けれど、桜はまだ固く小さな蕾のまま。
きんと冷えていない外気は、冬とは呼べないけれど、春でもない。
空は晴れ上がっているのに、なんとなく霞んで見える。
何もかもがゆるみ始めている、そんな中途半端な季節だった。
湊、沙耶、ユウキの三人は、とある街外れの小さな公園を訪れていた。
湊が住処とする事務所のある駅から、電車を二つ乗り換えて約一時間かけて、たどり着いた小さな街だ。
駅から徒歩五分のところに、その公園はあった。
公園入り口の両脇から、奥に長い長方形の周囲を、ぐるりと木々が囲んでいる。
入り口右手側から奥に向かって、ブランコ、滑り台、砂場が並び、左側には、公衆電話、ベンチが二つ、そしてジャングルジムが並んでいた。入り口から真正面、砂場とジャングルジムの間にも、ベンチがある。
左手のベンチでは、数匹の猫が惰眠を貪っている。
長閑な風景。
何の変哲もない、児童公園。
この時点で不審な点といえば、誰もいないことだけだろう。土曜の午後だというのに、遊んでいる子どもの姿は不自然なくらい皆無である。少子化の影響で、街に子どもがいないわけではない。駅からの道々で出会った子どもたちの姿が、それを証明していた。
ただ、誰も、この公園には近づかないのだ。
近隣の住民たちの間に広がる、一つの噂のために・・・
沙耶とユウキの二人は、敷地内に踏み込んだ瞬間に、同時にぴくりと身体を震わせた。
「わかるか?」
二人の背後に立つ湊が問うた。
「はい、あの砂場の奥ですね」
「三本ある桜の樹の一番右端でしょ?」
「はい、正解。よくできました」
沙耶とユウキの返答に、湊は二人の頭をぽんと叩いた。
そのまま二人の間をすり抜けて、右手奥の桜の樹へと歩いて行く。
沙耶とユウキは、明らかに公園の外よりも低い気温に、肌を粟立てながら、湊の後を追った。
件の桜の樹に近づけば近づくほど、腐臭のような匂いが濃くなり、思わず顔をしかめる。
湊はそんな二人には気づかず、長い足でスタスタと歩く。
「零能者っていいよね」
ぽつりと言ったのはユウキだ。お気に入りのジャンパーの袖口で、鼻を被っている。こういう類には、沙耶よりも敏感だ。まだ十歳という年齢も関係しているかもしれないが。
沙耶は、周囲をくるりと見回した。終業式の後、学校から直行したので、制服の上に紺のピーコートを羽織っている。丈の短いスカートから覗く足は、式典用に定められた黒タイツに包まれ、今日は晒されていない。左肩に学校指定のカバンをかけ、右手で、肩口から前に流した黒髪をさわさわと弄っている。怪異と向かい合うとき、無意識に行われる霊力を込める作業だ。その艶やかな黒髪から生まれる黒い矢は、艶を放ちながら的確に怪異を貫く。巫女装束で矢を放つ沙耶の姿は、清涼であり、また優艶でもあった。
「嫌な空気ね。これじゃあ、誰も遊びたがらないわけよね。大人は気づかなくても、子どもは敏感だから」
「じゃあ、あいつが平気なのは、おっさんだからだな」
「ユウキ君たら、目上の人にそんなこと言っちゃだめでしょう?」
沙耶がユウキを窘めながらも、小さく笑みを浮かべた。
「諸君」
湊が足を止めた。
まるで知人を紹介するかのように、湊は片手を上げて問題となっている桜の樹の前に立った。
「これが今日のお相手だ」
芝居がかった身ごなしで湊が示した桜樹は、葉の落ちた細い枝を、弱い風に震わせていた。
隣に立つ他の二本の桜は、すでに多数の蕾をつけているのに、この古木だけは、まるで枯れ木のように見えた。
仕事を依頼してきた御影神道の書類によれば、この桜の樹は、もう何年も花をつけていないということだった。いつから咲かないのか、その時期は正確にはわかっていない。
この桜自体は公園が作られる前からこの場所にあった古木で、昔は、白いに近い薄桃色の花が咲くと、さらりとよい香りがしたそうだ。
だがここ数年、葉は出るのに、一度も花を咲かせたことはなく、付近の住人から警察や自治体にもたらされる、なんだか気味が悪いという訴えが、後を絶たない。
御蔭神道では慢性的な人手不足のため、保留され続けてきたこの依頼が、数年を経て、先日、湊の元へと回ってきた。
書類の上では、ただの怪しい桜の古木の調査だったが、湊は何故かこの依頼書に心を引かれた。
九条湊という人間は、霊力も法力も持たないただの一般人だが、洞察力が人並み以上に優れているようだった。同じ書類を読んでいても、他の人は見つけられない微妙な違和感を察知する。
今回もそうだった。
花一つつけない桜の古木。
春が近づくと、僅かな腐臭がするという。
誰も来ない公園は、いつしか野良猫たちのたまり場となり、やがて一つの噂が人の口に上る。
『あの公園の桜は人を喰らうそうだよ』
実際には、その付近での行方不明者はゼロだったため、御蔭神道も実害は無いものとして今まで保留にしてきた経緯がある。
依頼書を見た時に、湊は確かにナニカを感じた。普通のコピー用紙の上に並ぶ活字が、ナニカを告げていた。
湊は、霊能力でも超能力でもないどこかで、それを感じたのだった。
忘れ去られたような依頼書が、自分のところに来たのは偶然ではないと、湊の直感が告げていた。
「さて、どっちが解決してくれるんだ?」
湊は、目の前にいる二人の能力者を見比べ、煽るような笑みを浮かべた。
「怪異退治をわたしたち二人に競わせる、ということですか? 先生」
沙耶の目は、非難の色を含んで湊に向けられている。
「いいよ、受けて立つよ、おねえちゃん」
ユウキがいたずらっ子の顔で、沙耶に笑いかけた。
「ユウキ君たら、競争してやることじゃないでしょう? 必要なのは協力です。先生も、余計なことを言って煽らないでください。これは仕事なんですから」
沙耶のまっすぐな理念に、湊とユウキは思わず視線を絡ませ、小さく肩をすくめる。
「なんですか? 二人とも」
「相変わらずお堅いね、おまえは。さすが理彩子が箱入りで育てただけはある」
「理彩姉様を悪くいったら先生でも容赦しませんよ」
沙耶の右手が、黒髪に触れる。
「はいはい」
湊が両手を挙げて、降参のポーズを取る。
ふいに、冷たい風が吹いた。
「臭い」
ユウキが鼻を摘む。
「なんだろう、この臭いは」
「あ! 邪気が」
沙耶の声に湊が振り向くと、根本から、濁ったような黄色の気体が、ゆらりと立ち上っていた。
「あれが怪異の正体でしょうか」
煙のようなそれは、太い幹を這い、花でも咲かせるかのように、枝という枝に絡みついた。
やがて、桜樹全体がぼんやりと黄色く染まる。遠くからその光景が見えたとしたら、黄色の花を沢山つけているように見えるかもしれない。
けれどそれは愛でるような花ではなく、臭気を纏いゆらゆらと蠢く怪異だった。
「桜の気を感じます。まるで、桜自体が意識を持っているようです」
沙耶が言った。
「長い年月を隔てると、物が動き出すことがあります」
「付喪神だよね。確かに、桜の化け物って感じだけど、でも、何かが違う気がする」
ユウキが考え込むように、眉根を寄せた。その目は桜に向けられたままだ。
「放ちますか?」
沙耶の指先が長い黒髪に触れる。左手には梓弓が携えられている。
「待って! おねえちゃん!」
ユウキが右上を沙耶の前に突き出し、彼女の動きを止める。
「どうしたの?」
「おねえちゃんの矢なら浄化できるかもしれないけど、そうしたらこの桜の樹が枯れちゃうよ」
沙耶は、黄色い気に包まれた桜を凝視する。
「・・・そうね、気が無くなったら、生命力も失われる。でもこの怪異をどうにかしないと」
能力者二人の強い清気にあてられたのか、桜樹はいよいよその臭気を強く放ち、黄色い気体をざわざわと揺らしている。
さっきまでベンチにいた猫は、いつのまにか姿を消した。
聞こえるのは、怪異の放つざわざわという異音だけ。
「・・・おい、おっさん」
沈黙を破ったのは、ユウキだった。
呼ばれた本人は、能力者たちが手段を講じるその横で、腕を組み、黙って立っていたようだ。
「・・・僕たちには、浄化とか成仏とか、そういうことしかできない」
ユウキの声には、明らかに悔しさが滲んでいた。それを「そうだね」と湊はあっさりと受け流す。
「おっさんなら、どうするんだよ」
歯がゆさと情けなさと屈辱、そんな強い想いを、ユウキはその声音と視線に含ませて、湊にぶつけた。
湊は、ゆっくりと桜樹に近づく。
湊を取り込もうとするかのように、桜の枝がするりと伸びた。
「おっさん!」
その刹那、黒い一線が空を走った。
沙耶が梓弓を構えている。放たれた矢は、枝先だけを器用に掠め、湊から桜の怪異を退けた。
ユウキの口からほっと息が零れる。
湊は、なんの躊躇いもなく桜の根本に屈み込むと、どこに隠し持っていたのか、小さなシャベルを取り出した。
「俺なら、掘る」
「は?」
赤い鉄製のシャベルを手に、湊は根本の土を掘り始めた。
桜樹を被う怪異が、身もだえるように震える。
湊の足元に、直径と深さが三十センチくらい穴が出来たとき、湊の手が止まった。
「なにがあったんですか?」
沙耶が近づき、覗き込もうとする。
「骨だ。人間の指の」
「!」
沙耶とユウキが同時に息を呑む。
「桜の樹の下には屍体が埋まっていた」
朗々と詩を読み上げるような湊の声が、小さな公園に響いた。
初の続きものです。調子にのってます。零能者としての湊が活躍するお話を考えるのは難しいです〜。でもがんばって考えたので、最後までおつきあいいただけると嬉しいです。予定ではあと二話くらいで終わります。たぶん。