ホタル(その4)

2012.01.09(2013.07.10 updated)
 下宿先からすぐのその場所を訪れたのは、春先のことだった。
 その辺り一帯は、田園風景が広がり、まだ水を引いていない枯れた田んぼが広がっている。市内を流れる川を挟んだ土手沿いの桜がちょうど見頃を迎え、平日とはいえ多くの人々が満開の様を楽しんでいた。
 土手を離れ、田の畦道を歩いていたときだ。
 小さく聞こえてくるせせらぎの音に誘われて、草を掻き分けた先に清流を見つけた。この辺りにはいくつもの用水路が走っている。小川は、コンクリートで整備される前の、昔使われた用水路の名残らしかった。
 忘れ去られた場所。
 そんな形容が相応しい。
 水は透明で、水草が豊かに茂り、まだ冷たさの残る流れにたゆたっていた。
 小さな魚が、時折、銀色の腹を春の陽光に煌めかせるその瞬きを、一つ、二つとのんびり数える。
「きゃっ」
 悲鳴とともに、何かが草の上に倒れ込む音が聞こえた。
 反射的に顔をあげて声の主を捜すと、少し上流の草むらに、少女が一人、蹲っていた。
「だいじょうぶ?」
 駆け寄って手を差し伸べると、少女がゆっくりと顔をあげる。
「あ・・・」
 見たこともない色を持った双眸が自分を捉えた。
 薄桃色から紫に変わる寸前の、不思議な色合いの瞳。
 それは、ゆっくりと暮れてゆく空のような色だった。
 魂を引き込まれそうな気がして、アルフレッドは思わず瞬きを繰り返した。
 妖精だ。
 そう思った。
 触れるのを躊躇われるほどの白く透き通った肌。
 みどりの黒髪が一束、乱れて頬に張りつく。
 薄桃色の唇が半ば開いた状態で濡れて。
 纏ったドレスはまるで花びらのように淡い。
 まるで、妖精そのもの。
 そう。
 これは、人ではない。
 直感でそう思った。
 アルフレッドの中に流れる血が、そう教えてくれた。
 グレイ家には、人外の存在を感じることができる者が時折、現れる。
 アルフレッドの祖母がそうだった。
 古く暗い城に住まう厳格な祖母。
『関わりを持ってはなりません』
 自分と同じように人外の存在を見ることのできるアルフレッドに、祖母は厳しく言い聞かせた。
『私たちには何もできないのですから』
『じゃあ、なんで見えるのですか? おばあさま』
 そう問うたアルフレッドに、祖母は一瞬だけ眉をひそめたけれど、すぐにいつもの厳しい表情に戻って、キッパリとした口調で答えた。
『それは誰にもわからないのです。理由などないのかもしれません』
『でもそこにいるのに』
『心を奪われてはなりません。たとえ何が見えたとしても、そこには何もないと思いなさい』
 祖母は、それらの存在に対して、固く心を閉ざしていた。怖れているわけではなかった。存在しないものとして、それらを自分の世界から閉め出していた。
 幼いアルフレッドには、祖母が彼らを嫌っているように思えた。なぜそこまで厭うのか、アルフレッドには理解できなかった。
 祖母はその存命中、常にアルフレッドをそばに置いた。まるで見張っているようでもあった。アルフレッドの気が少しでもそれらに向くと、ひどく叱った。そんな生活が息苦しくてたまらなかった。
 その祖母もアルフレッドが九歳のときに亡くなった。
 祖母の監視の目がなくなって、アルフレッドは自分のすぐそばにいる人外の存在に、のめり込むように関わっていった。
 結果、良いこともあったし、痛い経験もした。
 何故、祖母が関わらないようにしてきたのか、その理由も、心身の成長と経験の積み重ねとともに理解できるようになった。
 けれど、祖母のようにそれらを見えない振りをしようとは思わなかった。
 逆に、自分たちにはない力を持つ闇の住人たちに、アルフレッドはいつしか憧憬の念さえ抱くようになっていた。
 母国から遠く離れたこの異国の地でも、彼らはそこかしこに存在した。国が違えば人種が違うように、日本では母国とはまた違うものたちがいた。母国よりもその遭遇率は高かった。
 けれど通常、それらのものたちは闇の中で蠢き、日中から人の目につくような場所に現れることはない。
 こんな風に、明るく柔らかな日差しの中で、しかも少女の姿をしたものを見るのは初めてだった。
 瞬きを忘れて、目の前の少女に見入った。
 スミレ色の瞳が、ほんの一瞬の間にアルフレッドの一部を奪っていくのが自覚できた。
『関わってはなりません』
 祖母の声が響いた。
 けれど、今、目の前にいるこの儚げな妖精を、見て見ぬ振りはできなかった。
「だいじょうぶ? たてますか?」
 少女に問いかける声が僅かに震えた。
 腕を貸し、立ち上がらせようとした少女の身体が、何かに躓いたかのようにカクンと傾いた。
「あ」
 咄嗟に腕を伸ばした。
 アルフレッドの指先に触れたのは、ひやりとした感触。
 想像していなかった冷たさに僅かに怯んだ結果、二人とも草むらへと倒れ込んでいた。
「ごめんなさい。ケガはない?」
 アルフレッドはすぐに少女を抱き起こすと、少女はこくんと頷いた。
 肩につかないくらいの黒髪がさらりと清らかな音をたてる。
 小川の淵のそばで二人、座ったまま向かい合う。
 正面から向き合ってみると、少女の服はまだ肌寒いというのにノースリーブのワンピースだった。露わになっている細く白い肩が寒そうで、アルフレッドは自分がきていたパーカーを脱いで少女に羽織らせた。
「まださむいです」
 アルフレッドの大きなパーカーに上半身をすっぽりとくるまれた少女が、無表情のまま彼を見上げる。
 なんの感情もないその顔にさえ、アルフレッドの心音が乱れる。
 ふいに少女が細い腕をあげた。
 アルフレッドの方へと伸び、その右腕に触れる。
「っつ」
 ピリリとした痛みが、皮膚の上を走った。
 少女が触れている箇所に、小さなひっかき傷が一筋ついていた。倒れ込むときに、草で切ったのだろうと思った。
 その傷を、少女の冷たい指先が撫でている。
 心配してくれているのだろうか。
 アルフレッドの中には、少女への警戒心など、微塵も湧いてこなかった。
 少なからず痛い目にあった経験から、軽々しく接触をすることはなかったはずなのに、アルフレッドには、目の前の少女が人間の理解の及ばぬ怖ろしい存在だとは思えなかった。
「だいじょうぶです。ちょっときっただけだから。しんぱいしてくれてありがとうございます」
 安心させたくて、アルフレッドが緑の目を細めて笑顔をつくると、少女は急に手を引っ込めて俯いた。
 その眉が僅かに寄せられて、どこかが痛むような表情を作る。
「どうしたの?」
 少女は俯いたままふるふると首を横に振った。
「どこかいたいですか?」
 アルフレッドのパーカーをぎゅっと握りしめたまま、黒髪がさらさらと揺れる。
「ぼくはダイジョウブです」
 アルフレッドの大きな手のひらが少女の頭をそっと撫でる。
 少女がびくんと顔をあげた。
 スミレ色の瞳が、アルフレッドを誘うように潤む。
 その色がふいにすっと薄くなった。
「え・・・?」
 少女の身体が空気に溶け込むように透明度を増していく。
 少女の頭にあったはずの右手がぽとりと落ちる。
「あっ! まって!」
 咄嗟に叫んでいた。
 けれど、少女の姿はもうどこにもなかった。
 アルフレッドのパーカーがくしゃりと草の上に落ちる。
「・・・ごめんなさい・・・」
 風が囁くような少女の声がアルフレッドの耳に絡みつくように残った。



「そのときは筋一本で、会う度に増えてったってわけね」
 畳の上に寝転がっていた湊が、突然、口を開いた。
 アルフレッドの話など、まるで興味なさそうな様子で、始終、携帯を弄っていた湊だが、一応、話は聞いていたようだ。
 そんな湊から視線を移して、アルフレッドは自分の右腕のひっかき傷にそっと触れてみた。
 初めてシオンに会ったあの日から、何かに憑かれたかのように、あの水辺へと足を向けた。
 誰もいない水辺を見ていると、しばらくして、ふいに気配が生じる。近づいてくるのではなく、いきなりふっと現れる。
 初めて会ったときと同じ場所に、スミレの花のようなグラデーションのワンピースを着て。
 少女は姿を現す。
 白く細い身体。
 みどりの黒髪。
 すみれ色の瞳。
 いつも悲しそうな顔でアルフレッドを見つめる少女。
 シオン。
 その名を知ることができたのは、最初の出会いから一月が経った頃だった。
 いつも話をするのはアルフレッドばかりで、シオンは黙ったままスミレの瞳に済まなそうな色を浮かべているばかりだった。
 笑顔が見たい。
 そう思った。
 慣れない日本語と格闘しながら、アルフレッドは自分の見聞きしたことをシオンに伝えた。
 シオンが笑顔を見せるようになった頃、気づけば、右腕の傷が二本に増えていた。
 筋が三本目に増えたのは、先週のこと。
『もうここに来てはだめ。二度と、来ないでください』
 アルフレッドに言葉を発する間も与えず、その細い姿は淵を覆う緑の中へとかき消えた。
 それでも、通い続けた。
 時間を見つけては、毎日、毎日。
 日ごと緑に包まれていくその淵は、春から初夏への季節の移り変わりを告げるだけで、彼の名を呼んでくれることはなかった。
 ただ風が若葉を揺らし、鳥が羽ばたき、水が豊かに流れるだけだった。
 忘れられた静かな場所。
 おそらく彼女はここにいる。
 ここに住んでいる。
 それなのに。
 自分の目は彼女の姿を見ることはできない。
 自分の耳は彼女の声を聞くことはできない。
 少女と自分は違う世界に生きている。
 それは、人間には決して立ち入ることのできない世界だ。
 木々や草花、虫や鳥、水に住む魚、そんなものたちに近い存在。
 幼い頃から憧れて止まない世界。
 ただ無視するだけの祖母のようにはなりたくなかった。
 彼らを理解したかった。
 そして、できることならば彼女のそばにいたかった。



 アルフレッドは右腕に触れた。
 先程から、熱く疼いている。
 いままで無かった痛みが生まれていた。触れると火傷をしたときのように、ぴりりと痛みが走る。
「三本になるまでに、どのくらい時間がかかった?」
 相変わらず携帯の小さな画面から視線を外すことなく、湊が問う。
「さいしょが三月のおわりだったから、三ヶ月くらいです」
「ちょうど熟した頃か」
 独り言のような湊の言葉に、アルフレッドの中の不安が増す。
「あの・・・」
「なんだ?」
「さっき、あなたがいっていたことだけど」
「おまえが獲物だってことか? それともおまえのちょっと変わった彼女がエサだってことか?」
 湊の言葉は容赦ない。
 アルフレッドが問いたいことをわかっていて、わざと遠回りし、彼を痛めつけるような言葉を選んでいる。
 ここに孝元や理彩子がいたら、間違いなく湊を咎めるだろうが、今、あの二人は、それぞれの世界でそれぞれの問題に追われている。九条湊を止める者は誰もいない。
「いえ、それではなく・・・」
「じゃあ、殺すってやつか」
 アルフレッドが怯えたように唇を結んだ。
 湊は携帯を閉じ、畳の上に放り投げた。
 寝転んだまま、天井から下がる電灯を見据える。
「弱肉強食。喰うか、喰われるかだ」
「はい?」
「もう時間がない。俺たちだけじゃない。あっちもな」
「どういうイミですか?」
「日本語が通じなかったか? 生きるか死ぬかってことだ。当然、生き残る方を選ぶよな?」
「オレは、かのじょを、うしないたくありません」
 湊の断定的な言い方を全身で否定するかのように、強い瞳が向けられた。揺るぎのない、熱を孕む瞳だ。
「あの少女が死んだらアンタも死ぬとか、麗しい物語なんか聞きたくないんだけど」
「シオンはわるいものじゃない。オレにはわかるんです!」
「そんな甘いこと言ってるから、痛い目に遭うんだ」
 湊の視線がアルフレッドの顔から外れ、横へとずれる。
 金の髪に隠された彼の左耳には、鋭い刃物で切り裂かれたような大きな傷の跡があった。
 おそらくは、耳の上半分が取れかかったに近いほどの深い傷。
 先刻、河原で湊の血を見て昏倒したアルフレッドを淵から離れた場所まで運ぶときに気づいた。
 接合されたその耳の裏に施された小さな印が、その傷がただの事故が原因ではないことを示していた。
 それは、古くから英国に伝わる封印の術式だった。
 穢れた傷を清めるために施されたものだろう。
 彼のこれまでの態度から、不用意に怪異に近づいたために受けた痛手であることは、容易に想像できた。
 アルフレッドが左耳に手をあてる。
「思い当たることがあるようだな。同じ轍は踏まないのが普通の人間だが、アンタはどうなんだ?」
 アルフレッドが答えられずにいると、湊は急に興味を失ったように、アルフレッドから視線を外して立ち上がった。
 そのまま、六畳一間を横切り、玄関の三和土へと向かう。
「どこへいくんですか?」
 追ってくるのはアルフレッドの弱々しい声。
「準備が必要なんだ。今回は人手が足りないからな。まったく、こんなややこしいことになってるなら、あいつらと一緒に来るんだったよ。俺は肉体労働は向いてないんだ」
「あいつらってダレですか?」
「俺の小間使いたちだ」
 疑問符が浮かぶアルフレッドを置いて、湊は靴を履き、薄い扉を開く。
「明日、会おう」
 湊の声だけ残して、扉が閉まる。
 残された金髪緑目の青年は、熱を持つ右腕を抱くように、畳の上で丸くなった。
大変遅くなりました。半年ぶりでしょうか・・・。待っていてくださった方がいるかどうかわかりませんが、続きです。まだ話が動かなくてすみません。次の5で過去編が終わりそうです。もう少しお付き合いください。次はもうちょっと早めの更新になりますので!