しいものはなんだ。やりたいことはなんだ」鬱陶しいくらいだったのに、それがある日なくなっていた。気づいたときには、遅いんだ。
「いつから?」
「中学一年のころから」
「きっかけは?」
「配られたプリントを紙飛行機にして飛ばしたとき」
 どくんと心臓が鳴った。たったそれだけか?
「おれの、どこがいいの?」
「ぜんぶ」
 バカだ、こいつ。
 学年一、いや、県で一番の秀才、中屋敷葉(なかやしき・よう)は、目線を伏せるでもなく、恥じらいもなく、はっきりとそういった。
 冷や汗が出た。中屋敷の頭良さそうな涼しげな眼差しに、じりじりとあぶられ、おれのヒットポイントはぐんぐん下がる。三分後、おれは膝から力が抜けて、その場にへたり込んでいた。武器も使わずに、視線だけでおれを倒すとは、あっぱれだ。
 違うだろ。これはゲームじゃない。
 自分で自分につっこんだ。賞賛している場合じゃない。
 中学もあと半年足らずで終わりだ。体育祭も文化祭も終わった。なにもかも終わったんだ。残すイベントは、受験と卒業式とうい苦痛だけ。周りはすでに受験ムード全開で、焦り苛つきぴりぴりしてる。触れたらその瞬間に破裂し、砕け散る。そんな空気をまとったやつばかりが教室で呪文のように公式を唱えている。誰もが些細なことで憤るこの時期に、県ナンバーワンの秀才は、晩秋の夕焼けに満たされた教室で、受験をとっくに放棄したおれに告ったのだ。
 秀才はやることが違う。ちなみに、中屋敷は男だ。ちなみに、おれも男だ。
「菊池、大丈夫?」
 中屋敷がかがみ込み、おれと目線を合わせる。大丈夫? それはおれのセリフだろうと、中屋敷を見上げたら、そのまじめな顔はいつも通り涼やかだった。
「おれよりバカがいるとは、思わなかった」
 今世紀最大のため息が出た。

「おれ、チャリなんだ。後ろ、乗らない? 送るよ」
 教室で告ったあと、中屋敷はそういった。確かにそういった。それなのに、これはなんだ。おれは中屋敷の自転車に乗り、後ろに中屋敷を乗せて、中屋敷の指示で右や左に進路をとり、おれんちとは正反対の方向にある中屋敷の家へと必死にペダルをこいでいる。
 男に告白された直後、そいつにノコノコついていくおれもおれだが、気力体力ともに限界だったおれは、チャリの後部席という甘い言葉に、つい釣られてしまった。おれの家は、学校から一つ山を越えた向こうにある。距離はそれほどないが、文字通り山を越えるので、行きも帰りも、まずは上り坂が待っている。それに今朝は身体がたるくて、大学に行くついでのねえちゃんに、車で送ってもらったのだ。自分のチャリはない。当然、お言葉に甘えるだろう。おれを好きならその愛の力で、あの坂道を登ってみろ。
 しかし、ノーマルでない愛の道は険しかった。
 古びた下駄箱の林立する昇降口で、中屋敷はちょっとした段差を踏み外した。中屋敷の足首のあたりから、ビキという世にも恐ろしいなにかが壊れる音がした。
「いま、なんか、音が・・・」
 今日、二度目の冷や汗が出た。おれは弱いのだ。人が怪我するとか、血が出るとか、そういうのにひどく弱い。
「したね」
「したねって、なんでそんなに冷静なんだ! えーと、こういうときは保健室! 上野、いるかな。もう帰っちゃったかな」
 保健室は、職員室に次いで、おれの行きつけである。保健医である上野は、男勝りのおばちゃん先生だ。サボり目的で保健室を利用しようとして、出された湯飲みに漬けて水銀が限界まで上がった体温計を差し出して、頭を叩かれたのが馴れ初めだ。懲りずに三年間、通い詰めたおれは、すっかり茶飲み友だちになってしまった。上野が飼ってる猫と犬と山羊(なぜか山羊)の名前も、上野の庭に植わってる野菜の種類まで知っている。毎年夏にくれるトマトが、とんでもなく甘くてうまいんだ。
「落ち着けよ、菊池」
 蹲ったまま動けない中屋敷を置いて、トマトへ、いや保健室へとダッシュしそうになったおれを、中屋敷の冷静な声が留めた。
「落ち着いていられるか! ビキっていったんだぞ! ビキって」
「おれは、明日に試合を控えた陸上選手でもサッカー選手でもない。大丈夫だ」
「痛くねえの?」
「痛いよ」
 その顔があまりにも普段通り大人びているので、イラっときた。
「痛いなら、そういう顔しろよ!」
 そういったら、ほんの少しだけ、無表情を緩めて
「菊池は優しいね」
 といった。
 どくんと視界が揺れた。一生の不覚。そんな言葉が頭に浮かんだ。
 そのあとおれは、中屋敷を保健室に運び、でも上野はもう帰った後で、仕方なく、中屋敷のチャリでこいつを家まで送ることになったのだ。
 黄色く枯れた田畑を吹き渡る寒風が、肌を刺す。顔は痛いけど、十五歳男子二人分の体重を載せてチャリを漕いでいるので、体内は発熱している。息が上がる。はき出した息が、もう白いことに気づいた。
「次を左に入って。その先だから」
 背中から中屋敷の声がした。おれは黙って頷いた。

「ありがとう」
 玄関まで送っていった中屋敷がいった。
「チャリ、借りてくぞ」
「いいよ。それじゃあ、また明日」
 手を振ることもなく、中屋敷はそのまま家に入ってしまった。おれは閉まった扉の前で、動けなかった。
 おい。あっさりしすぎだろ。これがさっき告白したばかりの、そして家まで送ってやった相手に対する態度か。おまえ、さっきおれに、好きだっていっただろう。
 中屋敷の胸ぐら掴んで、一言いってやりたくなった。
 秀才で、先生を含め誰からも一目置かれていて、当然のように班長、部長、委員長、生徒会長、とにかく長と名のつく役職をいくつも務めあげ、どんな問題も冷静に解決する。あまり笑わずいつも無表情だが、かといって冷たいわけでもない。
 それがなんだ、この冷たさは。普段、教室にいる中屋敷よりも、冷えてるじゃないか。
 恋愛なんて、幼稚園の先生に「結婚してください」とみんなの前で大声で求婚した苦い青春の思い出以外、経験がない。姉やクラスの女子どもをみていて想像するに、もっとドキドキして、ベタベタして、ねばっこいもんなんじゃないのか? 希望的観測では、もっと甘いはずだ。
 ふつっと、怒りが湧く。
「わけわかんねえ」
 玄関扉に向かって呟いた。再び、疲労が押し寄せてくる。今日のおれのヒットポイントは中屋敷のおかげでどん底だ。やつのチャリを借りるのもなんか腹が立つが、自分の家までおそらく五キロはある道を歩く気にはなれなかった。
 チャリを押して、玄関から門までの砂利を踏んで歩く。門柱の脇に、高さ数メートルのイチイの木があった。赤い実をいくつもつけたまま、緑の細い葉を寒風に揺さぶられている。飾らなくても、このままでクリスマスツリーになる。自転車に跨り、イチイの木を見上げた。その枝の間で、なにかが揺れた。
 二階の窓のカーテンだ。緑色のカーテンが割れ、そこに中屋敷が現れた。おれをみていた。視線が交わった感じはしない。中屋敷のいる二階の窓からは、おれの顔はイチイの枝の陰になっていてみえないのだろう。でもあいつはおれをみていた。
 おれはペダルに乗せた足に力を込めた。ギアがぎちっと鳴いた。最初の角を曲がるとき、わざとらしくない程度に、振り返ってみた。中屋敷はまだ、窓辺に立っていた。
「わかりにくいんだよ、バカ」
 焚き火の煙が薄く残るあぜ道を、チャリで駆け抜けた。なぜだか胸がドキドキした。

 二、

 いつもと同じ朝がきた。
 食事を終え、歯を磨き、しばし自室で制服と向き合う。クリーニングしたての黒い制服が、朝陽を受けてつやつやと輝く様を楽しんでいる、わけじゃない。睨み合っているのだ。というか一方的に睨んでいる。
 おれはこの制服が嫌いだ。
 中学入学式のあの日、校門へと吸い込まれていく黒いヌーの群れを見たとき、おれはざらりとした違和感を覚えた。初めての学校だし、そういうもんかとも思ったけど、張り出されたクラス分けを見て、教室に入り、同じ小学校で同じサッカークラブで、いつもバカばっかりしてふざけてた井上に、六年生のまんまのノリで話しかけたとき、違和感の正体をみた。
「菊池ぃー、いつまでも小学生やってんなよー。もう中学なんだぜ。大人になろうよ、大人に」
 そいつはおれの肩をぽんぽんと叩いて、にやにや笑った。真っ黒の真新しい制服が、やけにピカピカしてみえた。
 その十分後、入学式のため、全校生徒が体育館に並んだ。全員が一色に染まっていた。黒だった。右をみても、左をみても、知っていたはずのかつての級友たちは、別人になっていた。小学校の卒業式からたった二週間だった。
 制服のせいだ。全員が同じ服を着て、同じ人間になろうとしている。まるで鎧だ。どんなに弱いやつでも、強そうにみえる鎧。自分を隠して、敵を欺くための鎧。
 吐きそうになった。朝食べたものをリバースしそうになるのを、唇を咬み、拳を握って、堪えた。自分が着ている制服を、その場で脱ぎ捨て引きちぎりたかったが、それも堪えた。口の中はすっぱくて、握りしめた手は痛かった。
 最初の紙飛行機を飛ばしたのは、その直後だった。
 そんときの担任は、大学卒業したての女の先生で、いつもおれに向かってなんか必死に語ってたけど、おれは無視し続けた。夏休みが終わってみたら、その先生は学校にいなかった。
「逃げりゃあいいと思ってる」
「弱いよなぁ、大人ってやつらは」
「そんな大人になりたかねえよな」
「反面教師ってさ、こーいうこというんじゃね?」
「いい勉強さしてもらったな!」
「ぎゃはははは」
 学校という場所にとけ込めないやつらもやっぱりいるもんで、そんなやつらの間で、おれはヘラヘラ笑ってた。ヘラヘラ笑いながら、制服の色とか重さを必死に忘れようとしていた。  

 今日も、昨日と同じように制服と睨み合って、まるでこれから戦に出陣するみたいな重い気持ちで制服に袖を通した。今日もそれはずしりと重かったけれど、羽織るとき、ふわりと冬のにおいがした。枯れて朽ちた葉と、それを焼く煙と、弱い太陽と、乾いた風が混じり、淋しいのにどこかなつかしい、そんなにおいだ。小学生のころ、ねえちゃんにそれをいったら「ポエマー? くすっ」といやな笑い方をされたので、もう二度と口にしないと誓った。
 制服を着て、空っぽに近いカバンを掴んで、弁当だけをつっこみ、玄関でスニーカーに足をつっこんだ。
 なにか忘れてないか、おれ。
 昨日、中屋敷のチャリを借りた。あいつを後ろにのせて、刈り取られた田んぼの中をずいぶん走らされた。あいつが怪我なんてしやがるから・・・思い出した怒りが、なにかを一緒に連れてきた。
『好きだ』
「わーっ!」
 思わず耳を抑えて玄関に座り込んでいた。
 告られたんだった。同じクラスの同じ男の中屋敷に、中一のときから好きだといわれてしまった。
「どうしよう」
 そうだ、どうすればいいんだ?
 昨夜は疲労が激しすぎて、夕飯を食いながらぽろりと茶碗を落とし、一番上のねえちゃんに殴られた反動で畳に倒れ伏し、そのまま眠りこけてしまった。朝起きたら、自分の部屋にいた。綺麗さっぱり忘れていた。できれば忘れたままでいたかった!
「どんな顔したらいいんだ。ってかあのドア開けたら、あいつがいたらどうしよう。なんかいそうだよな。ああいうまじめそうなヤツに限ってストーカーとかすんだよな。あいつ絶対いるよー」
 おれの中で被害妄想が真実に限りなく近づいたき、天から怒鳴り声がした。
「ちょっと! みっちゃん! なにやってんのよ、邪魔! どきな!」
 昨夜おれを殴り飛ばした一番上のねえちゃんが、ドカドカ階段を降りてきて、玄関に蹲り妄想に取り憑かれていたおれを突き飛ばし、体当たりしながらドアを開けた。
「あ!」
 やめて、開けないで、という声は、この姉に届くはずもない。
 バンっ!
 家が揺れた。ヤツはいなかった。身体から力が抜けた。
 ねえちゃんの運転する車が、きゅきゅきゅーとタイヤを軋ませながら、車庫から飛び出していく。一番上のねえちゃんはとにかく凶暴だ。これが刑事なんだから、世の中恐ろしい。この市の犯罪率が減っているのが頷ける。
「みっちゃん、なにしてんの? 玄関で座ってたら痔になっちゃうよ」
 白くて細い手がおれの頭をふわりと撫でた。昨日、おれを学校まで運んでくれた二番前のねえちゃんだ。
「でもあたしが治療してあげるから、心配しないでね」
 そういって嬉しそうに笑うこの姉は、解剖がなにより好きだという医大生だ。この家で魚をさばけるのはこいつだけ。
「今日も送ってあげようか?」
「今日はいいよ。友だちのチャリ、借りてるから」
「そうなの? じゃあ行ってきます」
 白い手をひらりと振った。どれほど美しく見えても、あれが血に飢えた手だってことを、おれたち家族は知っている。おれはこの姉も理解できない。
「湊(みなと)、邪魔だ」
 小さな足に、背中をがつりと蹴られた。振り向くと、ランドセルを背負った妹がいた。
「はるき、おまえなぁ。兄を呼び捨てにするなと何度いったらわかるんだ」
「高校生にもなれないやつに、おまえ呼ばわりされる筋合いはない。湊みたいなやつを兄なんて呼べるか」
「・・・どこで覚えてくんだよ、そんな難しい言い回し。それになれないんじゃないくて、自主的にならないんだ」
「日本の高校進学率は、いまや九十七パーセントを越える勢いだ。あたりまえのことができないやつといわれるだけだ。高校もいかずに、湊はなにをするつもりなんだ?」
 ぐっと言葉に詰まる。
「いつまでたっても、子どもだな」
 十歳の子どもにいわれたら、おれももうおしまいかな。
「おまえにだけはいわれたくねえぞーっ!」
 赤いランドセルに向かって叫んだけれど、完全に無視された。とても小学生にはみえない超現実主義の妹の夢は、政治家だ。初詣の絵馬や七夕の短冊に「政治家となって腐敗した日本を救い、国民の辛苦を背負いたい」と書いた妹をみて、おれは日本の将来に大いに不安を抱いた。
 二人の姉と妹に置き去りにされ、おれは玄関に鍵をかけた。両親は海外赴任中で、いまここに住んでいるのはおれたち四人だけだ。
 いつもの朝だった。違うのは、ここにある中屋敷のチャリだけだ。ポーチに立てかけた見慣れぬチャリに手を伸ばしたとき、ポケットの中の携帯がぶるった。
『湊くん、おはよう。戸締まりきちんとね。庭にくる鳥のえさも忘れないで。高校のこと、はるきにきいたけど、行かないならこっちにこない? いいところだよー、自然がいっぱいで。今日もサイがね・・・』
 そりゃそうだろう。
 両親の赴任先は、アフリカの自然保護区だ。獣医師である二人は研究のため、もう二年もアフリカに行きっぱなしだ。おれ以外の姉妹全員がしっかり者のなので、なんの心配もしてないらしい。生来ののんき者夫婦は、地平線のみえるサバンナで、今日もライオンやシマウマたちと、心ゆくまで戯れている。
「当分、帰ってくる気ねえな」
 毎朝とどく母からの定期便を読み終えると、庭にくる鳥のために、パンくずを撒き、リンゴの切り身を枝に突き刺した。
 あまり普通でない環境なのだと思う。だからグレるんだと、一般常識のみで突っ込んでくる教師もいたが、おれはこんな家族が嫌いじゃないし、おれたちは意外とうまくやっている。おれからみれば、学校の方が異質なのだ。
 中学の入学式で感じたあの違和感は、いまだにおれの中にこびりついたままだ。小学校卒業式からたった二週間の間に、みんなはなにをなくしてしまったんだろう。
 おれにはそれがわからない。わからないから、立ち止まってしまった。三年経っても、わからなかった。誰も教えてはくれなかった。
 いや、違うな。
 撒いたばかりのパンくずをホオジロがつまみ、リンゴにはメジロがたかる。いつも来るやつらだろう。警戒もせずに食べている小さな鳥たちを眺めながら、ふと自分を否定していた。
 あの場所にいるやつらには絶対に答えられるわけがないと、思い込んでるんじゃないのか?
 風が吹いた。自分の中を、新しい風が吹き抜けた気がした。
 昨日と同じ朝なのに、なにかが違う。
『配られたプリントを紙飛行機にして飛ばしたとき』
 あのとき、中屋敷の言葉で、おれの中のなにかが響いた。学校の中ではいつだってヘラヘラ笑って、先生の声も、連んでいるやつらの声も、ぜんぶ聞き流していた。中屋敷の言葉だけが、心を揺らした。
 中屋敷のチャリに飛び乗った。えさをついばんでいた鳥たちが一斉に飛び立った。その先の空は、深い蒼だった。

 三、

「じゃあ、菊池んとこは四人姉妹で住んでるんだ。そのお弁当は誰が作ってるの?」
「二番目のねえちゃん」
「ああ、医大生の。すごいね。ご両親が獣医さんでお姉さんがお医者さんかあ。病気になったとき、困らないね」
「いや、おれはあいつのいる病院だけは行かねえ」
「どうして?」
「これ」
 おれは弁当箱から鶏の唐揚げを取り出して、中屋敷の目の前につきつけた。
「わー、チューリップだ。遠足とかお誕生日会みたいだ。いいなぁ、いつもこんなの作ってもらってるの?」
「よくねえよ! これはあいつが自分で絞めて自分で解体した鶏肉だ! 庭に散乱した白い羽をみたときのおれの気持ちがおまえにわかるかぁー」
「菊池はそういうのダメなの? そういえば、ぼくが足をくじいたときも、ものすごいあわてっぷりだったね」
「ダメ。もう絶対ダメ。血とかみたら倒れる」
 あはははと中屋敷が笑った。
 あ、こいつの笑った顔、初めてみた。切れ長の目が細くなって、少し目尻が下がる。いつもの冷たい表情が崩れて、一気に年相応の顔になった。
「菊池はおもしろいね。もっと早く、話しかければよかったな」
 中屋敷の言葉は、おれに触れては響き、揺さぶりをかけてくる。それは決して、嫌なものではなかった。心地よく吹く五月の風だ。いまはギンギンに冬だけど。
「おれみたいのと一緒にいても、いいことないぜ。自慢じゃないけどバカだし。先生たちからも、もう見放されてるし。おまえも目つけられたら困るだろ。内申悪くなる」
「菊池はバカじゃないよ」
 あの日と同じ、まっすぐな目だった。
「菊池はいいやつだ。一緒にいて、とても楽しいよ。菊池といると、ぼくは」
「ちょ、ちょっと待った!」
 思わず耳を塞ぐ。
「なに?」
「恥ずかしいから、そういうのやめろ」
「なんで?」
「なんでって、ふつー恥ずかしいだろ。ほめられたりしたこと、あんまないし」
「ぼくは、そんな菊池が好きだよ」
 あの日を境に、おれたちはこんなふうに仲良しだ。といっても、二人の仲に甘い進展があったわけではない。男同士でイチャつくなんて、冗談にもならない。ただ、一緒にいる時間が増えたけだ。それでも、これまでと違うなにかがあると、おれは感じていた。

 時は優しく、けれど容赦なく流れていく。
 期末を目前に、教室に閉じこめられた生徒たちは、いつにもまして張り詰めていた。ベルが鳴れば、すっ飛んで家に帰る。塾に向かう。きりきりと絞られている。反対に、街はクリスマスに染まり、どこか浮かれている。色あせた赤と緑と金の旗が風に揺れる。中途半端なイルミネーションが、ところどころで瞬く。予算がないのが丸見えなクリスマス商戦だ。おれと中屋敷は、そんな商店街をそれぞれ自分のチャイを押しながら歩いている。スピーカーから流れるジングルベルがどうにも恥ずかしくて、通るたびに苦く笑ってしまう。
「菊池、なに笑ってんだ?」
「いや、べつに」
「もうすぐクリスマスだね」
「だな」
「菊池んちはクリスマスにパーティとかする?」
「まあ軽く」
「ぼくんちはね、サンタが三人も来るよ」
「は?」
「妹がまだ小さいからね。父と祖父二人が、毎年、張り切っていて。祖父たちにとっては、初の女の子の孫だからね。プレゼント争いも半端じゃない」
「うちの妹とは大違いだな」
「はるきちゃんだっけ?」
「ちゃんなんてガラじゃねえよ、あいつは。今朝だってニュースみながら、出生率の低下と学習指導要領についてなんか熱烈に語ってた。最近は勉強が大事だといってる高校生が増えてきたとかなんとかいいながら、さりげなくおれにプレッシャーかけてくんだぜ。あんな小学生、どこにもいねえよ」
「一度会ってみたいな」
「それもなんかこわいな。おまえら、気が合いそうだし」
 中途半端にクリスマスな商店街を抜けた。橋がある。川の水音が聞こえる。ここがおれたちの分かれ道だ。おれは、橋を渡る。中屋敷は橋とは反対の方向へいく。土手の上でおれたちはチャリを止め、しゃべる。いつの間にか、日課になっていた。
 土手の下は広く、川縁までの間に、市営のテニスコートや野球場、サッカー場なんかがある。今日は土曜日で、授業は午前中までだ。テニスコートも野球場もすでに使用中だった。サッカー場では、市にいくつかあるサッカークラブの一つが準備を始めている。大きなバッグから、ボールがいくつも転がり出た。
「菊池、サッカーやってた?」
「え?」
「いつも見てるよね」
「そうだっけ」
「サッカー好きなんだね」
「なんでそう思う?」
「だってそういう目でみてる」
 どきりとした。中屋敷のまっすぐな目は、いつでも自分の中にするりと入ってくる。そして、なにもかも掴み出されて、目の前に晒されそうになるのだ。
『大人になろうよ、大人に』
 中屋敷の目は、入学式の日の井上を引きずり出した。
 中学に入ったらサッカー部に入るつもりだった。レギュラーとって、試合にもがんがん出るつもりだった。小学三年から始めたサッカーは、あの日、二度とやらないと決めた。
 いまだからわかる。おれは、仲間だと思っていた井上に裏切られた気がしたんだ。些細な夢みたいな希望みたいなものは、井上の言葉で、簡単に砕け散ってしまった。バカみたいな理由だ。
 井上はサッカー部に入った。三年のときやっとレギュラーになって、夏の県大会で準優勝した。
 サッカー部に入っていたら・・・グラウンドをみるたびに考えた。でもすぐに考えてもしかたがないことに気づいた。だからヘラヘラ笑ってた。
「なんでやめたの?」
 中屋敷が問う。
「べっつにー。部活とか熱血すんの、おれのキャラじゃないし」
 中屋敷の前でも、笑ってみせた。いつもみたいに笑えばいい。どうせおれはバカだ。バカはヘラヘラ笑ってればいいんだ。
「なんで笑うの?」
 中屋敷が額にしわを寄せた。
「なんでって、おかしいじゃん」
「菊池はそうやって笑いながら、いつも苦しそうだよ」
 呼吸を忘れた。中屋敷の言葉が大津波となっておれを掠った。なにもかも飲み込まれて、笑うこともできなかった。
 土手の上を、向こうから犬を連れた人が歩いてきた。おれは中屋敷から視線を外した。
 おじいさんだった。ゆっくり歩くその年老いた人よりも、さらに遅い足並みで、綱に繋がれた白い犬が付いていく。よぼよぼという言葉がぴったりだ。犬は下を向き、息をつく。おじいさんは時折そんな犬を振り返り、立ち止まる。犬がおじいさんの顔を見上げた。おじいさんが小さく声をかける。犬はまた歩き出す。幾度も繰り返す。おれたちのそばを行き過ぎるのに、たっぷり三分はかかった。おじいさんと犬は、土手から離れ、橋を渡っていく。
「ずっと、一緒なんだね」
 主語も目的語もなかったけれど、中屋敷のいいたいことがわかった。長い間、ともに生きていた。人と犬だけれど、そこに確かな繋がりがあった。それがみえた。おれがみたものを、中屋敷もみたのだ。
「うん」
 おれは失っていた言葉を取り戻し、頷いた。
「菊池」
 おれは中屋敷をみた。
「ぼくは、きみと一緒にいたい。これからもずっと。年をとってもずっと。だから、一緒に高校に行かないか」
「は?」
「菊池と同じ高校に行きたいんだ」
「なにいってんだ、おまえ」
「菊池が高校に行くつもりがないって、担任からきいた。でも、ぼくは」
 なにかが引っかかった。
「中屋敷、おまえ、突然、なに言い出すんだよ。おれが高校なんて、いまさらだろ。いい笑いもんになるだけだ」
「突然じゃない。ずっとみてたからわかるんだ。菊池はバカじゃない。なのになんで、バカなフリをするんだ」
「フリじゃなくて、マジなの。授業もつまんないし、つまんないから聞いてないし、聞いてないからいっつも先生に怒られるし、怒られるとなんだか笑いたくなるんだよね。それにみんなもおれがバカやってんのみて、笑ってんだからいいでしょ。こういう役目も必要なんだよ」
「そうやって誤魔化すのはもうやめろよ」
 おれは一歩、中屋敷から退いた。
「なにがいいたい?」
「一緒の高校に行きたい。それだけだ」
 こんな中屋敷の目をどこかでみた。哀れむような、なにかを含む目だ。もうだいぶ前だ。いつだっただろう。記憶を辿る。
 そうか、あのときだ。おれがいつものごとく職員室に呼び出され、担任から長々と説教をくらっていたとき。中屋敷も職員室にいた。こいつは通り過ぎざま、おれをみた。その目と同じだ。そのあと告られたんで、忘れていた。あのとき、こいつがいたのは・・・
 ぞくりとした。
 土手の上を冷たい風が吹き抜ける。それよりももっと冷たい凍り付くような空気が、おれの中を流れた。
「おまえ、頼まれたんじゃないのか」
 中屋敷の表情が、ほんの一瞬、揺れるように崩れた。おれはそれを見逃さなかった。
「おまえ、進路指導の先生んとこにいたよな。それからおれをみた。覚えてるよ、おまえのあの目」
 中屋敷が小さく身じろぐ。
「おれに高校行くように説得してくれって、頼まれたんじゃないのか」
「菊池」
 中屋敷の声は掠れていた。それが答えだと思った。
「だからおれに近づいたのか。ぜんぶ、嘘だったんだな。好きだか告ったことも、ぜんぶそのためだったんだ!」
「違う!」
「違わないだろっ!」
 中屋敷が伸ばしかけた手をびくりと引いた。腹の底が熱い。
 中学に入ってみたら、みんな大人になっていた。大人のフリをしていた。嘘で塗り固めた鎧を着て、にやにやと笑っていた。吐き気がした。そんな嘘が、溜まらなくいやだった。だから紙飛行機を飛ばした。同じ色に染まりたくなかった。みんながなくしたものを、自分はなくしたくなかった。
「おまえもか、中屋敷」
 声はみっともなく震えた。中屋敷はなにもいわなかった。あの哀れみを含んだ目でおれをみていた。身体中の血が沸騰した。
「ふざけんな!」
 中屋敷を殴ることもできず、逃げ出すようにチャリに飛び乗った。ギアがかみ合わなくて、ガチガチと異音をたてた。構わずペダルを踏んだ。
 ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな。何度も叫んだ。きんと冷えた空気が、肺の内側を刺した。喉の奥がぎゅうぎゅうと痛んだ。

 四、

「ちょっと、みっちゃん! 泣きながらご飯食べんの、やめなさい。鬱陶しい!」
 一番上のねえちゃんが、ちゃぶ台をばんと叩いた。
「そんなこといったら、みっちゃんが可哀想よ。辛いことがあったのね」
 二番目のねえちゃんが、おれの頭を撫でる。
「そうやって女が甘やかすから、日本の男はダメになったんだよ、おねえちゃん」
 妹の言葉は今日も容赦がない。
 おれは泣きながら、夕飯に出されたコロッケを必死に頬張った。
「まったくどうしたのさ、みっちゃんは」
「チャリ漕ぎながら泣いてたよ」
「うわ、恥ずかしいやつ」
「いまどきここまで大泣きする中学生なんていないよね」
「みんな、ひどいわよ。泣けるっていうのは、心が健康な証拠なのよ。それに、ちゃんと食べてるし。これなら自殺の心配もないし、大丈夫。明日には元気になってるわ」
「なにげにおねえちゃんのがひどいよ」
 うちの女たちの会話は、幸いなことにほとんど耳に入らなかった。
 おれの涙腺は、家に帰りつく前に、もう壊れていた。後から後から、涙が出た。悔しかった。中屋敷との時間をちょっとでも気にいっていた自分が、だまされていた自分が、悔しかった。あまりにも悔しくて、泣き続けた結果、またもや食事中に眠ってしまったらしい。朝起きたら、そこは自分の部屋の自分の布団の中だったけれど、なぜか右手に箸を握っていた。
 制服を着るまでに、いつもの倍以上、時間がかかった。袖を通した制服は、いつもの十倍、重かった。冬のにおいはしなかった。
 玄関を開けるとき、ほんの一瞬だけ、躊躇った。でもやっぱり中屋敷はいなかった。もし来ていたらと、ほんの少し期待していた自分が、また悔しかった。
「おはよう、菊池」
 校舎の入り口に、中屋敷はいた。おれは中屋敷をみなかった。視線を流した先に、いつも連んでいたやつらがたむろっていた。上履きに履き替えもせず、おれはそっちに向かった。
「ちーすっ」
「みっちゃんじゃん」
「なんだよ、久しぶりじゃん」
「おまえ、中屋敷葉と連んでんじゃなかったのか?」
 おれの少し後ろに、中屋敷が付いてきているのを知っていた。知っていて、おれはいった。
「そんなんじゃねえよ。あいつ別に友だちでもなんでもねえし」
「なあーんだ、最近、すごく仲良しみたいだったからさ、おれたち、忘れられちゃったかもって思ってたさ」
「おまえらのことは忘れらんねえよ」
「なにそれー」
「愛の告白」
 投げキッスをする。
「ぎゃははは」
「キモイー」
 背中を焼くように突き刺さっていた視線が消えた。ぜんぶ、終わった気がした。おれは、また以前のように、へらへらと笑った。

 期末が終わっても、三年生の教室に、開放感は訪れなかった。受験まで、早い者はあと一月、公立を受けるものはあと三ヶ月もない。よりいっそう、緊張が増した。険悪な空気が流れることもあった。そんなとき、おれは紙飛行機を飛ばした。返ってきたばかりの答案だ。点数は限りなく低飛行なのに、紙飛行機は天井付近まで上がり、ゆるゆると円を描いて飛び続けた。数人の男子が真似を始めた。教室は、崩壊した。
 もうギリギリだったんだろう。誰かの敷いたレールの上を、ぎゅうぎゅうに押さえ込まれて進んだかと思うと、無理矢理に進路を変更させられる。そこに自分の意志はない。意志など持ってはいけないのだ。これでいいんだと、自分にも嘘をつき、ただ進むしかない。
 みんなでヘラヘラ笑って、紙飛行機を飛ばした。先生が怒鳴った。おれがふざけて茶化すと、男子がもっと騒いだ。女子は迷惑そうな顔をして、おれたちを睨んでいた。
 中屋敷は、俯いていた。教室の一番前の窓際の席で、顔をあげもせず、ただじっと座っていた。おれの飛ばした飛行機が、中屋敷の背中にあたって墜落した。

「期末終わったしい、どっかで遊ぼうぜ」
「おれんち来いよ、今日、親いねえんだ」
「いくいくー! イブだしオールナイトで語ろうぜ」
「語るってなんだよ。そーいうのは女がやるもんだろ」
「いやいや、語りをバカにしちゃいけないよ、きみ」
「なにいってんだ、こいつ」
「みっちゃんも来るだろ」
 いつもの連中と、ジングルベルの流れる商店街を歩いていた。
「あー、ごめん。おれ、パス。今日、うちでクリスマスパーティやるんだわ」
「なんだ、それー。おまえ小学生かよ」
「おれじゃなくて、小学生の妹がいんだよ」
「いいねいいね、夢があるね。サンタさんが来るのを待ってたりするんだ」
 あの妹に限って、それは絶対にない。断言できる。でもこういうとき年下の家族はダシに使えるから便利だ。
「おれは兄として、妹を喜ばせなきゃならんわけよ。親もいねえしな」
「大変だなぁ。おれ一人っ子だから、よくわからん」
「大変よ? プレゼント買いにいくから、おれ、駅行くわ。じゃあな」
「がんばってー! おにいちゃーん」
「バーカ」
「ぎゃはは」
 プレゼントを買うというのは、嘘ではない。毎年みんなでプレゼントを買い、クリスマスツリーの下に置く。二十五日の朝、みんなで開けるのだ。今年も両親はアフリカからプレゼントを送ってきた。去年のプレゼントは、マサイ族の真っ赤なマントだった。当然、着たことは一度もない。今年も一番上のねえちゃんが仕入れてきたおれの背丈よりも高い生のもみの木の下に、色とりどりの包みがいくつも置かれている。絵に描いたようなクリスマスの風景が菊池家の居間にはあった。そしておれは、そんな風景をわりと楽しんでいた。
 電車に乗り、二つ先で降りた。大きなデパートはここにしかない。ものすごい人だった。ジングルベルだの、赤だの緑だの、賑やかな音と色、そして人いきれで溢れていた。一番上のねえちゃんには、革の手袋を買った。ときには犯人を素手で殴り飛ばすこともあるらしい。革手袋をしていれば拳も強固だ。二番目のねえちゃんには、有名職人が作成した包丁を買った。小降りで軽いが、研ぎ澄まされた光を宿していた。きっと魚肉も美しくさばかれるに違いない。そして妹には六法全書を買った。これは本人からのリクエストだ。本屋でこれをプレゼント包装してもらうのが、ひどく恥ずかしかった。
 六法全書のせいで、ずしりと重くなったカバンを提げて、おれは歩いていた。橋まで来た。もう陽が暮れるというのに、サッカー場では練習が続いていた。ここに来ると、どうしても足が止まる。そして、嫌でも思い出す。まだ思い出にもならないほど鮮明な記憶だ。
『なんでやめたの?』
 井上の言葉は、ただのきっかけに過ぎなかった。あんな言葉に砕かれるほど、おれのサッカーへの情熱も、続ける意志も弱かったのだ。井上なんか、ただの言い訳だ。
『菊池と同じ高校に行きたいんだ』
 県で一番の秀才は、学年でも下から数えた方が断然早いバカなおれにいった。あり得ないだろ、そんなこと。中学入学式のあの日に躓いたまま、おれの時間は止まってしまった。制服が重い。あの色に染まりたくない。なんで中学生になったとたん、変わらなきゃならないんだ。変わる必要があるのか。そんなことばかりに捕らわれて、気づけばもう中三だった。もうどうしようもないところまで来てしまったのに、いまさら受験? しかもあの秀才と同じ高校? おれでなくても笑える。世の中はそんなに甘くないことくらい、はるきじゃなくても知っている。
 キャンキャンと甲高い犬の声がした。
 土手をみやる。小さな白い犬を連れた人が、薄闇の中を歩いている。子犬なんだろう。綱を引っ張って、ぐいぐいと飼い主を引きずるように、やってくる。走りたいのだが、飼い主がそれに付いて来られない、そんな感じだ。犬の輪郭がはっきりとみえた。そしてその先にいた人を、おれは知っていた。
 よぼよぼの老犬を連れたあの老人だった。おじいさんの手に握られた綱は一つ。その先の犬はどうみても子犬で、あの老犬ではなかった。
 その意味を、おれは理解した。
 おじいさんを連れた子犬は、さっさとおれを通り過ぎ、橋へと向かっていく。おじいさんが「こらこら」といいながら、必死でついていく。おじいさんは笑いながら、愛おしそうに子犬の名を呼んだ。おれはおじいさんと子犬の姿がみえなくなるまで、視線を逸らすことができなかった。
 視界が揺れていた。いろんなものがぼやけて、ちゃんとみえない。代わりに浮かんだのは、中屋敷の顔だった。
 まっすぐな目がおれをみていた。冷静で大人びた顔が、ときどきふっと崩れて、笑う。子どもみたいに笑う。教室の中ではあまりみせない中屋敷を、おれはたくさん知っていた。中屋敷の言葉はいつも新鮮で、なぜだかおれの中にすんなりと飛び込んできては、おれの中で火花を散らしたり、すうっと溶けたりした。
『ぼくは、きみと一緒にいたい。これからもずっと。年をとってもずっと。だから、一緒に高校に行かないか』
 おれはあのとき、長年連れ添ったあの老犬とおじいさんのように、おれたちもずっと一緒にいられるんじゃないかと、夢をみた。中屋敷の言葉だから、そう思えた。
 だから、ほんとうは、嬉しかったんだ。好きだといわれたことも、同じ高校へ行こうといわれたことも、ぜんぶぜんぶ、嬉しかった。
 もうあの老いた犬は、いないのだ。
 もう中屋敷は、いないのだ。
 涙が出た。泣いて泣いて、泣きまくった。疲れて土手に座り込み、それでも膝に顔を埋めて、泣いた。
「泣いてるの?」
 声がした。
「菊池、大丈夫?」
 中屋敷だった。本物の中屋敷が、おれと目線を合わせるようにかがみ込む。あのときと同じ声、同じ眼差しでそういった。
 中屋敷がおれの隣に腰を下ろした。おれは逃げなかった。あのときの血のたぎるような熱は、たくさんの涙と一緒に、流れてしまった。
 川はいつも通り、静かに流れていく。ときおり背後を、チャリや犬を連れた人が通り過ぎる。橋の上をヘッドライトをつけた車が、忙しそうに家路へと向かう。
「ごめんね」
 中屋敷がいった。
「なにがだよ」
「先生から頼まれたの、本当なんだ。菊池がなんで高校受験しないのか、聞いてみてくれって。クラスメイトなら話すかもって。だから菊池に問い詰められて、なにもいえなかった。違うんだと、菊池の前でちゃんと否定できなかった。だから、ごめん」
「もう、いいよ」
「よくないよ。ぼくは本気だ。きみと同じ高校へ行きたい。それは変わらない」
 まっすぐな眼差しがおれを捕まえる。どこまでも真剣で、揺るぎもしない。素直で、強い。子どものような眼差しだ。中屋敷は、小学生だったあの頃の率直さを持っている。なにもなくしていない。そういうやつだった。
 自分が探していたものを、中屋敷の中にみつけた。答えはこんなところにあったんだ。
 おれの足はやっと、地についた。そんな気がした。
「菊池に渡そうと思ってたんだけど」
 中屋敷が自分のカバンをごそごそと漁る。中から取りだしたのは、クリスマスカラーの包装紙に包まれた高さ十センチ以上もある分厚いものだ。
「クリスマスプレゼント。前から準備してたんだけど、渡せてよかった」
 重い。
「なに、これ」
「開けてみて」
「二十五日に開けるもんじゃねえの?」
 いつもの習慣で、包みを開けるのを躊躇ってしまう。
「意外に堅いんだね、菊池は。今の世の中、融通効くやつが生き残るんだよ」
「はるきみたいなことゆーな。開ければいいんだろ」
 バリバリと包みを破く。十センチの厚みが、ばらけた。
「参考書と、入学願書?」
 中屋敷の顔をみた。
「一番近い県立だよ。試験日は三月十一日」
「だっておれ」
「菊池はバカじゃない。そんなのみてればわかるよ」
「でも」
「ぼくが教える」
「・・・まだ、間に合うのか?」
「間に合わせるんだよ。きみがどうしたいかだ。菊池はどうしたい?」
 中屋敷が笑っていた。まるで雪が舞い落ちるみたいに、ふわりと笑った。おれはいつまでたっても言葉がみつからなくて、凍える指で、必死に入学願書を握りしめていた。

「なんなんだー! これはっ!」
 二十五日の朝、おれはクリスマスツリーのそばで、叫んだ。家族それぞれからのプレゼントは全部で五つ。そのすべてが、開けても開けても、問題集だった。
「中屋敷くんって子から連絡もらったんだよ。みっちゃんが高校受験するから、みんなで協力してやって欲しいって。これだけ協力してやるんだから、絶対合格しろ」
 一番上のねえちゃんが、おれの背中をバンっと叩いた。
「な、なんだって?」
「あの子、いい子ねぇ。ぼくが必ずみっちゃんを合格させますからって、うちに挨拶まで来たのよ」
 二番目のねえちゃんが、おれのあげた包丁を朝陽にかざしてうっとりと眺めながら、とんでもないことを呟いた。
「どうせ高校行かない理由なんてなかったんだろ、湊は。友人に背中を押されなければ動き出せないところが情けないが、まあいいだろう。ところであの中屋敷というのは、なかなかいいぞ。これからの日本を支えるには、ああいう男子が必要なんだ」
「ちょ、ちょっと待て! なんで中屋敷を知ってんだよ。しかも全員!」
「電話をくれたんだ」
「うちに来たわよ」
「うちの小学校の門で待ち伏せされた」
 三姉妹が口を揃えた。同時に携帯がぶるった。
『みっちゃん、恋人できたんだってー? 中屋敷くんて格好いい? 写メ送って〜』
 がっくりと畳にひれ伏した。
 おれは知らなかったのだ。あいつを甘くみていた。おれのいる周りではぜったいに動かなかったくせに、陰で確実に手を回してやがった! 狡猾で、隙がない。あいつこそ真のストーカーだ。どこが小学生みたいに素直なんだよ・・・おれってマジでバカ?
 中屋敷の笑顔を思い出した。それが急に、悪魔の顔になった。おれはもう取り返しのつかないところに来てしまったのだと、本当に悟った。
「高校なんて、行きたくねえ」
 ぼそりと呟いた本音は、もう誰にも届かなかった。
(了)