ホタル(その2)

2011.06.08(2013.07.10 updated)
 そのとき彼は、泣いていた。
 草むらに仰向けに転がって、薄桃色に染まる夕暮れの空が見えているのかいないのか、草原のような色の瞳が霞むほどに涙を浮かべていた。
 知らなければ見過ごしてしまいそうなほどの小さな清流。流れを隠す厚い草むらが、むせ返るような匂いを発するその側で、白いシャツにジーンズ姿のラフな格好の外国人男性が、人目も憚らず泣いている。
 男を見て、すぐにわかった。
 この場所が、間違いなく「現場」であること。
 そして、この男が次の被食者であること。
 無防備に投げ出されているその腕には、見紛うことのない朱い印があった。猫が引っ掻いたような三本の短いラインは、あやかしが得物として狙った相手につけた印だ。霊能力がなくても、はっきりと見ることができる。
 うかうかとこんなもん、つけられやがって・・・
 今回の仕事は、孝元も理彩子もいない。二人とも所属している組織の仕事に追われていて、しばらく手が離せないという。まだ学生の身である自分だけが暇だったのと、依頼書の内容に興味もあったから引き受けた。すべてを自分で片付けられるかどうかはわからなかったが、様子見だけでもしておくか、くらいなノリだったのだが。
 厄介なことになってるな・・・
 印をつけられたが最後、数日以内に必ず狩られる。
 獲物に印をつけるこの手の怪異の場合、特定の場所に縛られているものが多い。
 人や動物、他の怪異を喰らい十分な力を得ると、自分を縛る場から逃れることができる。一度自由になれば最後、獲物は狩り放題だ。故に、その手段はえげつない。大抵は獲物を誘い込む囮を用意する。
 そうして囮に引っかかった者に、獲物としての印をつけるのだ。
 印を付けられた者は、無意識のうちに怪異の力によって場に引き寄せられる。その引力は次第に増していく。印は獲物を喰らうまでの時限爆弾のようなものだ。徐々に赤味を増していく。あの様子では残された時間は余りないだろう。逢魔が時と呼ばれるこんな時間に、ここにいるのが証拠だ。
 どんなエサにひっかかったんだか・・・
 湊は軽く舌を打った。
 孝元たちの手が空くのを待っている猶予はなさそうだった。自分だけの力でどうにかしなければならない。しかし、湊は彼らのような異能者ではない。あるのは知識と機転と身体一つだけだ。
 湊は面倒くさいという言葉を飲み込んで、やや伸びすぎた髪にくしゃっと指を入れる。
 そんな湊の苛つきを察したのか、足元にいたバッタが草を蹴って飛び立った。
 ようやく湊の気配に気づいた男が、顔だけを上げて湊を見た。その眦から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
 男は、零れた涙を拭うこともせず、上半身を起こした。耳につけていた白いイヤフォンが外れて落ちる。男のすぐ脇の雑草の中で、赤いiPodの画面が小さな光を放っている。
 湊は男の斜め後ろに立ったまま、身動き一つせず、男を観察していた。
 金髪緑目。長めの髪を後ろでゆるく一つにまとめている。年齢は自分と同年代か少し上。手足が長い。長身のようだ。
「邪魔した?」
 元来、こういう場面で動じるような性格ではない。どちらかというと不貞不貞しいくらいだったから、可愛らしい少女が泣いていようが、二十歳を超えていると思われる金髪の外国人男子、しかも大男が泣いていようが、お構いなしだった。
 自分を見下ろしている湊の言葉に、男は小さく首を横に振って答えた。
 どうやら日本語は通じているようだ。
 湊は遠慮無く、男の隣に腰を下ろした。
「アンタ、こんなとこで何やってんの?」
 唐突に問う無礼な湊だったが、男も動じていないようだ。
「ヒトを、まっています」
 少し辿々しい日本語だった。
「誰?」
「・・・おんなのこ」
 男は少し躊躇ってから、そう答えた。
「それって、人間?」
 男の緑の目が大きく見開いた。
 男は、いま初めて目の前の人間に本気で意識を向けた。
 静かな川辺に唐突に飛び込んできた乱入者は、まだ十代のあどけなさを持つ青年だった。伸びすぎた髪が、頭部のあちこちで飛び跳ねている。平日のまだ明るい時間に、黒いTシャツにジーンズという普段着で、こんな田舎にいるということは、大学生だろうか。学校をサボっている高校生でも十分通りそうだ。
 そして、男の意識を彼へと向かわせた言葉。
 それって、人間?
 彼はそう問うた。
 まっすぐに男を見る漆黒の瞳が、見透かすように語り出す。
 知っているよ。
 お前が待っているのは、お前が心奪われたのは人間じゃない。
 そいつは・・・
 青年の声なき声から逃れたい一心で、口を開いた。
「キミは、だれ?」
 名前や年齢ではなく、一体、何者なのか、という意味を込めて男は問うた。
「九条湊。そこの川に住んでる妖怪を退治しに来た」
 男の顔色が変わった。
 元もと白い肌から、血の気が引いて、文字通り青くなる。
 そのときだ。
「どうして、ここにいるのっ!」
 悲鳴のような高い声があがった。
 湊と男の視線が、声のする方へ同時に向く。二人が座っている草むらより少し上流、淵のほとりに一人の少女が立っていた。さっきまでそこには誰もいなかったことを、湊も男もよく知っていた。
 ノースリーブのワンピースから、細い腕と足が覗いている。靴は履いていない。左の足首に、細い蔦が巻き付いており、その先は流れの中に消えている。まるで少女を繋ぎ止める足枷のように見えた。
 湊の目が細まる。
 こいつが、エサか。
「もう来ないでって言ったのにっ!」
 少女が叫ぶ。
 震える声さえも、容姿に劣らず可憐だった。
 湊は少女を注意深く観察した。
 白磁のように透明感のある白い肌が、夕暮れの空を映して薄い桜色に染まっている。髪は緑がかった漆黒で、短く襟足のあたりで切り揃えられており、あどけない顔の造作を浮き彫りにしている。細い身体を包むワンピースは、肩から裾にかけて、白から薄い紫色へとグラデーションがかかり、まるでスミレの花びらのようだった。
 衣服の裾と同じスミレ色の瞳が、アルフレッドを捉えたままじわりと潤んでいく。
「シオン! ぼくはっ!」
「帰って! もう来ないでっ!」
 少女は男に背を向け、白く細い腕で顔を覆った。
「シオン!」
 男は突然、少女の元へと駆け出した。待てと止める間もなかった。
「来ちゃいけませんっ! 来ないで!」
 少女が叫ぶ。
 その刹那、辺り一帯を包む空気全体が、ずんと重さを増した。
 湊は少女が立つ辺りの流れに視線を移した。
 緩やかだった水面が荒々しいしぶきを上げながら盛り上がってくる。それはそのまま、腕のような形をつくり、男へと伸びていった。
「おい! その女に近づくなっ!」
 湊が草を蹴った。
 男は湊の制止を無視して走り続ける。
 少女が叫ぶ。
 盛り上がった水から鋭い爪が剥き出しになり、まっすぐに男へと向かっていく。
 湊の目には、そのすべてがスローモーションのように映っていた。
 間に合え!
 普段はあまり使わない筋肉のすべてを酷使して、湊は走った。蒸し暑い空気が、湊を遮るようにねっとりと絡みついてくる。踏みつけた青草が千切れて強い匂いを発する。
 水から伸びた鋭い爪が男を捉えようとした瞬間、男の身体に指先が届いた。後ろから抱くようにタックルで動きを止める。
 湊の右腕に熱い痛みが走った。
 ドサッ
 二人は淵から離れた草むらへ転がった。
 湊はすぐに身体を起こし、怪異へと向き合う。身を守るものはなど何もなかったが、咄嗟に男の身体を背後に庇うようにして立った。
 獲物を失った怪異の腕が荒々しく蠢いていたが、やがて獣の咆哮に似た笑い声を残し、その姿が崩れ落ちた。命を失い、ただの水の固まりとなった腕が、飛沫を上げて清流に戻っていく。
「アル・・・」
 男の名を呼ぶ少女のか細い声に湊が視線を向けると、少女の姿は空気に溶け込むように消えていくところだった。
 鉛のように重かった空気が、急に解けた。
 爽やかな夕暮れの風が草木を揺らし、思い出したように蛙が唄い始める。
 湊はまだ肩で息をしたまま、男を振り返った。
「おい、大丈夫か」
 男は青い顔のまま、その場に硬直していた。
 正体不明の怪異にいきなり襲われれば、誰もがそういう顔をするだろうという表情だ。しかし男が見ていたのは、怪異の現れた淵ではなく、少女が消えた場所でもなかった。
「ち・・・」
 湊の右腕を伝う紅い血の流れを見ていた。
 怪異の鋭い爪が湊の右肩から腕の中程までを切り裂いていた。三本の紅い筋から血が流れ、だらんと下げたままの指先から、ポタポタと落ちる。
「ち、ダメ・・・」
「は?」
 男はそれだけ言い残すと、バッタリと仰向けに倒れ込む。
「おい、ちょっと待て」
 金色の髪を草むらに散らして、男は意識を失った。
 倒れたいのは俺の方だ。
 湊は、未だ血の流れ続ける腕をそのままに、はあ〜と深い溜息をついた。
湊とアルの出会い編です。湊は、高校三年生か大学一年生くらいの設定です。この頃は、孝元さんや理彩子さんたちと仕事していました。この出会い編しばらく続きます。おつきあいください。
その3を書くときに、少し内容を修正しました。(2011.06.29)