ホタル(エピローグ)

2013.07.10
「おねえちゃん! あっちみたいだよ!」
 野球帽を被った少年が沙耶たちの前方、数メートルで大きく手をあげた。
「ユウキくん、楽しそうですね」
「ふん」
 くすくす笑う沙耶の少し後ろから、ふて腐れた声が返ってくる。
「たかが蛍だろ」
「たかがじゃないですよ。私も一度しか見たことがないんです。昨日、ユウキくんから電話もらってから、楽しみにしていたんです。それにしても、東京で蛍を見られる場所があるなんてすごいですね」
 東京とはいえ中心部からはほど遠く、山あり谷あり田んぼあり、という田舎の風景が広がっている地域だ。まだ蛍が生息していても不思議ではないと思える場所だった。
 蛍は、雨が降っていると出てこないという。
 昨夜から降り出した雨を心配し、沙耶はユウキからの電話の後、久しぶりにてるてる坊主を作って窓辺に下げた。その甲斐あってか、雨は昼過ぎには止んだ。
 そこここに残る水溜まりのせいか、夕方になるにつれ、少し蒸し暑いのはがまんしよう。
 蛍が見られるのだ。
 沙耶の足取りは軽い。
 そんな気持ちの表れか、そのスカートの裾がひらりと舞った。
 今日の沙耶は制服ではなく、ましてや仕事着の巫女装束でもない。膝下丈の真っ白いワンピースに、薄紫のカーディガンを羽織っている。
 私服といえども、沙耶の周囲の空気が澄んでいるような気がするのは、溢れ出る巫女の気質というものなのだろうか。
 湊はユウキを追いかけて少し早歩きになった沙耶の後ろ姿を視線だけで追った。
 それとも。
 今日の沙耶の服が、あの少女を思い出させるからか。
 湊の歩調が、僅かに乱れた。
 これから行く場所は、アルフレッドとスミレの花びらのような少女が出会ったあの川辺だった。
 暇つぶしに妖怪退治に行って、自分もまんまとエサにされ、あやうく喰われるところだったという苦い経験をしたあの場所だ。
 あれは若気の至りとしか言いようが無い。
 川の水をせき止めて水虎を干涸らびさせようという作戦のどこが妖怪退治なのか。
 時間がなかったというのは否定できない。水も完全にせき止めることができなかった。水虎は弱っただけだ。それでも総本山や御蔭神道の助力があれば、仕留めることができたかもしれないが、自分にその力はなかった。なけなしの札も水虎に破られた。アルフレッドが能力者でなかったら、あのまま二人とも水虎の餌になっていただろう。
 歯がゆい思いが、湊の足下からじりじりと這い上がってくる。
 今の自分だったら、完全な策を講じただろう。自分がエサになるというヘマもしなかった。
 あの少女も、もしかしたらあのまま・・・
 アルフレッドは、この季節になると必ず、あの場所に赴く。
 蛍を見るために。
 あの場所にはもう、普通の蛍しかいないというのに。
 生まれて一年ほどで成虫となり、十日ばかりで消えていく蛍を見に。
 毎年、欠かさず。
 いつの間にか、湊の足は動くことをやめていた。
「先生ーっ!」
 その声に顔をあげれば、ユウキに手を引っ張られるようにして沙耶はかなり先を歩いていた。
 薄闇が近づく逢魔が時の中で、真っ白いスカートがふわりと舞う。
「何をいまさら」
 湊は絡みついてくる感傷を振り払うように、伸びすぎた前髪をかき上げ、再び歩き出した。



「あ! アルフレッドさんだ!」
 土手の上に立つと、半ば草に埋もれるように、密やかに流れる小川を見つけることができた。
 その岸辺に長身の男性が一人、土手に背を向けて立っている。
 長い金髪を後ろで一つに縛った姿は、たとえ庭師スタイルをしていなくても、それがアルフレッドであることはすぐにわかった。
「アル・・・」
「待って、ユウキくん」
 ユウキが彼の名を呼び、駆け出そうとするのを、沙耶がそっと手を伸ばして押さえた。
「おねえちゃん?」
 沙耶はアルフレッドの方をじっと見つめている。
 アルフレッドが立つ場所は、そばに緑の葉を茂らせた木立があるせいか、他の場所より夜の色が濃い。
 だからユウキもすぐに気づくことができた。
 その光の流れに。
「あ・・・」
 流れ星のように、ほんの一瞬だった。
 ユウキには、小さな光がアルフレッドのそばを流れたように見えた。慌ててその行く先を追って目をこらせば、川辺の草の上に同じ色の光を見つけた。
 蒼と黄色を混ぜたような透き通る色が、光って、消えて、また光る。
「あれが蛍・・・?」
 知識として知っているとおりの瞬きを前に、ユウキの目が大きく開いた。
 蛍はなぜ光るのか。
 幼虫も光る。
 熱を持たない光。
 冷光。
 今日、昼の間にネットで調べたことが次々とユウキの頭の中に甦る。
 画像も沢山見た。
 すごく綺麗だった。
 けれど、それらは今、目の前の光景に押し潰されて、一瞬で薄っぺらなものになった。
 これまでに使ったどんな言葉を連ねてみても、それを形容することができなかった。ただ「はー」とか「うう」とか息切れみたいな声が漏れるだけだ。
 沙耶はそんなユウキの両肩にそっと手を置いて支えていた。
 食い入るように小さな光の粒を追っては見失い、繰り返しているうちに、ふと気づいた。
 川岸から飛び立った蛍はみな、アルフレッドの方へと寄っていくように見えるのだ。一斉にではない。数匹がふらりとアルフレッドに立ち寄り、また川岸へと帰っていく。そんな動きを繰り返しているのだ。
 もしここにカメラがあれば、アルフレッドの周りをくるりと一周する光の軌跡を撮ることができたかもしれない。ネットで見た多くの画像は、僅かの間の蛍の軌跡を写していたから。
「不思議な人」
 沙耶が誰にともなく呟いた。
 ユウキが駆け出す前に、沙耶はこのことに気づいていた。
 アルフレッドと蛍。
 その場所は完結していて、誰も入れない。
 誰も邪魔してはいけない。
 そんな気がしたから、ユウキを止めたのだ。
「アルフレッドさんも蛍も、なんだか嬉しそうね」
 蛍ばかりに気を取られていたが、改めて見れば、金髪庭師の横顔には優しい笑みが浮かんでいた。
 春先の事件で、満開となった桜木を見上げていたときのように。
 例えがおかしいかもしれないが、観音菩薩のようだとユウキは思った。
 優しげで、どこか悲しげで。
「アルフレッドさんって、何者だろうね」
「そうね。先生は知っているのかしら」
「オッサンじゃ、訊いても教えてくれないんじゃない?」
「そういえば先生は?」
「どっかでへばってるんじゃないの」
「年寄り扱いするな」
「先生! あ・・・」
 沙耶が止める間もなく、湊は土手を乗り越え茂った夏草をずかずかと掻き分けていく。取り過ぎ様、湊の息が少しだけ切れていたのを、沙耶は気づかない振りをした。
 アルフレッドが気づいた。
 周囲にいた蛍たちが一斉に逃げていく。
「あ〜あ、オッサン、台無し」
 沙耶がクスクス笑う。
「こっちにおいで〜!」
 沙耶とユウキを見つけたアルフレッドが笑顔で二人を呼んだ。
 駆け出した先に待つアルフレッドの金の髪で、スミレ色の光の粒がそっと瞬いた。
(了)
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大変遅くなりました。二年越しでやっと完結いたしました。お付き合いありがとうございました!