ホタル(その3)

2011.06.29(2013.07.10 updated)
「アルフレッド・グレイ?」
 血を見て目を回した金髪の青年は、自分の名を呼ぶ声で目を覚ました。
 アルフレッドの目に最初に飛び込んできたのは、昭和の匂いがぷんぷんする旧式の街路灯の弱い灯りだった。
「ここまで引きずってくるの、大変だったんだけど?」
 アルフレッドはのろのろと身体を起こし、周囲を見回した。
 自分の右隣には、九条湊と名乗った青年が、不機嫌そうな顔でしゃがみ込んでいる。
 その手で玩ばれているのは、自分の赤いiPodだ。裏に名前を刻印してもらっている。湊はそれを読んだのだろう。
 すでに陽は落ちていて辺りは暗い。前方にあるはずの淵の付近は、特に深い闇が立ちこめていて何も見えなかった。
 怪異の姿もなければ、シオンもいない。そこに川があることすらわからないくらいの闇だった。
 目を凝らしていると、暗闇の中から自分を襲ったかぎ爪が伸びてくるような錯覚を起こして、アルフレッドはぞくりと震えた。
 あれは、なんだったのだろう。
 あれも、シオンと同じ類のものなのだろうか。
 青年は妖怪を退治しに来たと言った。
 この青年の目的は一体・・・
 思いを巡らし、ふっと溜息をついたとき、背中があちこち痛いことに気づいた。
 肩越しに見てみると、白いシャツの背中は、草や泥で汚れていた。湊の言葉通り、引きずられたようだ。その際、小石や枝などで背中を引っ掻いたのだろう。
 ずいぶん乱暴に運ばれたものだと、普通の者なら怒るかもしれない状況だったが、この青年は余り普通ではなかった。
「ありがとうございました」
 自分を助けてくれた湊に向かって、丁寧に頭を下げる。
 その際、ちらりと湊の右腕に視線を走らせる。黒いTシャツの一部が裂けていて、傷口が垣間見えた。まだ血が流れている。なるたけ直視しないよう視線を逸らせながら、おずおずと口を開く。
「あの・・・傷が・・・」
「アンタん家、近く?」
 心配そうに伺うアルフレッドに、湊はむすっとした顔のまま、短く問うた。



「アンタ、英国人?」
 アルフレッドの下宿先で、消毒薬と包帯を借りた湊は、六畳一間の和室で、自分で傷の手当をしていた。
 肩から二の腕まで、十センチほどを怪異の鋭い爪に引き裂かれていたが、出血のわりに傷は浅かった。
 血は止まっていたが、三本爪の痕が火傷を負ったように赤くただれていた。
 薬を塗っても、ジリジリと焼け付くような痛みが続く。
 この傷は、普通の薬では治療は不可能なのだ。市販の消毒薬など、ただの気休めにしかならない。総本山や御蔭神道の者ならどうにかなるだろうが、やつらにお願いするのも気が進まなかった。
「これで俺も獲物ってわけだ」
 湊は、面倒くさそうに大きな溜息をついた。
「どういう、いみですか?」
 極力、傷を直視しないように視線を逸らせていたアルフレッドが、恐る恐る湊へと身体を向けた。
「アンタと同じ」
 湊は傷を負っていない左手を伸ばし、アルフレッドの右腕を乱暴に掴む。
 腕の内側には赤い筋が三本走っている。湊のものより薄く、猫に引っかかれたような傷跡だ。
「これ、あそこでやられたんだろう?」
「ちがう! こ、これは、あんなアクマじゃなくて・・・」
 さっきの怪異の仕業ではないと否定しようとしているのだろうが、歯切れが悪い。
 湊は眉根を寄せ、アルフレッドの腕を握る指に力を込めた。
「あの女?」
 上目遣いに睨みつける湊の眼光に、アルフレッドがたじろぐ。
「・・・はじめてあったとき、ぐあいがわるそうで・・・たおれてきて、えだとかくさでひっかいたのだと・・・」
 アルフレッドの日本語は文法的には問題はないが発音がへたくそで、湊には子どもがひらがなばかりの本を読んでいるようにしか聞こえなかったが、言いたいことは理解できた。
「思ってたわけね。めでたいな」
 まるで物を放り投げるかのような素振りで、湊は掴んだ腕を放した。白く長い腕が力なくパタリと畳の上に落ちる。
「はっきり言うよ。アンタも俺も、あの淵に住む怪異、アンタが悪魔って呼ぶアレに狙われてんの。獲物として」
「えものって?」
 アルフレッドは、言葉の意味がわからなというように、不安げに湊の言葉を繰り返す。
「意味がわからないなら、辞書を引け。単語の意味を一々教えてやるほど、俺はお人好しじゃない」
 湊は小さな部屋の隅に寄せられた卓袱台の上を指差した。分厚い本は辞書だろう。
 アルフレッドは畳の上を四つん這いで包むと、長い腕を伸ばして辞書を取った。
「えもの・・・prey」
 あっと声を上げる。
 湊は男が意味を理解したのを受けて、言葉を続けた。
「それから、あの女、アンタがシオンって呼んでた子、あれはエサだ」
「えさ?」
「人間をおびき寄せるためのエサ。アンタはまんまと怪異の蒔いたエサに釣られて、獲物としての印をつけられたってわけだ。この傷がある限り、アンタはあの淵へと呼び寄せられる。怪異に喰われるまで、何度でも。そして、この傷は治らない」
 湊は破れた袖を捲ってみせた。真っ白い包帯が露わになる。
 アルフレッドが目を見開く。
「アレを倒すまでは」
「倒すって、シオンもですかっ?!」
 男の心情など構っていられるかと、男を追い詰めるような言葉を続ける。
 殺さなければ、殺される。
 今の自分たちはそういう立場なのだ。
「アンタ、あの女が人間じゃないってことは、気づいてたんだろう?」
 アルフレッドの肩がびくりと震え、緑の瞳が湊から逃げていく。
 顔や態度でモロわかりだが、湊は追っ手をかけるように止めを刺す。
「知らなかった、なんて言わせない」
「あ・・・あの、シオンは」
「俺なら殺す」
 六畳の質素な部屋に、湊の声が低く響いた。
遅くなってしまってすみません。やっとその3です。湊、ちょっと冷たいです。こういう湊も好きです〜。次のその4は、アルとシオンの出会い編です。