ホタル(その1)

2011.06.03(2013.07.10 updated)
 五月の終わりの夜、携帯が鳴った。
「ハロ〜・・・うん? ああ、もうそんな時期か。わかった、行くよ・・・は? なんで、あいつらもなんだよ。・・・はぁ? 俺はあいつらの保護者じゃねえって。あ? ん・・・わかった・・・じゃあな」
 湊は携帯をソファの上にぽいっと投げると、自分も身体を投げ出した。少し前までなら、事務所内で身動きするたびに軽く埃が舞い上がり、時には咳き込んだりもしたものだが、今では塵一つない。部屋の隅まで清浄な空気が漂っている。
 巫女や坊主が頻繁に出入りするようになったからではない。ここには掃除魔という魔物が出没するからだ。住人がいくら散らかしても、片っ端から片付けられてしまう。
 妖怪ならば追い出す方法などいくらでもあろうが、その妖魔は湊と同じ人間、しかも女子高生だ。妖怪よりもたちが悪いと、湊は常々思っているのだが、それは沙耶も同じだった。
 一晩もすると書類や本や競馬新聞、空き瓶や空き缶、紙くずや汚れた皿やカップなどがあたりを埋め尽くす。どうしたらたった一晩でここまで散らかせるのか、沙耶にはさっぱりわからない。
 翌日、惨状とも呼ぶべき状態を目の当たりにした沙耶は小言を振りまきながら懲りもせず片付ける。
 もはや掃除魔と散らかし魔の根比べだ。どちらも絶対に折れそうにない性格の持ち主であるため、沙耶がこの事務所に出入りする限り、戦いはずっと続くだろう。
 そんな二人の応酬を面白くない顔で見ているのは、この事務所のもう一人の居候、ユウキ少年だ。
 彼は今、夕食の後片付けをしている。「ユウキ君、後、お願いね」と沙耶に笑顔で頼まれれば、健全なる青少年として答えは「イエス」か「はい」のどちらかしかない。
 キッチンから視線を移せば、夕食を終えたばかりの湊がいつものようにソファに寝転がり、読みかけのままテーブルに伏せて置いた文庫本を広げたところだった。
「今の電話、誰?」
 湊の携帯は、普段、ほとんど鳴らない。連絡があるとすれば、孝元か理彩子か沙耶くらいだ。仕事がらみの着メロとは違う着メロに、ユウキの興味が素直に反応したようだ。
 これだからガキは・・・という言葉を湊は飲み込む。一日の終わりの寛ぎの時間に入った今、暴言を浴びせることさえも億劫だったのだ。
「アル」
 湊は本から視線をあげることさえしない。
「もしかして、アルフレッドさん? あの庭師の? ド金髪の外人のくせに、今どき日本人の庭師でも履かないあの股引の人?」
 ユウキの着眼ポイントに、湊は笑いを漏らさずにはいられなかった。
 金髪に緑の瞳、長い睫。
 白い肌に長い手足。
 どこからみても西洋人のアルフレッドだが、その職業は庭師だ。ガーデニングのように英国のバラの匂いがしそうな優雅なものではなく、いわゆる日本庭園をガッツリ造るタイプの方。アルの師匠は都内の名だたる庭園に手をいれてきた業界では有名な職人で、今ではもう珍しい、脚絆、腹掛け、股引、手甲に地下足袋という伝統スタイルを頑なに守っている。師匠のようにありたいというアルもまた、長身用に特注した衣装を好んで身につけていた。
 春先に湊が引き受けた桜の怪異の件で、ユウキはアルを知った。
 桜の根元に埋められた死体のせいで、怪異となってしまった老木を解放する仕事だった。湊が怪異の原因を特定し、沙耶とユウキで除霊した。警察が遺体を持って行った後、無残にも掘り返されぽかりと開いたままの老木の根元を、わざわざ土を持ってきて丁寧に処理したのがアルフレッドだった。
 新しく綺麗な土を得て、これまで何年にもわたって花を付けなかったその老木が、一瞬のうちに蕾を膨らませ、その切っ先が見る間にほころびて満開となったその光景は、そこにいた全員を飲み込んで圧倒した。
 この老桜の化身であるあやかしの力だった。
 その最期の花の下で、アルフレッド手製の桜餅を頬張りながら、みんなで花見をしたのだ。
 その一件のとき、ユウキは気づいた。
 アルフレッドがただの庭師ではないということを。
 あの人はたぶん・・・
「他に股引き履いた英国人がどこにいる?」
 妖しいまでに咲き誇る桜を、労るような眼差しで見つめていたアルフレッドの横顔が、湊のふてぶてしい声に掻き消される。
 普段なら面倒くさいので、あまり突っ込まないのだが、あの庭師には興味があった。
「アルフレッドさんと、どっか行くの?」
「行くよ」
「どこへ?」
「・・・蛍狩りだ」
 あの湊がすんなり教えてくれるはずもないと、ほとんど期待はせずに発した問いに、ほんの少し間を置いて返ってきた答えにユウキが「え?」と声を上げる。
「蛍? どこにいるの?! 僕、見たことない!」
 猫のイラストが可愛らしいエプロン(もちろん孝元がユウキのために用意したものだ)を身につけ、拭きかけの皿を胸に抱いたまま、蛍という言葉にユウキの目が輝く。
 本物の蛍を見たことのない者は、昨今大人でも多いだろう。人が住むような場所にはもう蛍は生息していないからだ。今や、高級ホテルや旅館などに余所で捕まえてきた蛍を放ち、蛍狩りを楽しむ時代になっている。
 総本山の期待の星、怪異相手には特別な力を発揮するユウキだが、その本質は普通の子どもとなんら変わらない。興味津々、目がらんらんだ。
「明日、夕方出るから。沙耶にも連絡しておいてくれ」
 湊の言葉に、皿を抱えたままのユウキが困ったような顔をしてみせた。
「一緒に行っても、いいの・・・?」
 思わず遠慮がちに確認してしまう。
 あの湊が蛍狩りに連れて行ってくれるというのだ。
 即座に信じられるわけがない。
「なんだ? その不審なそうな目は。まるで俺がいつもおまえたちを邪険に扱っているみたいじゃないか」
「邪険に扱われてない時があったのなら、それがいつだったのか教えて欲しいんだけど?」
「おいおい、おまえ、大丈夫か?」
「何が」
「だんだん理彩子に似てきたぞ? 自覚ないのか? 重傷だな。悩みがあるなら、三つだけ聞いてやってもいいぞ」
「はあ? なに言ってんの、オッサン」
 湊に対して、ほんの少しでも遠慮してしまった自分が馬鹿だったのだと、ユウキはさっさと食事の後片付けに戻った。
 さっきの蛍云々も、からかわれただけなのだろう。
 拭いた皿をキッチン横の作り付けの棚にしまうときも、カトラリーをマグカップに突っ込むときも、気が立っていたせいでガチャガチャと騒々しい音がしたが構わずにいた。
 最後にふきんをキッチンの台に投げつけると、冷蔵庫からペットボトルの水を一本取り出して、さっさと自分の部屋へと向かう。
「アルが連れてこいってさ」
 湊の面倒くさそうな声が、ふて腐れたユウキ少年を呼び止めた。
「俺はどうでもいいんだ。蛍なんて、別に興味もない。あいつがうるさいだけだからな」
 振り向けば、読んでいた文庫本を机の上に放り投げ、ソファの背もたれの方へと寝返りを打つところだった。
 ユウキの顔がぱっと明るくなる。
「沙耶おねえちゃんに連絡する!」
「そっちの部屋行くなら、ここの電気、消してくれ」
「すっごい楽しみ!」
 寝室に使っている部屋に駆け込んでいく。
「おい! 電気!」
 もう湊の声など届かない。少しの間の後、すぐに話し声が漏れてきた。ユウキの声が楽しそうに弾んでいる。
 ふいに閉じていた戸が開いて、ユウキが顔を覗かせた。
「何時に出るの?」
 いつもなら、おい、おっさん、とくるのに、げんきんなヤツだ。
 苦笑を隠しながら、「五時」と短く返事をする。
「おねえちゃん、五時だって・・・うん・・・それでね」
 湊は、遠足を引率する先生になった気分で、やれやれと息を吐き出した。
 蛍か・・・
 アルから電話が来るまで、そういう時期なのだと忘れていた。
 そっと瞼を閉じた湊の脳裏に、小さな光が一つ、灯る。
 ゆっくりと明滅を繰り返す、金色の焔。
 一つ、二つ、三つ・・・
 気づけば、視界いっぱいに光が散っていた。
 まるで銀河のように、冷たい火を孕み流れる光の川。
 ふいに、一匹の蛍が群れを離脱する。
 その光が長身の男の周囲を軽やかに舞う。
 まるで、その男に何かを語りかけているかのように。
 親しげに。
 睦まじく。
 そして、男の長い金の髪で、一時、羽を休める。
 男の横顔に、綿菓子のような甘い笑みが浮かんだ。
 湊は、その笑顔から顔を背けるように、閉じていた瞼を押し開いた。
 蛍が見せた幻影は、ちりちりと皮膚が焦げるような痛みを遺して掻き消える。
 そこは、逢魔の淵。
 魔物に呼ばれた者たちが、集う場所。
 その出会いの結末は、六月が来るたびに湊を打ちのめす。
 自分の力のなさの結果だった。
 所詮、自分は、総本山や御蔭神道の力がなければ、すべてを解決することはできない。
 それは今でも変わっていない。
 この事務所に出入りする沙耶やユウキがその証拠だ。
 ソファから仰いだ窓の外は、雨が静かに降り出していた。
また続き物です。しばらくお付き合い下さい。その2からは、アルと湊が出会った過去編に入ります。オリキャラですが、お楽しみいただけたら幸いです。